第六話 雪——終末から51日目
私も、あの時は。
その日の昼から、熱が出た。
掌の傷が赤く腫れて、脈を打つたびに熱を持つ。お義母さんが消毒薬を含ませたガーゼで傷を拭き、塗り薬を薄くのばしてから、包帯を巻き直した。
「沙月ちゃん、今日は起きないの。」
「でも、見張りが……」
「俺がやる。」
史郎が、包帯の残りを箱に戻しながら言った。
二日、寝た。天井の染みの形を、一つずつ数える。
枕元には、ひまりが描いた絵が一枚、折りたたんで置いてあった。
熱が引いた朝、史郎が枕元に座っていた。
「二日、全部の窓を見てた。夜の灯りも、朝の音も。」
「うん。」
「もう誰もいない。この団地で生きてるの、たぶん俺たちだけだ。」
史郎は、それだけ言うと、私の額に濡れタオルを載せ直した。
「声、これからも小さくしとこうな。」
*
120日目。
納戸の段ボールの側面に、薄い印字が残っていた。何の数字だったのか、もう読めない。
「姉ちゃん、水、あと何箱?」
「9箱。雨水のタンクは、半分。」
「食い物は、まだ3分の2あるのにな。」
史郎は、空のペットボトルを潰さずに、棚に戻した。
台所では、お義母さんがお米を計るカップを、すりきりから八分目に変えていた。
「ひまりの分だけは、減らさないからね。」
「梅雨、来なかったな。」
「前の時は、6月から毎日降ってた。」
窓の外の空は、白く乾いていた。花の消えたプランターの土に、細いひびが走っている。
*
200日目、10月28日。窓の外に、雪が降っていた。
前の時の初雪は、1月だった。2か月、早い。
暖房はない。四人とも、持っている服を全部重ねて、毛布を一枚ずつかぶった。
吐く息が、部屋の中でも白い。ひまりは、お義母さんの膝の間に収まって、毛布の端から目だけを出していた。
「今日、玄の誕生日なのよ。」
お義母さんの手に、写真立てがあった。寒さで、指の関節が赤くなっている。
制服姿の玄が、写真の中に立っている。ガラスには、お義母さんの指の跡がいくつもついていた。
「32歳ね。こんな日に。」
私は写真立てを受け取って、袖でガラスを拭く。
結婚した日、私は、あなたは国を守る、と言った。そのあとに続けた言葉が、ガラスを拭いているあいだ、どうしても出てこなかった。
演習に出る朝、「いつ帰るの」と聞いたことがある。玄は答えないで、玄関でひまりの小さな靴を揃えてから出ていった。
帰る日を、口にしない人だった。
「沙月ちゃん。」
お義母さんが、私の手の中の写真を見ていた。
「来年の5月には、玄に会えるのね。」
「会える。」
途中で何も起きなければ。
お義母さんは写真立てを受け取り、胸に抱え直して、何度かうなずいた。
前の時、安全区域は全国に30余りできた。東の区域が人を受け入れはじめたのは、5月。
窓の外を見ていた史郎が、こちらを振り向いた。
「なあ、安全区域ができてるなら、なんで今行かないんだよ。義兄さんのとこ。」
「この雪で車が止まったら、四人とも凍える。」
「……春まで、か。」
「春まで。」
史郎は、窓ガラスに指で何か書きかけて、手のひらで消した。
*
265日目、正月。
お義母さんが、固形燃料に火をつけた。小さな青い火の上で、真空パックの肉を温める。
缶詰の黒豆と、海苔と、白菜の最後の葉。
最後の一本の炭酸を、四つのコップに分けた。ひまりのコップだけ、少し多めに。
「生きてて、おめでとう。」
お義母さんが、小さな声で言った。四つのコップが、音を立てないように触れ合う。
「……炭酸、抜けてる。」
「史郎くん、文句言わないの。」
窓の下の雪の中に、ゾンビが何体も立っていた。どれも肩に雪を積もらせたまま、動かない。
食器を片づけ終えたころ、車の音がした。
一台ではない。エンジンの音が重なり、乾いた銃声が混じる。
カーテンの隙間から、7、8台の車が見えた。窓に鉄板を打ちつけた車が、スーパーの前に止まっている。
降りてきた男たちの何人かが、長い銃を肩にかけていた。猟銃だった。
「……自衛隊じゃ、ないよな。」
「違う。」
男たちはスーパーから出てくると、こちらの団地を指さした。
車列が、敷地に入ってくる。一棟ずつ、扉の開く音と、足音。
私はひまりを毛布ごと抱いて、和室の隅に座った。お義母さんが、ひまりの耳を両手でふさぐ。
足音が、うちの棟の下で止まった。
「オートロックは壊れてる。全部荒らされた後だ。」
「次。」
足音が、遠ざかっていく。
50日目に壊された扉が、今日の私たちを隠した。
車列は、川とは反対の、山側の道へ抜けていく。最後の一台が角を曲がるまで、私はカーテンの隙間から見ていた。
*
330日目、団地の中庭の梅が、白く咲いた。
雪はもう、日陰にしか残っていない。
史郎と二人で、28階分の非常階段を下りた。下りきるころには、膝が笑っていた。
地下駐車場のうちの車は、柱の陰で埃をかぶっている。キーを回すと、二度目でエンジンがかかる。
「……かかった。」
「タイヤも、まだいける。」
まわりの車から燃料を集めるのに、バルコニーで水やりに使っていたホースを持ってきていた。空のペットボトルが、一本ずつ重くなっていく。
奥の柱の陰で、何かが動いた。
一体、こちらへ歩いてくる。足を引きずる音が、コンクリートに響いた。
史郎が、ハンマーを持って前に出た。
「俺がやる。」
「史郎。」
「やらせて。」
私はバールを構えたまま、半歩うしろに下がった。
それは、すぐに終わった。
史郎はハンマーを下げたまま、しばらく立っている。それから駐車場の隅へ走っていって、吐いた。
背中をさすると、肩が細かく震えている。
「……ごめん。ちょっと、待って。」
「待つ。」
吐くものがなくなるまで、私は史郎の背中に手を置いていた。
帰りの28階分を、史郎は一度も休まずに上った。
*
335日目、3月12日。晴れ。
1年待つと書いた日まで、まだひと月ある。米の袋は残り一つになり、雪の解けた道は、今なら車で走れる。
「全部、持った?」
「持った。」
お義母さんが、写真立てを布にくるんで、私に差し出した。
「これは、沙月ちゃんが持ってて。」
お義母さんが、ガスの元栓と窓の鍵を、一つずつ指でさしていく。
「元栓、よし。窓、よし。」
ひまりが、玄関で自分の靴を自分で履いている。
壁には、ひまりの描いた28個の窓の絵が、貼ったままになっていた。
玄関の鍵をかけた。




