第三話 バルコニーの畑——終末から2日目
2日目の朝、史郎がスマホで動画配信を流していた。
画面の中で、目の下に隈を作った男が、震える声で原稿を読んでいる。
「都市部の地上救助は断念し、空からの投下だけを散発的に続ける方針だそうです。……以上です。」
「音、小さくして。」
「あ、ごめん。」
10時ごろ、ヘリが何機か、低く飛んできた。乾いた音を立てて地上を撃ち、弾が尽きたのか、高度を上げて、それきり戻ってこなかった。
「行っちゃった。」
史郎の声は、もう驚いていなかった。
ヘリの音が遠ざかると、下の通りのうなり声が、また耳に戻ってきた。
ルーフバルコニーに、育苗トレーを並べる。
この部屋を買う時、28階の最上階を選んだのは私だった。日当たりと、風のために。
花を少しずつ増やして、玄が帰ってくるたびに一鉢ずつ見せるつもりでいた。
「史郎、そこのプランターの土、全部使って。」
史郎がスコップで、プランターの土をトレーに移す。私は、大根と白菜の種を、ひと穴に二粒ずつ落としていった。
白菜の種は、ひまりの爪の先よりも小さい。指先でつまむと、湿った土の上で見えなくなった。
「姉ちゃん、これ、いつ食える?」
「白菜の若い葉なら、ひと月くらい。」
「微妙に長いな。」
「大根は、もっとかかる。」
「……卒論より長いじゃん。」
お義母さんがじょうろを持ってきて、ひまりにも小さいのを持たせた。トレーの隅に、こぼれた土が少し残っていた。
ひまりは水をやり終えると、手すりの隙間から下をのぞいている。
「どうして帰らないの?」
私は、しゃがんでひまりの頭に手を置いた。
「重い病気なの。だから、お家に帰れない。」
「ああいう人を見たら、すぐに隠れて。近くに行ったら、ひまりもお家に帰れなくなるから。」
ひまりは、じょうろを両手で抱えたまま、こくんとうなずいた。
トレーの土に、水の染みた跡が黒く広がっていく。
*
夜、実家から映像通話がかかってきた。
「車を直したら、母さん乗せて、そっちに行く。」
父の後ろで、母が小さく首を振っている。
「来ないで。お父さんたちの近くにも、安全な場所ができるから、そこで待ってて。」
「なんで、お前にそんなことが分かる。」
「前に一度、この日を見てきたから。」
画面の外から、母が米袋の口を広げて見せた。
「納屋に、1年分はあるからね。こっちの心配はいらないよ。」
父は、しばらく画面の外を見ていた。
「玄くんから、何か聞いたんだな。」
「違う。」
「婿が漏らしたんだろう。自衛隊なら、前から何か知ってたんだ。」
それ以上は、言っても届かなかった。
「……分かった、動かん。足もこれだしな。」
画面が消えてから、史郎がぼそっと言った。
「父さん、信じてないね。」
「うん。でも、動かないって言った。」
*
3日目の朝、停電した。
冷蔵庫が黙り、Wi-Fiのランプが消える。エレベーターも止まった。
管理人室の非常用発電機が、水のポンプだけをもう一日動かしてくれた。蛇口をひねると、まだ水が出る。
私はスマホのデータ通信で、玄にもう一通、メッセージを打った。
「ここで1年待つ。迎えが来なければ、東の安全区域へ向かう。お義母さんも、ひまりも、史郎も一緒。」
送信の印がついた。既読は、つかない。
画面の隅の電池は、6割を切っていた。
「それ、届くの?」
史郎が、私の手元をのぞきこんだ。
「届かなくても、残る。」
「残って、どうすんの。」
「いつか、この画面ごと見せる。」
史郎は、それ以上は聞かなかった。モバイルバッテリーの残量を一つずつ確かめて、充電の順番を紙に書いた。
その夜からは、懐中電灯を一本だけ天井に向けて点けることにした。白い輪の下で、四人並んで乾麺をすする。
*
昼、夜番の続きでうたた寝をして、目が覚めたのは15時過ぎだった。
リビングでは、ひまりがクレヨンで絵を描いている。
台所から、醤油と砂糖の匂いが流れてきた。
お義母さんが、ガスの火にかけた鍋をのぞいていた。肉とじゃがいもが、くつくつ煮えている。
台所の窓が、少し開いていた。
私は台所に駆けこんで、火を止めた。
「あら、まだ味が染みてないのに。」
「こんなに匂いのするもの、作らないで。外まで届くから。」
窓を閉めて、鍵をかけた。
「でも、冷蔵庫が止まったでしょう。お肉は、今日食べないと傷むのよ。」
「今は、まだ平気。でも、もう少ししたら、みんなお腹を空かせる。」
前の時、匂いをたどって扉を叩きに来た人たちがいた。扉の向こうの声を、私はまだ覚えている。
コンロのつまみから、手が離れない。指が、つまみの上で小さく震えていた。
お義母さんが、割烹着の袖で手を拭きながら、こちらへ来る。
乾いた、温かい手が、私の頬に触れた。
「沙月ちゃん、どれだけ苦労したの。」
答えられなかった。お義母さんの手のひらに、頬をあずけたまま立っていた。
割烹着から、出汁と洗剤の混ざった匂い。
「……分かった。明日からは、匂わないものにするね。」
ひまりが、クレヨンを持ったまま、台所の入口からこちらを見ている。
「ご飯、もう少しあとでね。」
鍋は、冷めるまで蓋をしておいた。




