15章【空白(ブランク)】Ⅲ
「───伊藤 恵理だ。」
静寂が落ちた。
神殿の奥で、瓦礫が崩れる音だけが響く。
「…………。」
魔王の目は何かを思い出すように揺れる。
何度か戦闘中に聞くことのある名前だったのだろう。
ハルトくん、タクヤと名前を呼んだ後、
兄、弾の名を呼んだ瞬間、
顔をわずかにしかめた。
ズキズキする頭を抑えるような仕草をしてから
先生の名前に反応するように顔を上げる。
まるで一瞬、呼吸が止まったみたいに。
「………あ、」
自分でも自分の感情がわかっていないような顔で。
ゆっくりと腕の中の先生の顔を見る。
そして恐る恐る唇が、掠れた音を出した。
「………モチ、ヤ」
慣れない発音を話す時のような口調だった。
「……ユミコ、」
まるで、
初めて大切なものの名前を知ったみたいに。
その声が神殿に落ちた。
その光景に、胸がずきりと痛む。
記憶の中でも散々見た。
彼にも感情があり、
愛情を持つ心がある。
………でも、
「………返してもらう。」
私は竹刀を握り直す。
"彼女が彼に愛情を持って接した記憶"が私の視界を揺らしても
それでも魔王から目を逸らすことはしなかった。
「皆を、
ハルトくんも
タクヤも
兄ちゃんも
先生も
私の世界に返してもらう。」
私のその言葉に、
魔王は数秒黙ったままだった。
そして、
「───………ギャハ」
喉の奥で乾いた笑いが漏れる。
「お前、さァ。」
光のない瞳がゆっくりと私を見下ろす。
まるで馬鹿を見るような声だった。
「死んだら返すも何もねェだろ。
ハルトだか、タクヤだか、知らねェけどよォ
返して欲しけりゃ、土でも掘り返してみりゃいいじゃねェか。」
その声はあまりに軽く、
乾いた声だった。
「死体ならその辺に埋まってんじゃね?」
ゲラゲラと笑う。
「コイツが埋めちまったからな。」
その言葉が落ちた瞬間。
私は数秒間、いやもっと長く感じるくらいに口を噤んだ。
魔王の言葉は聞こえる声よりも重く、仄暗い。
それは立ち込める血の匂いと崩れかけの神殿。
天井からパラパラと落ちる砂埃。
この場所には、
確かに誰かが死んできた気配が、あまりにも残りすぎているのだから。
「…………。」
試合なんて目じゃない。
感じたことのない寒気のような不安に眉を寄せる。
自分を落ち着かせるように、私は息を深く吸った。
「…………いいや。
それだけじゃないだろう。」
竹刀を握る力を強めると
その呟きの後、間髪入れずに床を蹴る。
一直線に狙うのは首じゃない。
心臓でもない。
───先生を抱えている腕だ。
「───ッ!?」
魔王の目が羽毛の奥で見開かれた。
まるで、先生を狙うだなんて、1ミリも考えていなかったような動きだ。
私の竹刀が抱え込む腕に滑り込む。
「……ッ何しやがる!!!」
耳元で聞こえる轟音。
黒い爪が唸りを上げる。
魔王は、反射的に先生を庇うように後退した。
牙を剥く。
怒り。
威嚇。
それはまるで獣だった。
それでも私は一歩、踏み込む。
「彼らは、勇者たちはまだ生きている!!!」
叫ぶ。
魔王の動きが一瞬止まった。
「向こうの世界では、心臓が止まっていないんだ……!」
声を張る。
しっかりと魔王と目が合う。
「だから、
魂だけがここに囚われている可能性がある!!」
竹刀を握る力がさらに強くなる。
「もしも、」
魔王の目に私の青い目が反射して光った。
「この世界に呼ばれた理由、
……お前を倒すことができるなら、
皆を連れて帰れるかもしれない……!」
確証なんてなかった。
本当に帰れるかも分からない。
でも、
【継承】が、
流れ込んでくる記憶が。
怖くても、傷だらけでも、
それでも前に進んだあいつらが、
───ここで止まるな、と私の中で叫んでいる。
「可能性があるなら私は、」
瞬間、
ぞわりと
背筋を死の感覚が撫でた。
右。
違う、
………上だ。
「ッ!!」
私の身体が反射的に跳ねる。
黒い爪が、
ついさっきまで立っていた床を抉り飛ばしていた。
凄まじい音。
砕ける石。
舞い上がる破片。
心臓が暴れる。
───、今のが当たっていたら死んでいた。
息を飲む間もなく、次は左。
その次は後ろ。
踏み込んだ瞬間薙ぎ払われる。
次は、
次は?
