第百十八話 二人の帰り道
翌朝。
夢見ヶ丘高校へ向かう道を、新は鏡花と並んで歩いていた。
しかも、手を繋いで。
昨日の放課後、勢いのまま始まった交際は、一晩眠っても夢にはなってくれなかった。むしろ朝の冷たい空気の中で、指先に残るぬくもりだけがやけに現実的で、新はどうにも落ち着かなかった。
隣では鏡花が機嫌よさそうに歩いている。
こちらの緊張なんてまるで気にしていないようで、繋いだ手にも迷いがない。
少し後ろには晶がいた。
どうして妹さんまで一緒なんだろう、と新は思わないでもなかったが、聞いたら負けな気がして聞けなかった。
そんな三人の前方から、聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい新、おはよ……う?」
雅だった。
いつもの調子で片手を上げながら近づいてきた雅は、途中でぴたりと止まった。
「え、透川先輩……?」
それから、新と鏡花の繋がれた手に目が落ちる。
「え、お前、え?」
もう一度、しっかりと繋がれた手を見る。
「なんで透川先輩と手繋いでんの? え? え?」
「あー、雅くんだったね?」
鏡花がひらひらと手を振る。
「おはよーう」
「お、おはようございます……」
雅は挨拶を返しながらも、完全に視線の置き場を失っていた。
「え、新、まじでどういうこと?」
すると鏡花が、まるで何でもないことみたいな顔で言った。
「私たち付き合ったんだよー? ふふふ」
雅の口が開いたまま止まる。
新は観念したようにこめかみを押さえた。
「……ということなんだよ」
「はああああ!?」
朝の通学路に、雅の絶叫が響いた。
少し後ろにいた晶は、案の定という顔で額に手を当てる。
「やっぱりね……」
そして実際、そのあと同じやり取りを二回する羽目になった。
校舎へ入ってすぐ、今度は彩葉に見つかる。
「おはよ――って、え?」
目が手元へ落ちる。
「え、ちょっと待って、何で!?」
「私たち付き合ったのー」
鏡花がにこにこと答える。
「はあああ!?」
さらに少し遅れて純香が来る。
「おはよう……あら?」
数秒止まる。
「……どういうことかしら」
「付き合ったんだよー」
鏡花はやはり嬉しそうだ。
「はあ……?」
静かな純香の、珍しく間の抜けた声が出た。
そうして。
雅。
彩葉。
純香。
三人とも、見事に同じ反応をしたのだった。
◇
「……で?」
ようやく少し落ち着いた教室の一角で、彩葉がじとっとした目を向ける。
「透川先輩はそれでいいんですか?」
「えー、いいよ?」
鏡花は悪びれもなく肩をすくめた。
「新くん普通に見た目悪くないじゃん」
その言葉に、彩葉と純香の視線がさらに細くなる。
雅はというと、まだ事態を飲み込みきれていない顔で新を見ていた。
そこへ鏡花がくるりと新の方を向く。
「ね、新」
「……何ですか」
「私は?」
最高に答えにくい質問が飛んできた。
新は一瞬、真顔になった。
確かに透川鏡花は可愛い。
すごく可愛い。
妹の晶は綺麗な感じがするが、鏡花はあの明るさや少し小悪魔めいたところも相まって、可愛い、という印象が強い。
もちろん双子だから大きな差があるわけではない。
ただ、纏う空気が違うのだ。
そして今、その“可愛い先輩”が真正面から答えを待っている。
しかも周囲の視線つきで。
「……透川先輩は」
新が口を開く。
周囲の視線が集まる。
次の新の言葉を待つように静まる。
「可愛らしいですよ」
一瞬、鏡花が目を丸くした。
そのあと、顔がぱっと明るくなる。
「えへへ、そう?」
「ありがと、新。大好きっ」
そう言って、鏡花は新の腕に自分の腕をぎゅっと絡めた。
