第八話 雨の中の数百——終末から343日目
翌朝、取り上げられたレインウェアが、4着そろって返ってきた。
ひまりに着せ直すと、フードの縁から、ゆうべの雨のしずくが落ちる。
米と缶詰は、その夜のうちに集落の大鍋で煮られて、全員の椀に分けられていた。椀を持つ手は、どの人も細かった。
出発の前に、隊長たちが、道で倒したゾンビの血を車体に塗っていく。
「匂いが、少しはごまかせる。」
27人が、車に分かれて乗った。私とひまりは隊長の車。
お義母さんと史郎は、哲平の運転する車の後ろの席だった。
「和子さんのことは、俺が見てる。」
史郎は窓越しにそう言って、ドアを閉める。
隊長は、エンジンをかける前に、助手席の私を見た。
「あんた、柾浜の入口は分かるのか。」
「海側から入ります。運河に架かった橋を渡って。」
「行ったことがあるのか。」
「あります。」
前の時に、とは言わなかった。隊長も、それ以上は聞かなかった。
道に立つ影は、車列に気づくのが遅い。3時間後、絵島市の外れに出た。
隊長が、ボンネットの上に地図を広げる。
「柾浜は、ここです。まだ300km余りあります。」
「なんで、県庁所在地じゃないんだ。人も建物も、あっちの方が多いだろ。」
後ろから、若い男の人がのぞきこんだ。
「復興に要る工場と港があって、堀にできる運河がある。」
若い人は首をかしげた。隊長だけが、地図の上の海沿いの点を、指で押さえていた。
「この先は、数が増えます。今のうちに、車を全部見てください。」
「タイヤと燃料だ。手の空いてる者は、全部見ろ。」
*
雨は、それから毎日降った。
車体に塗った血は、もうどこにも残っていない。
柾浜まで残り50kmの橋のたもとで、隊長は車を止め、外に出て人数を数えた。
27人で出発した車列は、19人になっていた。
いなくなった8人は、みんな、噛まれた人たちだった。
停まった車の列を、雨が叩いている。ワイパーだけが、誰も乗っていない一台の中で動き続けていた。
「あんたのせいで……」
年配の男の人が、私の前に立った。その後ろに、もう二人。
言葉を探しているうちに、目の前に史郎の背中があった。
「村に残ってたら、助かったって言えるのかよ。」
史郎の声は、少しかすれていた。それでも、一歩も下がらない。
「やめろ。」
隊長が、男の人の肩をつかんだ。
「その話は、着いてからだ。全部、まとめて聞く。」
男の人は、何か言いかけて、自分の車へ戻っていった。
*
雨の向こうに、煙突が見えはじめた。
高速道路の高架、錆びた看板、川に架かる白い橋。前の時、この道を歩いて、柾浜に入った。
「あと30分。」
隊長が、ハンドルを握ったまま小さくうなずいた。
「見覚えがあるのか。」
「あの煙突の向こうが、製鉄所です。」
後ろの席で、ひまりが私の袖を引いた。
「もうすぐパパ?」
「うん。」
次の角を曲がったところで、隊長がブレーキを踏みこんだ。
前の道が、埋まっていた。
雨の中に、数百の影が立っている。どれも、こちらを向いていた。
「戻れ。全車、戻れ。」
振り返ると、後ろの道にも、横の路地にも、同じ影が出てきていた。
*
道の脇に、古い3階建ての事務所があった。
「あの建物へ。」
ひまりを抱いて、車を降りる。降りる前に、ドアポケットの発炎筒を、あるだけつかんでいた。
19人が、ガラス戸から中へなだれこむ。
「全員入ったか。」
「19人。入った。」
哲平が、最後の一人の背中を押しこんだ。
史郎と哲平が、受付のカウンターを扉の前へ押していく。お義母さんは、事務机の椅子を次々に積んだ。
扉の外で、うなり声が増えていく。
「3階へ。猟銃は2丁、発炎筒もある。ここなら安全区域から見える。」
誰も、聞き返さなかった。
階段を駆け上がる。3階の窓の網戸は、角が一つだけゆがんでいた。
隊長ともう一人が、窓から猟銃を構えた。乾いた音が、雨の中に二つ、三つ響く。
隊長は残りの弾を数えた。
「……撃てるのは、あと少しだ。」
哲平と史郎が、車から運んできたガソリンの容器を、窓の外へ傾ける。隊長が、火のついた布を落とした。
炎は一度だけ大きく上がって、すぐに雨に叩かれ、黒い煙に変わった。
焦げた匂いが、窓から入ってくる。
私は発炎筒のキャップを外して、窓枠にこすりつけた。
赤い光が、雨の中で煙を噴いた。一本目を窓の外に突き出し、消えかけたところで、二本目をこする。
*
下で、ガラスの割れる音がした。
しばらくして、階段の下の方から、扉の倒れる音。1階が破られた。
「2階の扉、押さえろ。」
押さえていた何人かが、駆け上がってくる。少しして、2階の扉も、内側へ倒れた。
19人全員が、3階の一番奥の部屋に入った。
最後の扉に、机と棚を押し当てる。その上から、人の背中で押さえた。
「押せ。下がるな。」
「押してる。……押してるって。」
私はひまりを胸に抱いたまま、史郎の背中に肩を当てていた。
「姉ちゃん、ひまり、離すなよ。」
「離さない。」お義母さんの手が、私の腰のあたりの服をつかんでいる。
扉の向こうで、爪が板をこする。扉が、内側へ、指一本分ずつたわんだ。
「ママ。」
「大丈夫。ママ、ここにいる。」
その時、遠くで低い音が鳴っていた。
雷にしては、途切れない。同じ間隔で、空気を叩き続けている。
「……雷か。」
「違う。」
哲平が、窓の方へ顔を向けた。
「音が、近づいてくる。」
*
窓の外を、大きな影が横切った。
一機、二機。少し遅れて、もう一機。
回転翼の風が、窓ガラスを震わせる。空から、乾いた連続音が降ってきて、扉の向こうのうなり声が、一つずつ減っていった。
「ヘリだ。3機いる。」
「……本当に、あったんだ。安全区域。」
誰かが、扉に背中を当てたまま泣きだした。
下の道に、装甲車が入ってくる音がした。階段を上がってくる、重い靴の音。
扉の外で、男の人の声。
「中の人、扉から離れてください。開けます。」
机をどけると、黒い面をつけた人たちが、銃を構えて入ってきた。
銃口は、まだ下がらない。感染者がいれば、その場で処置する構えだった。
顔は、黒い面に覆われている。見えるのは、目のところだけだ。
「怪我をした人、噛まれた人はいますか。」
「19人。噛まれた者はいない。」
隊長が、猟銃を床に置いて答えた。
並んだ黒い面の、左から三人目。
その目を、私は知っていた。
鷹のような目。前の時、安全区域の門で、私を見つけた目。
ひまりを抱いたまま、一歩、前へ出た。
「玄」と呼んだところで、目の前が暗くなった。