…………次は、?
「───【過剰感知】」
また上からの攻撃だった。
その軌道が光の道に見える。
私は転がるように逃げた。
分かる。
全部、分かる。
だからこそ、怖い。
今のが当たっていたら、私は
あの長い爪で
頭から八つ裂きにされていた。
想像もしたくない映像が脳内に流れて、心臓が冷える。
嫌と言うほど、死が見える。
痛い。
怖くて、
心臓が破れるほど早く打つ。
「………強いね。」
掠れた声が漏れる。
「ハルトくんは、」
逃げたい。
帰りたい
泣いて叫びたい。
胸の奥で暴れる、その感情は誰かの声に重なった。
いつも背中を丸めて、
どこか遠くを見るみたいに目を伏せていた彼。
1人で生きていけると、そんな顔していた君。
でも、本当は
自分が傷つくのと同じくらい
誰かが傷つくのが嫌いな優しい人だった。
そして
誰よりも怖がりだったからこそ、
心を閉ざした人だった。
「───ッ!!!」
来る。
そう思うより先に、
世界に
細い光の線が走った。
床をなぞるように
空気を裂くように
避けるべき軌道が薄く走る。
その場所へ足を進めたくて、もう一度叫ぶ。
「【過剰感知】!!!」
流星のような光が示す。
それは、死を知りすぎる力。
だからこそ、
生き延びる道も見えるのだ。
「怖い、けど」
私は少し、笑っていた。
「…………綺麗だね。」
光が揺れる。
まるで夜空に線を引く流れ星のように。
「ヒーローが見てる景色って、こんななのかな。」
その独り言は彼には届かない。
でも、
その臆病な優しさが残した道しるべは
確かに今、
私の進む道を照らしていた。
踏み込む。
道をたどって距離を詰める。
「【断罪の一撃】!!!!」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥で何かが熱を持った。
ぶわり、と
知らない感情が流れ込んでくる。
私は、
彼の、魔王の
間違いが、許せない。
正さなければ。
そんな強烈な衝動。
「……ッ、」
床を蹴る。
流星のように走る光の道、真正面から踏み抜いて、
ガチン、と
竹刀と爪がまたぶつかった。
衝撃が神殿を揺らした。
「───ッ、ぐ」
魔王が僅かに顔を歪めた。
重い。
だが、確かな手ごたえを感じる。
押されるだけだった攻撃が、初めて魔王を押した。
「………テメェ。」
魔王の声がまた苛立たしげに低くなる。
きっと彼のことだ。
兄の事なんて覚えてないんだろう。
でもきっと、この攻撃に身に覚えがあったんだろう。
私を見下ろす目なども怖くない。
ただ、
兄に似た声だけが、私の頭の中で燃えていた。
間違っている。
コイツは
人を傷つけて
奪って
閉じ込めて
こんなの、絶対に許してはいけない。
「はァ……ッ!!」
再び踏み込んだ。
自分でも驚くくらいに、身体が軽い。
竹刀がまっすぐ魔王の急所を狙う。
「チッ……!!」
魔王は反射的に避ける。
だが、
腕の中の先生を庇うせいで、動きが鈍い。
黒い羽根を広げて、漆黒が舞う。
その羽は刃のように硬くなり、神殿を抉り、
床を砕いて
空気を震わせる。
それでも
魔王の手は先生を抱えたままだった。
話さない。絶対に。
その執着だけが異様だった。
「なんでだ!!」
神殿に声が響く。
「どうして、そこまで先生を大事に思っているなら!!」
竹刀を振り抜く。
魔王は、先生を庇うように後退する。
「なんで、先生を解放してあげない!?」
空気が止まる。
魔王の殺気が冷たいものに変わる。
「………は?」
その低い声はどこか、
理解できないものへの侮蔑を感じた。
私は歯を食いしばる。
「死んだ人を!!