「っ」
新の体が固まる。
近い。
色々と近い。
しかも、雅と彩葉と純香、そこに晶まで加わった四人のじとっとした視線が、痛いほど刺さっていた。
なぜ朝からこんなに重いのか。
新は内心で頭を抱える。
◇
始業のチャイムが鳴るまで、透川姉妹はずっと一緒にいた。
鏡花は新の席の近くで楽しそうに話し、晶はその少し後ろで、時々ため息をつきながらも結局は姉の隣に立っている。周囲の視線なんてまるで気にしていない姉と、気にしているのに付き合わされている妹。そんな対照的な二人の姿が、朝の教室では妙に目立っていた。
やがて、予鈴が近づく。
「あ、そろそろだね」
鏡花が時計を見て、ぱっと顔を上げた。
「じゃあまた後でねー」
手をひらひらと振る。
晶もぺこりと小さく頭を下げた。
「……失礼しました」
「うぅ……また後でぇ」
透川姉妹はそろって三年の教室へ向かっていった。
二人の姿が見えなくなったところで、ようやく教室の空気が少し落ち着く。
そして。
新は、大きなため息を吐いた。
「はあぁぁ……」
すると、そのタイミングを狙ったみたいに雅がにやにやしながら机に肘をついた。
「おやおや?」
「もうお疲れですかな?」
わざとらしい口調だった。
彩葉も半目のまま口を挟む。
「昨晩はさぞお楽しみだったのでしょうな」
純香まで静かな顔で頷く。
「新、サイテー」
「なんで!?」
さすがに新が顔を上げる。
だが三人の視線は冷たい。
冷たいというより、面白がっているのが大半だ。
「いや、だってお前」
雅が肩を揺らして笑う。
「昨日まで何もなかったのに、今日いきなりあれだぞ?」
「朝から恋人繋ぎで登校だもんねえ」
彩葉が言う。
「しかも三年の先輩と、ね」
純香が淡々と追い打ちをかける。
「言われもない罵倒なんだけど!?」
「言われもないかしら」
純香が首を傾げる。
「言われもないよ!?」
新が反論しても、三人ともまるで聞く気がない。
雅は面白そうに机を叩いた。
「いやあ、鳴海さんも隅に置けませんなあ」
「ほんとそれ」
彩葉が頷く。
「昨日の放課後に何があったのか、じっくり聞かせてもらおうか」
「聞かなくてもだいたい察しはつくけれど」
純香が言う。
「でも聞くわ」
「なんで!?」
新はとうとう頭を抱えた。
もうどうにでもしてくれ。
正直、そういう気分だった。
◇
午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
いや、入れようとはした。
したのだが、無理だった。
朝からあれだけ騒がれたのだ。表向きは落ち着いても、時々ちらちらと視線が飛んでくるし、後ろの席では誰かがひそひそ声で何かを話している。
「見た?」
「朝、鳴海くんと透川先輩」
「手、繋いでたよね」
「まじで?」
「しかも透川先輩の方、めっちゃ嬉しそうじゃなかった?」
廊下ですれ違うたび、そんな声が耳に入る。
明らかに見られている。
二年からも、三年からも。
気にしないようにしているつもりでも、気にしない方が無理だった。
そして昼休みのチャイムが鳴った瞬間、その噂はさらに現実味を帯びることになる。
教室の前方が、ざわっと揺れた。
「え?」
「誰?」
顔を上げると、教室の入口に鏡花が立っていた。
三年の制服姿のまま、にこにことこちらを見ている。
その少し後ろには、弁当袋を持った晶までいた。
「新ー」
鏡花がひらりと手を振る。
「一緒に食べよ?」
教室が止まった。
「は?」
「まだ来るの!?」
「昼休みまで!?」
雅と彩葉がほぼ同時に声を上げる。
純香は額に手を当て、晶は小さくため息をついていた。
