第四話 水が止まる——終末から4日目
4日目の朝、お義母さんが蛇口をひねっても、水は出なかった。
「出ないね。」
お義母さんは、もう一度ひねって、さらにもう一度ひねった。蛇口の先から、しずくが一つ落ちただけだった。
私は納戸から、簡易トイレの箱を出してくる。
「お義母さん、トイレはこれ。使ったら袋を縛って、このバケツに。」
「バケツは、バルコニーの端ね。ひまりの手が届かないところ。」
二人で袋の束を数えて、洗面所の棚に並べた。お風呂の残り湯は、手を洗う分と、体を拭く分に分ける。
「史郎くん、今日からお風呂は、タオル一枚よ。」
「了解。……髪、洗えないのか。」
「洗えない。」
昼前から、風に乗って、甘ったるいような匂いが上がってくるようになった。
マスクの箱を開けて、一人に一枚ずつ配った。ひまりの分は、耳のゴムを結んで短くする。
「史郎、窓は北側の小さいのだけ開けて。」
「北ね。」
夕飯の前、お義母さんがビタミンの瓶を振って、茶碗の横に一粒ずつ置いていった。
「史郎くんも。ちゃんと飲んで。」
「これ、ちょっと甘いやつだ。」
史郎は、ひまりと同時に口に放りこんだ。
*
5日目、スマホのアンテナが一本になったり、消えたりした。
夜になると、画面の隅に「圏外」とだけ出て、それきり変わらなくなった。
お義母さんが、自分のスマホを両手で包むように持っている。
「沙月ちゃん。あの子には、もうつながらないの?」
「今は、つながらない。」
送信済みのメッセージが二通、私の画面に残っている。どちらにも、既読はついていない。
「そう。……じゃあ、充電は、もったいないね。」
お義母さんは、電源を切ったスマホを、エプロンのポケットにしまった。
*
6日目の昼、川向こうの道路に、車の列が見えた。
緑色の車と、白い車。拡声器の声が、風に切れ切れに混じって届く。
列は橋の手前で止まった。そこへ、黒い人の波が、川沿いの道からも、裏通りからも押し寄せていく。
腹に響く音が、二度した。
煙が薄くなると、橋の真ん中がなくなっていた。車の列は、来た道を引き返していく。
ひまりを抱いて、バルコニーに出た。煙は、夕方になっても、細く空に伸びている。
「ママ。」
ひまりが、煙の方を指さした。
「パパが来たの?」
「うん。」
あの煙の向こうに玄がいたのかどうか、私は知らない。
ひまりは指をさしたまま、ずっと煙を見ていた。手すりを握るもう片方の手に、力が入っていた。
*
7日目、ガスが止まった。
コンロのつまみを回しても、カチカチと鳴るだけで、火はつかない。
「和子さん、これ。」
史郎が納戸から、カセットボンベの箱を抱えてきた。卓上コンロを調理台に据えて、一本目をはめこむ。
「ありがと。お米は、今日からお鍋で炊こうね。」
その日の朝は、車の音で目が覚めた。
カーテンの隙間から見下ろすと、黒い乗用車が一台、通りを走ってくる。道に立つ影を押しのけるようにして、スーパーの前で止まった。
男の人が一人、店の中へ駆けこんでいく。
出てきた時、その腕には、粉ミルクの缶が四つ。
「……赤ちゃんの、だね。」
後ろで、お義母さんの声。
足の速い人だった。車まで、あと少しだった。
まわりから集まってきた影が、男の人を囲んだ。
影が散ったあと、アスファルトの上には、缶だけが残っている。
一つが日なたまで転がって、止まった。その側面に、血がついていた。
向かいの棟のあちこちで、カーテンの閉まる音。
「……前の時の俺、早めにゾンビになっといて、正解だったかもな。」
「今度は、そうはさせない。」
「厳しいな、姉ちゃん。」
史郎は笑いかけて、やめた。それから、ボンベの残りを数えに納戸へ行った。
「24本。一日一本なら、24日。」
「半分にする。」
夕方、どこかでプロペラの細い音がした。
小さなドローンが一台、棟の間を回っていた。ぐるりと一周して、同じ敷地の、別の棟の陰に降りていく。
「……近いな。」
「カーテン、閉めて。」
*
10日目は、朝から土砂降りだった。
家じゅうの鍋とバケツと洗面器を、バルコニーに並べる。
私はガーゼの袋を開けた。花壇の小石を詰めた容器に、何重にも張っていく。
「それ、飲めるの?」
「飲まない。洗い物と、畑の分。」
濾過器を通った水が、下のバケツに細く落ちていった。
育苗トレーの白菜は、3センチほどの葉を広げていた。トレーの隅には、雨の届かない乾いた土が、少しだけ残っている。
昼過ぎに雨が上がると、空気から腐った匂いが薄れた。
「マスク、取っていいよ。」
四人で、同時にマスクを外した。お義母さんが、深く息を吸って、吐く。
ひまりが私の袖を引いて、手すりの根元を指さした。
小さな蝸牛が、濡れたタイルをのぼっている。お義母さんがしゃがんで、ひまりと並んだ。
「おうち、背負ってるねえ。」
カセットコンロで湯の沸く音が、雨上がりのバルコニーまで聞こえてきた。
*
日が傾いたころ、またドローンの音がした。
今度は、機体の下に小さなスピーカーがぶら下がっている。
「どなたか、食べ物を分けてください。新品のブランドのバッグと、交換します。」
若い女の声だった。
どこかの窓が開いて、男の声が返った。
「外車と替えてやる。鍵ごと渡す。」
別の窓から、もっとかすれた声。
「このマンションの部屋を一つ、まるごとやる。米一袋でいい、米一袋で。」
誰も、答えなかった。
ドローンが戻っていってしばらくすると、下の方から、扉を叩き壊す音が聞こえはじめた。
一つ止むと、別の階で始まる。音は少しずつ、上へ上がってきた。
私はスコップを持って、玄関の内側に立った。
史郎がハンマーを持って、横に来る。お義母さんは、ひまりを和室に連れていった。
非常階段の防火扉が、外から押された。植木鉢が、床をこする音。
「開かねえな。」
「この階、誰かいる。」
男の声が二つ。扉一枚向こうで、息を切らしている。
「この前、煮物の匂いがした。」
もう一人が、扉を蹴った。
「あの日、女が何度も荷物を運んでた。最上階の部屋だ。」
スコップの柄が、手のひらの汗で滑った。
「女二人と子ども一人。男はいない。」




