第五話 ヘリの声——終末から10日目
その声に応えたのは、私たちではなかった。
階段の吹き抜けの底から、ガラス戸を叩く音と低いうなり声が上がってきて、二人の足音は自分たちの階へ駆け戻っていった。
しばらくして、お義母さんが和室の襖を開ける。
「あの日、煮物なんか……」
最後まで言わずに、お義母さんは台所へ行った。戻ってきた時、その手には包丁が握られている。
「お義母さん。」
「持ってるだけ。持ってるだけよ。」
その夜、私はひまりと並んで、画用紙に家の絵を描いた。ひまりの描く建物には、四角い窓が28個並んでいた。
*
20日目、向かいの棟の窓から、シーツが何枚も垂れ下がっていた。
「たすけて」「水」「こどもがいます」。マジックの文字が、雨の跡でにじんでいる。
私は史郎と納戸に入って、水の箱を一つずつ壁際へ動かした。
「21、22、23……24。」
「24箱。」
史郎が、一番上の箱の角を指でなぞった。
「最初、42あったよな。」
「暑くなったら、もっと早く減る。」
「……煮炊き、もうちょい減らすか。」
「お米を研ぐ水は、雨水にする。」
16時、ヘリの音が近づいてきた。
一機だけだった。向かいの棟の真上で止まり、吊るした荷物を屋上へ下ろしていく。
窓という窓が開いて、歓声が上がる。それはすぐに、怒鳴り声に変わった。
屋上の手すりの際で、何人もがもつれ合っている。段ボールの端を、いくつもの腕が引っぱっていた。
遠すぎて、顔は見えない。
「……殴り合ってる。」
「見なくていい。」
ヘリのスピーカーから、声が降ってきた。
「皆さん、聞こえていますか。荷物は、全員の分を用意しています。」
若い女の人の声だった。少しかすれて、よく通る。
「私と仲間が生きているかぎり、必ず届けます。」
ひまりが、私の足にしがみついたまま、空を見上げている。
次の日も、同じ時間にヘリは来た。
その次の日も、同じ声が、同じことを言った。
23日目、ひまりは昼ご飯のあと、ずっとバルコニーの手すりの前に座っている。
16時を過ぎても、空には何も来なかった。
次の日も、その次の日も。
「あのお姉さん、今日は来ないの?」
ひまりが、私の袖を引いた。
「あのお姉さんは、別の場所へ行ったんだよ。」
どこへ行ったのか、私は知らない。
ひまりは返事をせずに、手すりの向こうの空を、もう一度だけ見上げた。
30日目、白菜の若い葉を、初めて間引いた。お義母さんがカセットコンロで、油を一滴だけ落として炒める。
「……緑の味がする。」と、史郎が箸を止めた。
「明日は、お味噌汁に入れようね。」
*
50日目は、朝から細い雨だった。
バルコニーのバケツに、雨の音が溜まっていく。
お義母さんがリビングの真ん中に新聞紙を広げて、史郎の髪を切っていた。
「史郎くん、動かないの。耳まで切るよ。」
「和子さん、もうちょい短くても、俺は全然……」
右半分を切り終えたところで、非常階段の防火扉が、外から叩かれた。
一度では終わらない。体ごとぶつかる音が、続けざまに響く。
「開けろ。この階に誰かいるのは、分かってるんだ。」
「隠れてるんなら、入ってから、まとめて片づけてやる。」
その後ろから、女の人の声がした。
「分けてもらえるなら、それで……誰も、殺さなくても……」
平手の音が、廊下まで響いた。
「黙ってろ。」
何かが階段を転げ落ちる音。女の人の声は、それきり聞こえなくなった。
ひまりが、私の胸に顔を押しつけてきた。
史郎は、半分だけ短くなった頭のまま、ハンマーを握っている。お義母さんは包丁を持って、和室の襖の前に立った。
私はひまりを和室に入れて、台所へ行った。
