第二話 15時00分——終末から1日目
ひまりは、和室の布団で寝息を立てている。絵本を二冊読んで、ようやく閉じた目だった。
和室のカーテンを引き、リビングのカーテンも引いた。窓の前の、手のひら一枚ぶんだけを残して。
お義母さんは、廊下まであふれた箱の間にしゃがんで、缶詰を種類ごとに分けている。
「これ、1年かかっても食べきれないよ。」
足りない。これでは、まだ足りない。
発電機も、雨水をためる仕組みも、6時間では手が回らなかった。
「お金、ずいぶん使ったでしょう。」
「うん。」
史郎はソファの肘掛けに座って、ハンマーの値札を爪ではがしていた。
「姉ちゃん、そろそろ説明してくれてもよくない?」
「あと1分。」
*
カーテンの隙間に、顔を寄せた。
15時。終末は、1分も1秒も遅れずに来た。
最初は、下の広場から上がった悲鳴だった。
自転車の人が、自転車ごと横に倒れる。駆け寄った人が、その上にかがみこむ。
同じ形の騒ぎが、通りのあちこちで起きはじめる。
「……何、あれ。」
振り向くと、史郎が真後ろに立っていた。
走る人と、それを追う人。追う方の足取りだけが、どこか違っている。
エントランスの前で、あの若い警備員さんがスマホを耳に当てていた。その姿が、人の塊に呑まれて見えなくなる。
広場に倒れていた人たちが、首を傾けたまま立ち上がった。
お義母さんが私の肩越しに下を見て、そのまま床に崩れた。
「お義母さん。」
史郎と二人で、ソファまで運んだ。
史郎は、窓と私と、廊下の箱の山を順番に見た。
「……これのためか。」
「うん。」
お義母さんが目を開けたのは、5分ほどしてからだった。
「沙月ちゃん、今の、何?」
私は、二人の前に座った。
「私、この日を一度生きたの。2年生きて、死んで、今朝の9時に戻ってきた。」
「だから、15時に何が始まるか、知ってた。」
「前の時、お義母さんも史郎もひまりも、最初の何日かでいなくなった。」
ひまりが変わっていくのを、私はスマホの画面の向こうで見た。
お義母さんは口を押さえて、しばらく声を出さずに泣いた。
「あの子は……玄は。」
「前の時、あの人とは、1年たってから会えた。」
お義母さんは、私の手を両手で握ったまま、何度もうなずいた。
*
史郎がテレビをつけた。
「――自宅から出ないでください。窓と扉を施錠し、行政からの指示を待ってください。」
アナウンサーの声の後ろを、誰かが走り抜けた。
遠くでサイレンが鳴り、乾いた音が二つ、三つ続いた。
「今の、銃?」
「警察。」
実家に、映像通話をかけた。母の顔が、画面いっぱいに映る。
「沙月、史郎も一緒なの? 外、出てないでしょうね。」
「出てない。お母さんたちも、絶対に出ないで。」
画面の端に、父が足を引きずって入ってきた。
「史郎、お前は男だ。姉ちゃんとひまりと、向こうのお母さんを守れ。」
史郎は、ホームセンターの袋から出したままのハンマーを握り直した。
「……分かってる。」
和室で、ひまりが泣き出した。
抱き上げると、胸に顔を押しつけてくる。外の音から、耳を隠す場所を探すみたいに。
「大丈夫。ママ、ここにいる。」
お義母さんが立ち上がって、カーテンを端まで引き直した。
「この子には、見せないで。」
*
30分ほどして、廊下に足音がした。
引きずるような、一人分の足音。それが、隣の部屋の前で止まる。
「開けてくれ。俺だ、開けてくれ。」
隣の旦那さんの声だった。
私は台所の横に立てかけておいたスコップを取り、玄関の覗き穴に目を当てた。
旦那さんのシャツの袖が、肩から裂けている。むき出しの腕に、深い傷がいくつも走っていた。
その向こうに、非常階段の防火扉が見える。塗装が、ところどころ剥がれていた。
あの傷なら、もうすぐ変わる。
「開けないで!」
玄関越しに叫んだ。間に合わなかった。
隣の鍵が回る音、扉の開く音。それから、隣の奥さんの悲鳴。
悲鳴は、長くは続かなかった。代わりに、何かを噛む音が、壁の向こうから聞こえはじめた。
史郎が、私の後ろで息を詰めている。顔から、血の気が引いていた。
「史郎、ここにいて。私が出たら、鍵をかけて。」
「姉ちゃん。」
袖をつかまれた。細い腕だった。
「すぐ戻る。」
隣の扉は、半分開いたままだった。
玄関のたたきに、スーパーの袋が転がっている。長ねぎが一本、床に飛び出していた。
旦那さんが、こちらに顔を上げる。目には、もう色がなかった。
立ち上がりかけたところへ、スコップを二度、振り下ろした。柄から、重い手応えが掌に返ってくる。
奥の床で、奥さんの指が動きはじめている。同じことを、もう一度した。
廊下に出て、隣の扉を閉める。非常階段の防火扉も閉めて、史郎と二人で、廊下の植木鉢と自転車を押し当てた。
史郎は、何も言わずに自転車のハンドルを押さえていた。
*
部屋に戻っても、史郎はソファに座ったまま動かなかった。
膝の上に、ハンマーを置いている。
日が暮れると、街のあちこちで火の手が上がった。サイレンの音は、夜の8時を過ぎたころに途切れた。
団地の窓の灯りは、半分ほど残っている。どこかの階で、誰かが長いこと泣いていた。
私は浴槽に水を張って、鍋とやかんとペットボトルを、蛇口の下に順番に並べた。
スマホとモバイルバッテリーを、全部コンセントにつなぐ。
玄からの返信は、ない。既読もつかなかった。
「お義母さん、ひまりと先に寝て。」
「沙月ちゃんは?」
「史郎と、交代で起きてる。」
和室の襖が閉まると、リビングには冷蔵庫の音だけが残った。
史郎がハンマーを床に置いた。
「俺が先に起きてる。姉ちゃん、少し寝なよ。」
「2時に替わる。」
史郎は、玄関の覗き穴の前に椅子を一つ運んでいった。それから、私の方を振り返った。
「さっきの……。姉ちゃん、慣れてた。」
「うん。」
「俺の知ってる姉ちゃん、ゴキブリ一匹で俺を電話で呼びつけてたよな。」
「呼んでた。」
「義兄さんの出張中は、電球も俺が替えに来てたし。」
私はコップに水を汲んで、史郎の前に置いた。
「怖がらなくていい。史郎には、何もしないから。」
史郎は首を振った。コップには、手を伸ばさなかった。
「姉ちゃんが怖いんじゃない。どんな目に遭ってきたのか、想像がつかなくて。」
「悪い夢を見てただけ。」
弟は、朝まで靴を脱がなかった。