そんなふうに、引きずり回して!!
………先生は、そういうの………っ、
嫌がる人だろう………っ!!」
その瞬間、
魔王の表情は目に見えて歪んだ。
「………っうるせぇ、
うるせぇうるせぇ、
うるせぇええええええ!!!!!」
轟音。
黒い爪が振り下ろされる。
死ぬ。
その未来が、【過剰感知】で脳へ流れ込む。
右に避けろ、
遅れたら首が飛ぶ。
分かる、全部。
怖い。
………なのに
「ちゃんと、向き合え………!!!」
前へ出る。
自分でもおかしいと思う。
怖いのに、
逃げたいのに、
それよりも先に
"間違っているものを、ぶっ飛ばしたい。"
その気持ちが大きくなる。
胸の奥で、兄と同じ力が熱を帯びる。
【断罪の一撃】
"自分が正しいと確信した瞬間"だけ、力を増幅させる能力。
だから
迷いが消えるほど、強くなる。
「───ッ!!」
竹刀が、魔王の肩を掠めた。
血が飛ぶ。
初めて。
確かに私は魔王に傷を負わせた。
その瞬間に、私の身体は妙に熱くなった。
───そうだ。
間違っているのは、アイツだ。
なら、
私は 正しい。
その考えが、少しずつ
…少しずつ、私の価値観を歪め始めていた。
勇者の能力。
それは、
現代日本人の一般人が扱うには
あまりにも異質な力だった。
魔力も
身体能力も
精神構造すら。
まるで能力そのものに引きずられるように、"人間"が歪んでいくのだ。
───私の記憶の勇者たちは。
その恐怖を、
価値観すら変えようとする精神への汚染も、
それらを
強靭な精神力で耐え抜いてきただけだった。
それでも、前へ進もうと選び続けた人たちだったのだ。
そして私は
まだその恐ろしさを理解しきれてなかった。
「センセイが、嫌がるだァ……?」
黒い爪が竹刀を弾き飛ばすように振るわれる。
目の前で火花が散る。
その衝撃に床を滑りながら、また無理やり体勢を立て直した。
「コイツは死んだんだよ。
もうここには居ねェ!!」
魔王の腕の中で先生の髪が揺れる。
まるで、生きてるみたいに。
「そんなヤツを、どうしようが俺の勝手だろうが!!!!」
「───ッ、!!」
私は奥歯を噛み閉める。
そして床を蹴った。
「そこまで理解しているなら、……ッ!!」
怒りに任せて真正面から竹刀を叩き込んだ。
「先生を埋葬してやればいいじゃないか!!」
爪と竹刀がぶつかる。
耳障りな音が神殿へ響いた。
「……っ、なんで
今も先生をそんな姿にしておくんだ!!!」
「うるせェなァ!!!!」
魔王が吠える。
黒い羽根が嵐のように舞い上がる。
柱が砕けても、床が抉れても、
魔王は片腕で先生を抱えたままだった。
「うるせェ、
……うるせェんだよ……!!」
ギリギリと鋭い牙が噛み合う。
「本当、お前
ウッゼェ……!!!」
幾本もの羽根が私の頬を掠める。
容赦のない爪が、攻撃に重なるように振るわれた。
───、右。
次は、左。
私は紙一重で避けながら踏み込む。
【過剰感知】が死の未来を流し込み続ける。
怖い。
怖いはずなのに。
「───ッ!!」
流星の導く先。
私の竹刀が、魔王の脇腹を掠めた。
血が飛ぶ。
魔王の顔が歪んだ。
その瞬間、
胸の奥が熱く震えた。
「………あ、」
分からなかった。
さっきまでにあんなに怖かったのに。
死ぬのが怖くて、
足が震えて、逃げ出したかったのに。
高揚感。
興奮。
自分の一撃であの化け物が動きを乱す。
自分の攻撃で、相手を制御できる。
胸が、顔が熱い。
感情がジェットコースターのように入れ替わる。
それに脳が追いつかないのかブツリと頭の中で音がした。
次の瞬間には、私はボタボタと鼻から血を溢れさせて
───ほんの少しだけ、笑っていた。
「っは……!!」
呼吸が熱くなる。
【断罪の一撃】
魔王へ言葉をぶつけるほど、
自分が"正しい"と思うほど
力が馴染んでいく。
「間違っているのは、お前だ」
「先生を苦しめているのは、お前なんだよ」
そう口走る度に
攻撃は重くなり、
踏み込む速度も上がる。
それでいい。
私は誰かのために戦っている。
友達のためだ。
兄のためだ。
先生のためだ。
そうならば、
この力が間違いなわけがないじゃないか。
「間違い、間違いって
……………クソッ、
お前に何が分かる……!?