流しの下から、出刃包丁を出す。スコップを壁に立てかけて、包丁に持ち替えた。
「姉ちゃん、それ……」
「持ってるだけ。」
金属の裂ける音がして、防火扉が開いた。
足音が、廊下になだれこんでくる。三人か、四人。
私は玄関の内側で、史郎と肩を並べて立った。史郎の肩が、私の肩に触れている。
「……来る。」
最初に壊されたのは、隣の扉だった。
蝶番の外れる音。50日、閉じたままだった部屋の匂いが、玄関の隙間からこちらにまで流れてきた。
男たちの悲鳴が上がった。
「なんだよ、これ……」
「いる、この階にもいるぞ、逃げろ。」
足音が、もつれながら階段を駆け下りていく。手すりにぶつかる音、段を踏み外す音。
ずっと下で、エントランスのガラスの割れる音。
史郎がバルコニーへ走って、手すりから下をのぞいた。
「入口、破られた。」
悲鳴が、吹き抜けを上ってくる。一つ、二つ、三つ。
それから、何かを噛む音と、低いうなり声だけが残った。十秒も、かからなかった。
うなり声は、階段を一段ずつ上がってくる。止まらない。
私は寝室に走って、古いシャツとタオルを床に広げた。
自分の掌を切った。
「沙月ちゃん!」
シャツに、血がにじんで広がっていく。その中に花壇の石を包んで、固く縛った包みをいくつも作った。
バルコニーから、一つ目を下へ投げた。
ずっと下で、小さな音。階段のうなり声が、向きを変えて遠ざかっていく。
お義母さんに、残りの包みを渡した。
「上がってきたら、次を投げて。」
お義母さんは包丁を床に置いて、血のついた包みを両手で受け取った。
「行って。こっちは、私がやる。」
私はスコップを2本と、自転車のチェーンロックを持って廊下に出た。史郎が、ハンマーを持ってついてくる。
防火扉は、開いたまま揺れていた。
剥がれた塗装の下で、枠はまっすぐ立っている。蝶番も、無事だった。
壊れているのは、錠だけだ。
踊り場に、女の人が倒れていた。片方の靴が脱げかけて、かかとが段の角に引っかかっている。
「……すみません……」
かすれた声だった。保育園のお迎えの列で、何度も聞いた声。
「ののかちゃんの、ママ?」
返事の代わりに、指が少しだけ動いた。
「史郎、手伝って。」
二人で、28階まで運び上げた。
防火扉は、スコップ2本とチェーンロックで閉じた。玄関の内側にも、棚と机を寄せる。
しばらく待っても、階段から上がってくるものはなかった。
*
ソファに寝かせると、ののかちゃんのママは薄く目を開けた。
お義母さんが、湯呑みに砂糖を溶かして持ってきた。私が、スプーンで少しずつ口に運ぶ。
「……甘い。」
お義母さんが、鍋に残っていた素麺を、小鉢に取り分けてきた。
「これも、少し。」
ののかちゃんのママは、首を小さく横に振った。
「それは、そちらのお子さんの分に。」
それから、私の方へ顔を向けた。
「ごめんなさい。あの人たちと一緒に、ここまで来たのに。」
「あなたは、扉を叩いてない。」
目の端から、涙が一筋、こめかみの方へ流れていった。
包帯を巻いた私の手を、お義母さんが黙って膝の上に戻した。
和室の襖の陰から、ひまりがこちらをのぞいている。
「ひまりちゃん。」
呼ばれて、ひまりは私の後ろに回った。それから、顔だけ出した。
「ひまりちゃん、最後に保育園で会った日、ののかは何をしてた?」
ひまりは、少し考えた。指を一本、くちびるに当てる。
「牛乳、飲んでた。」
ののかちゃんのママは、天井を見ていた。
「そう。よかった。」
その夜は、交代で彼女のそばにいた。
翌朝、バルコニーには、片方の靴だけが残っていた。




