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終末まであと6時間。私は娘を保育園に迎えに行き、スーパーを買い占め、自衛官の夫が守る街へ家族四人で辿り着いた  作者: 空の異変


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第十一話 3月17日——終末から705日目

705日目の朝、工場の地下に、数万人が下りた。


天井の低い通路に、毛布と水の箱が並んでいる。コンクリートの壁に背中をつけると、上着ごしに湿り気が伝わってきた。


ひまりは、私とお義母さんの間で、絵本を抱えている。


隣の若い母親が、赤ん坊を揺すりながら、私の袖をつかんだ。


「本当に、ここまでは来ないんですよね。」


「堀は深い、壁は厚い。上には、数千の隊員と防衛隊がいます。」


女の人は小さくうなずいて、赤ん坊の背中をたたいた。


10時。天井の奥から、低い音が届いた。


一度。少しして、もう一度。


地下じゅうの話し声が、そこで止まった。


「今の、何?」


「始まった。」


誰かが答えて、それきり、誰も続けなかった。


私は目を閉じて、膝の上で手を組んでいた。目を開けると、組んだ指の上に、黄色い蝶がとまっている。


どこから入ってきたのか、分からない。羽が一度だけ開いて、閉じた。


前の時、この時刻には、私はもう生きていなかった。玄は、壁の外。


私は、世界を変えてしまった。


2日目、砲の音に、銃の音が混じる。


途切れない。途切れないあいだは、壁の上に人がいる。


「まだ、撃ってる?」


向かいの毛布から、男の子が顔を出した。


「撃ってる。だから、大丈夫。」


「沙月ちゃん、少し寝なさい。」


「寝られない。」


お義母さんは、それ以上言わずに、私の肩に毛布をかけ直した。


3日目の夜、天井から細かい砂が落ちてきた。地面の底から、大きなものが崩れる音が一つ、長く響く。


「今の、壁?」


「……分からない。」


壁のどこかが崩れたのなら、その場所に、誰が立っていたのか。


お義母さんが、私の手を握った。もう片方の手で、ひまりの手を握っている。


銃の音は、それからも続いた。


4日目の明け方、音が止んだ。


砲も、銃も、聞こえない。数万人がいるのに、咳一つしない。


天井の電球が、じじ、と小さく鳴った。


ひまりが、私の胸に耳を当てていた。


「ママ、心臓の音、速い。」


お義母さんが、私とひまりの手を、まとめて握り直した。


「黄泉路も、一緒に行こうね。」


私は、二人の手を、両方とも握り返した。


    *


通路の奥の鋼の扉が、重い音を立てて開いた。


煤だらけの隊員が三人、立っている。


「終わりました。……家に、帰っていいです。」


人の波が、階段へ流れだす。


地上は、まだ暗かった。火薬と、何かの焦げた匂いが、風に混じっている。


出口の脇で、年配の男の人が、隊員の腕をつかんでいた。


「息子を捜してるんです。大輔っていうんです。」


「……分かりません。家で、待っていてください。」


男の人は、隊員の腕を放さなかった。隊員も、振りほどかない。


私はひまりをお義母さんに預けて、壁の方へ走った。


壁は、立っている。コンテナと土嚢の列が、白みかけた空の下に続いている。


壁の下に、担架がいくつも並んでいた。どれも、上から布がかけてある。


怪我人はいない。いるのは、死者だけだ。


壁の上で、防衛隊の人たちが、空になった弾薬箱を黙って下ろしている。


弾薬箱の山の上に、史郎が座っていた。顔も腕も煤で黒く、ズボンの膝が両方とも破れている。


弾薬箱の横に、誰のものか分からないスコップが一本、立てかけてあった。


「姉ちゃん。」


史郎は、立ち上がろうとして、また座った。


「怪我は。」


「転んだだけ。何十回も。」


「姉ちゃん、1500メートルも走れない俺が、弾薬箱を500箱以上、運んだんだぞ。」


私は鞄の一番上から赤い袋を出して、飴を一つ取った。包みをむいて、史郎の口に入れる。


「史郎が、一番、えらい。」


史郎は、飴を頬に寄せたまま、鼻をすすった。


「……甘っ。」


「全部、史郎のポイントだから。」


「知ってる。」


「義兄さんは、あっち。最後に見たのは、あっちだ。」


「行って。俺、ちょっとだけ寝る。」


史郎は、弾薬箱の上で、仰向けになった。


    *


史郎の指の先で、壁が一か所、崩れていた。


コンテナが横倒しになって、土嚢の砂が道まで流れ出している。


その手前に、布をかけられた人たちが並んでいた。


布の端からのぞく肩の装備に、見覚えがある。前の時、玄の隊の人たちが、同じものをつけていた。


並んだ布の端から、靴の先が出ている。私はその大きさを、一つずつ確かめながら歩いた。


足が、前に出なくなった。


玄、と呼ぼうとして、喉の奥で声が詰まる。


それでも、一歩ずつ、瓦礫の上を進む。土嚢の砂が、靴の中に入ってくる。


倒れたコンテナの隙間から、朝の風が吹きこんでくる。


崩れた壁の向こうへ、もう一歩踏み出そうとした時、後ろから腕をつかまれた。


「そっちは立入禁止だ。」


嗄れた声だった。


振り返ると、東の空から、日が昇りはじめていた。


逆光の中に、背の高い人影が立っている。光に目が慣れて、顔が見えてきた。


頬も額も、煤で黒い。


目は赤く血走って、顎には、短い髭が伸びている。


玄だった。


「勝ったの?」


玄は、私の腕をつかんだまま、うなずいた。


「ああ、勝った。」


「……よかった。」


「母さんと、ひまりは。」


「地下から出た。史郎も、向こうにいる。」


「そうか。」


玄の胸に、額を押しつけた。硝煙と、土の匂いがした。


背中に回った腕が、少しずつ強くなる。


目の端で、黄色いものが動いた。あの蝶が、玄の肩章にとまって、すぐに朝の空へ飛んでいった。


玄は気づかないまま、私の髪についた砂を、指で払っている。


    *


その夜、ワクチンの最初の成果が出たと、ラジオが告げた。打っておけば、噛まれても感染しない。


812日目には、ゾンビを止める薬剤ができた。1040日目、2月15日、行政の勝利宣言がラジオから流れる。


その春、安全区域の門が開いた。


壁の外は、一面の草。土手の上で、菜の花が揺れている。


ひまりは、5月で8歳になった。お義母さんは、婦人会のコーラスの練習に毎日出かけていく。


史郎は工場に勤めながら、夜は卒論の続きを書いている。玄は相変わらず忙しくて、もうひと月、顔を見ていない。


お腹の子は、5か月になった。


河原の石に座って、友達と石を拾うひまりを見ていると、電話が鳴った。


「何してる。」


「ひまりを見てる。あなたは。」


「後ろを見て。」


振り返ると、普段着の玄が、土手の上に立っていた。手に、紙袋を提げている。


隣に座った玄が、袋から甘栗を一つ出して、殻をむいて私の手にのせた。


終末の前と、同じ甘さだった。


ひまりが、石を握ったまま駆けてくる。


「パパ、おかえり。」


玄は片手でひまりの手を取り、もう片方の手で私を引いて、川べりへ下りていった。


河岸に、私たちのような四人家族が、たくさんいた。

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