まるでお前は正解を知ってるみたいに言いやがって、
正解じゃなきゃいけねェのかよ、
間違って何が悪い!?
言ってみろ!!」
大きな爪と竹刀がぶつかり、火花が散る。
私は歯を食いしばる。
まるで子供のような叫び声に私は負けじと怒鳴り返した。
「悪いに決まってるだろ!!!!」
ギギギ、と竹刀が鳴る。
「先生はそういうの、嫌がるんだって言ってるだろ!?」
踏み込む。
「あの人のことが好きだと言うなら!!!
先生が何を大事にしてたかくらい、
……っ分かれよ!!!」
怒りのまま叫ぶ。
鈍い音を立てながら魔王を跳ね退けた。
「………ッ、分かってたら、こんなことになってねェっつってんだろ!!
俺は今、俺のことが1番分かってねェのに、
そんなんできるわけねェだろうが!!!」
その怒号が神殿を揺らした。
床のヒビが深くなり、砂埃が舞う。
魔王の先生を抱え込む腕だけは異様なくらいに強い。
まるで、
離した瞬間、全部終わってしまうと思い込んでいるように。
「……………。」
子供かよ。
………そんな子供みたいなこと大きな声で喚いて、
私だってただの高校生だ。
ついこの間まで、
普通に部活して
友達と騒いで
進路で悩んでた、普通の17歳だ。
友達が急に倒れて、目を覚まさなくなって。
夢で知らない世界を見せられて、
挙句、知らない世界に飛ばされて化け物と戦ってる。
意味が分かんないのはこっちだ……!!!
「……分かんない、分かんないって……、
分かってないなら何しても良いのかよ!?!?」
踏み込むと床が砕けた。
迷うな。
躊躇うな。
私は、正しい。
「友達を巻き込んで、
兄ちゃんを殺して
先生までこんな風にしてっ、」
竹刀を振り抜く。
重い。
今までより、ずっと。
「それで、
お前が被害者ぶるなよ!!!」
衝撃。
魔王が大きく後退する。
頭の中でバチバチと興奮が走る。
勝てる。
いや、
"勝って当然"だと思った。
私は正しい。
脳の奥からそう思っている。
その通りだ。
間違っているやつには、間違っているって言わなきゃ。
そうだ。
理解できるまで。
そうだとも。
そのためなら力づくでも構わない。
もちろんだ。
分からないなら大きな声を出しても構わない。
そうだ。
酷い言葉をぶつけても構わない。
だって
存在を許しちゃいけないよね?
「………ッ!?」
呼吸が止まる。
でも、頭の中の声は止まらない。
甘く、優しく、
脳に溶けるように染み込んでくる。
"だって彼は悪いことをしたんだよ?"
「……………。」
彼は言葉じゃ理解できないんだ。
だから通じない。
「……………そうだな。」
竹刀を握る。
少しも怖くない。
しょうがない。
だから大丈夫だ。
相手を叩きのめす理由が、ちゃんとあるのだから。
魔王の動きが1歩遅れた。
鮮血が飛ぶ。
制服に赤い色が散った。
その瞬間、心臓が冷える。
なのに"声"が止まない。
そうだ。
もっとやれ。
まだ生きてる。
壊れるまでやってしまえ。
なぜならそれは、悪だから。
「……………。」
視界が揺れる。
私、
今
何を思った?
竹刀を持つ手が震える。
ヒトが血を流す姿を見て、
気持ちいいって思った?
「………わたし、は……」
行け。
斬れ。
終わらせろ。
「───ぁ」
踏み込む。
手を上げる。
「───【断罪の一撃(ジャッジメン、」
「やめろ。」
どこかで聞いたことある声だ。
私の身体が反射的に止まる。
そこに立っていたのは、
自分によく似た顔だった。




