第一話 迎えに行く——終末まであと6時間
死んだ私は、終末まであと6時間の朝に戻っていた。娘はまだ保育園にいる。
エレベーターの表示が、7、8、と上がっていく。
さっきまで首の後ろにあった歯の感触を探して、手をやった。指先に触れたのは、乾いた襟だけだった。
スマホの画面には、4月12日、9時01分。
隣の人の社員証も、換気口の低い音も、前の時のこの朝と変わらない。確かめるのに、2分もかからなかった。
9時03分、私は次の階で降りて、下りのボタンを押した。
*
一本目は、保育園。
「結城ひまりの母です。今から、迎えに行きます。」
「えっ、お熱ですか? さっきまで、元気に積み木してましたけど。」
「家の用事です。荷物を、まとめておいてください。」
二本目は、お義母さん。
「お義母さん、今からスーパーに行って、お米と油を買えるだけ買ってきて。」
「買えるだけって、沙月ちゃん。また買い占め?」
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。棚からトイレットペーパーが消えたあの春のことを、お義母さんは今でもときどき話す。
「理由は、夕方に話す。今日だけ、私の言うとおりにして。」
「……分かった。人には言わないわ。」
三本目は、弟の史郎。
「姉ちゃん? 俺、今日、卒論のゼミなんだけど。」
「ホームセンターに行って。スコップを2本、ハンマー、バール。」
「スコップ?」
「それから、野菜の種。棚にあるだけ。」
「卒論、スコップで書けって言われてないんだけど。」
「タクシー代も全部出す。買ったら、うちに来て。」
少し黙ってから、「……2本ね」と返ってきた。
四本目は、実家。
出たのは母だった。
「お父さんはね、先月転んだ足が、まだなの。病院の日のほかは、ずっと座ってるわよ。」
6時間では、県外の村から父を連れ出せない。
「今日は、家から出ないで。お米と水がどれだけあるか、見ておいて。」
「なによ、急に。」
「お願い。」
最後に、玄へメッセージを打った。
「必ず探しに来て。お義母さんとひまりと、家で待ってる。」
演習中の玄が、これを読むのはいつだろう。前の時、私の送った言葉は、一通もあの人に届かなかった。
*
保育園の門の前で、タクシーを待たせた。
先生に手を引かれて、ひまりが出てくる。通園バッグが、膝のあたりで揺れていた。
「ママ、まだおひるだよ?」
しゃがんで抱き上げたとたん、声が出なくなった。
髪から、給食室の匂いがする。腕の中で、ひまりの心臓がとくとく鳴っている。
涙が、ひまりの肩に落ちた。止めようとすると、もっと落ちた。
「ひまりちゃんママ、大丈夫ですか?」
先生がハンカチを出しかけて、手を止めた。その後ろの靴箱で、名札の角が一枚だけめくれていた。
「大丈夫です。……先生も、今日は早めに、お家に帰ってくださいね。」
先生は、少し困ったように笑って、頭を下げた。
ひまりの指が、私の頬の濡れたところを押した。
「ちょっとだけね。帰ろう。」
*
帰りのタクシーで、ネットスーパーを三つ開いた。
一つの店にまとめると、量が目立つ。三つに分けて、受け取りはどれもエントランスの外への置き配にした。
冷凍食品と葉物は、カートから外した。冷蔵庫は、あと二日で止まる。
28階に着くと、玄関でお義母さんがお米の袋を二つと、油の缶を下ろしたところだった。
「沙月ちゃん、これで足りる? うちなら、ひと月はもつよ。」
腰を叩いていた手が、ひまりの靴を脱がせにかかった。
「助かります。ひまりを、お願いします。」
11時半、史郎がタクシーで着いた。トランクから、スコップの柄が2本はみ出していた。
エントランスの自動ドアの外には、もう段ボールが積まれている。側面に、薄い灰色の印字が並んでいる。
台車に積んでは、エレベーターで上がる。近くのスーパーでも水の箱を買い足して、また積んだ。
何往復目かで、管理人室の前の若い警備員さんが笑った。
「結城さん、スーパーでも始めるんですか?」
「家族が多くて。」
四人分だと、これでも少ない。
郵便受けの前の年配の男の人と、犬を抱いた女の人が、こちらを見ていた。台車の箱を、上から順に数えるような目だった。
「史郎、次から駐車場の通用口を使う。」
「え、遠回りじゃん。」
「いいから。」
エレベーターの扉が閉まるまで、犬を抱いた人は、まだこちらを見ていた。
*
12時、史郎の運転で、川沿いの大型スーパーに入った。
私は衣料品の売り場から回って、下着と靴下を棚の端から端まで入れた。レインウェアは、四人のサイズを1着ずつ。
懐中電灯と電池、固形燃料、カセットボンベ。生理用品は、1年分を腕で棚から落とした。
歯ブラシ、簡易トイレ、マスク。食品売り場で缶詰と根菜をもう一度積むと、カートは3台目になっていた。
追いついてきた史郎が、スマホの配達記録を見ながら読み上げる。
「ネットスーパー三店、全部届いて、上に運び済み。水は2Lが24本ずつ三店ぶんと、近所で買った箱を合わせて、42箱。」
「お米と油は?」
「和子さんが、二袋と一缶。乾麺、缶詰、真空パック、干物、海苔は届いた分。」
史郎は画面をスクロールした。
「工具はスコップ2本、ハンマー、バール。種は大根、白菜、胡瓜、茄子、唐辛子。」
「あと、炭酸も箱で頼んどいた。ひまり、好きだろ。」
「残りは?」
「薬だけ。で、このカートが3台。」
史郎は、3台目のカートの取っ手に肘をついた。
「こんなに買って、世界でも終わるの?」
スマホの時計は、12時30分。
「2時間半後には分かる。」
史郎は笑いかけて、私の顔を見て、やめた。
レジの横に、甘栗の小さな袋が積んである。手が伸びかけて、そのままカートを押した。
*
14時、最後に一人で、駅前のドラッグストアに寄った。
消毒薬、ガーゼ、包帯。解熱鎮痛薬と総合感冒薬、ビタミン。
抗生物質の塗り薬は、棚にある箱を全部かごに入れた。
「すみません。飲む方の抗生剤って、置いてますか。」
レジの若い店員さんが、申し訳なさそうに首を振った。
「飲み薬の抗生剤は、処方箋がないとお出しできないんです。」
「……ですよね。じゃあ、消毒薬を、もう少し。」
棚に戻って、消毒薬のボトルを4本足した。
会計は、約6万円。
店員さんは袋を三つに分けて、持ち手をそろえてくれた。名札の横に、手描きの猫のシールが貼ってある。
「重いので、お気をつけて。またお越しください。」
春の日なたみたいな声だった。
「……さようなら。」
自動ドアが開いて、生ぬるい風が入ってきた。
*
28階に戻って、箱の山をまたいだ。
リビングの窓の前に立つ。下の広場で、子どもを自転車の後ろに乗せた人が、信号を待っている。
スマホの数字が、一つ進んだ。
窓の前で、14時59分の表示を見ていた。




