第七話 山の集落——終末から335日目
出発の朝、防火扉から外して積んだスコップ2本が、段差を越えるたびに荷台で鳴った。
「姉ちゃん、前、また詰まってる。」
交差点の真ん中で、乗り捨てられた車が二台、鼻を突き合わせていた。
バンパーを当てて、アクセルを踏む。金属のこすれる音がして、片方の車が横へずれていく。
選んだのは、正月の車列が抜けていった山側の道だった。あの人たちの車が通れたのなら、うちの車も通れる。
道の両側に、押しのけられた車が斜めに並んでいる。
「あいつら、律儀に道、作っていってくれたんだな。」
「おかげで、走れる。」
街には、音がなかった。
アスファルトの割れ目から、膝の高さまで草が伸びている。アーケードの下を、痩せた犬が三匹横切った。
市の境の看板を過ぎたのは、出発して2時間後だった。
*
夜は車の中で、史郎と交代で起きた。道はあちこちで塞がっていて、トンネルの手前で引き返し、橋の手前でまた引き返す。
出発して3日目に、雨が降りだした。細くて、やまない雨だった。
「菜種梅雨ね。」
お義母さんが、曇った窓を指で拭いた。
「史郎、方角。」
史郎が袖をまくって、腕時計を傾けた。文字盤の縁に、小さな方位磁針がついている。
「こっちが東。たぶん。」
「たぶん、は困る。」
「じゃあ、きっと。」
県境のトンネルを抜けたのは、4日目の夕方だった。
*
山あいの国道沿いに、給油所が一軒あった。
売店のガラスは割れている。軒下の自販機は、側面の色がそこだけ白っぽく褪せていた。
「姉ちゃん、機械、動かないだろ。」
「地面の下に、タンクがある。」
前の時、給油所で働いていた仲間に教わったやり方だった。地面の蓋を二人がかりで開けて、マンションから持ってきたホースを差しこむ。
しばらくして、ホースの先に、色のついた液体が上がってきた。
「出た。……マジで出た。」
後ろで車のドアが開いて、お義母さんがひまりを抱いて降りてきた。
「お義母さん、車にいて。」
「ひまり、吐いちゃったのよ。少しだけ、外の空気を吸わせて。」
ひまりの顔から、血の気が引いていた。
私はホースを史郎に任せて、ひまりを受け取った。
「軒の下で、少し休もう。」
車から十歩ほど離れたところで、山の上から乾いた音が続けざまに降ってきた。
振り向くと、斜面の土が、木ごと道へ滑り落ちてくる。
大きな岩が一つ、車の屋根に乗った。
泥の流れが止まるまで、誰も動けなかった。
後部座席の屋根が、背もたれの高さまで沈んでいる。ついさっきまで、ひまりが座っていた場所だった。
お義母さんが、道端の小さな祠の前に膝をつく。苔の生えた石の屋根に向かって、両手を合わせた。
「孫が、命を救ってくれました。ありがとうございます。」
額が、濡れた土につくまで頭を下げていた。
*
史郎が、給油所の裏から、錆びた手押し車を引っぱってきた。
「タイヤ、空気が残ってる。奇跡。」
潰れた車から出せた分の食べ物と水、ガソリンを詰めたペットボトルを荷台に積む。その上に、ひまりを座らせた。
四人とも、レインウェアを着てフードをかぶった。ひまりの袖は、1年前より手首の上で止まる。
雨の中を、3日歩いた。
史郎が手押し車を押し、私が前を歩く。3日目の昼、錆びた青い標識が見えた。
「絵島市まで100km」
ひまりが、荷台の上から標識を指さした。
「……歩いたら、何日だよ。」
「数えない。」
*
谷あいの屋根から、細い煙が上がっていた。動く車が、あるかもしれない。
集落の手前で足を止めた時には、もう遅かった。
生け垣の陰から、人が出てくる。
20人あまり。男も、女もいた。
何丁かの猟銃が、こちらを向いている。ほかの人の手には、鉈。
「荷物を置いて、下がれ。」
前に出てきたのは、40代くらいの男の人だった。猟銃の先を下に向けたまま、私たちの手を見ている。
手押し車の荷台から、順番に下ろされていった。
米の袋。缶詰。
水の箱。乾麺と、干物の残り。
それから、スコップ2本とハンマー。四人の背中から、レインウェアがはがされた。
ガソリンのペットボトルは、別の人が黙って抱えていった。
ひまりが、私の脚にしがみついている。
「殺しはしない。ここにも置かない。」
雨の中を手ぶらで歩けば、四人とも何日ももたない。
「待ってください。交換を、させてください。」
男の人が、眉を上げた。
「今のあんたらに、何がある。」
私はシャツの下から、布にくるんだ写真立てを出した。
ガラスの向こうに、制服の玄が立っている。
「夫は自衛官です。柾浜で、安全区域を造っています。」
「そこまで、私が道を案内します。代わりに、一緒に連れていってください。」
「電話もネットも、とっくに止まってる。」
「信じる根拠は。」
「車のラジオで、安全区域の呼びかけを聞きました。さっきの崖崩れで車が潰れなければ、聞かせられたんです。」
放送が始まるのは、まだ先だ。
「隊長、乗っちゃだめだ。」
後ろの若い男の人が、鉈を握り直した。
「仲間が、どこかで待ってるかもしれない。前にも、それでやられたろ。」
声が、あちこちから重なる。その中に、聞き覚えのある声が一つ混じっていた。
前の時、この声と一緒に、いくつも夜を越えた。鉈を下げた、背の高い若い人。
「哲平さん。」
その人の肩が、びくりと揺れた。
「姉さん、俺の名前、どこで聞いたの。」
「鶴砂の、川沿いの給油所にいたでしょう。国道の、橋の手前の。」
「給油所の……」
「暑い日に、お客さんに冷えた水を一本ずつ配ってた。店長に、怒られながら。」
前の時に、本人から聞いた話だ。
哲平は、しばらく黙っていた。
「……配ってた。それは、本当。」
「でも、俺に分かるのは、給油所のことだけだよ。」
ひまりが、私の後ろから顔を出して、哲平を見上げた。
「おじさん?」
誰も、何も言わなかった。
雨の音だけが、生け垣の葉を叩いている。猟銃を構えていた女の人の目が、ひまりの小さな靴のところで止まって、動かなくなった。
鉈を持った男の人が、後ろを向いて、空を見た。
*
隊長と呼ばれた人が、写真立てに目を落とした。
「名前と給油所は、合ってる。安全区域があるかどうかは、別の話だ。」
「分かっています。」
私は写真立てを、お義母さんに渡した。
「安全区域がなかったら、私の命はあなたたちに預ける。」
右手を、肩の高さに挙げた。雨が、袖の中まで流れこんでくる。
隣で、もう一つの手が挙がった。
お義母さんが写真立てを胸に抱えて、もう片方の手を、まっすぐ空へ伸ばしていた。
「息子は、立派な自衛官です。」
声は、震えていなかった。
哲平が、一歩前に出た。
「隊長。俺からも、頼む。」
「ここの食い物、もうひと月ももたないの、みんな分かってるだろ。」
隊長は、荷台から下ろされた米の袋を見た。それから、ひまりを見た。
「着かなかったら、あんたが責任を取る。いいな。」
「はい。」
隊長は、猟銃の先を地面に向け直した。
「一度だけ、信じる。」