「お姉ちゃん、やっぱり来た……」
「だって付き合ったんだもん」
鏡花は悪びれもせず言う。
「お昼くらい一緒に食べたいでしょ?」
その理屈は分からなくもない。
分からなくもないが、ここは二年の教室で、しかも視線が痛すぎる。
「透川先輩」
彩葉がじとっとした目を向ける。
「さすがに距離近くないですか?」
「えー、そう?」
鏡花は首を傾げる。
「普通じゃない?」
「全然普通じゃないわね」
純香が即座に返す。
新はゆっくり立ち上がった。
「……どこで食べるんですか」
「中庭」
鏡花が嬉しそうに答える。
「晶も一緒だよ」
「私、監視役だから」
晶が真顔で言う。
「何の?」
「鳴海くんがお姉ちゃんを泣かせないかどうかの」
「昼休みから重いなあ……」
新がぼそっと呟くと、雅が肩を揺らして笑った。
「行ってこいよ、鳴海」
「青春してこい」
「うるさい」
「新くん」
鏡花が手招きする。
「早く」
その言い方が、もうすでに少し恋人っぽくて、新はまた変に落ち着かなくなる。
結局、新は弁当を持って教室を出た。
背中に刺さる、クラスメイトたちの生ぬるい視線つきで。
廊下へ出ると、鏡花はすぐ隣に並んだ。
「えへへ」
「何ですか」
「呼んだらちゃんと来てくれた」
「行かないともっと面倒そうだったので」
「そういうこと言う」
頬をふくらませたあと、鏡花はふっと笑う。
中庭は、昼の光で明るかった。
木陰に腰を下ろし、三人で弁当を開く。
鏡花は新の弁当を覗き込んで、
「おいしそう」
と言い、晶は
「お姉ちゃん、自分の食べなよ」
と呆れている。
朝の騒がしさとも、放課後の静けさとも違う。
その中間みたいな、少しだけくすぐったい時間だった。
そして新は、その時間のたびに思い知らされる。
鏡花は、本当に遠慮がない。
でも、嫌ではない。
むしろそのまっすぐさに、少しずつ自分の歩幅が引っ張られている気がした。
◇
放課後。
廊下のざわめきが少しずつ遠のいていく中、新が昇降口へ向かうと、今日は珍しく鏡花は一人だった。
晶の姿はない。
窓から差し込む夕方の光の中で、鏡花はただじっと立っていた。けれど、新を見つけた瞬間、その表情がぱっと明るくなる。
「新くん!」
次の瞬間には、こちらへ駆けてきていた。
迷いのない足取り。
まっすぐな笑顔。
そのまま飛びつくみたいに距離を詰めてくる。
……犬かな。
ふと、そんなことを思った。
もちろん口には出さなかったけれど、あまりにも嬉しそうに駆け寄ってくるから、そう見えてしまったのだ。
「待ってたの?」
新が聞くと、鏡花はにこりと笑う。
「うん。今日は一人で待ってみた」
その言い方が少しだけ得意げで、少しだけ照れていて、新は思わず目を細めた。
並んで歩き出す。
夕方の街は、昼間とは少し違う顔をしていた。
部活帰りの生徒の声。
どこかの家から流れてくる夕飯の匂い。
西へ傾いた陽が、道の端やガードレールをやわらかく染めている。
鏡花はいつもより静かだった。
少しだけ考えるような間があってから、鏡花が口を開いた。
「……実際のところさ」
「はい」
「若干、引いてるでしょ」
図星だった。
新は一瞬、返事に詰まる。
温度差がある。
鏡花の感情の勢いは強くて、まっすぐで、遠慮がない。
それが嫌なわけではない。
でも、ついていけていない。
感情の速度に、自分の気持ちがまだ追いついていない。
それは本音だった。
新が正直に言葉を探していると、鏡花が先に少し笑った。
「だよね」
責めるみたいな笑いではなかった。
少し困ったような、でもどこか納得している笑みだった。
「私ね、好きになるとこうなっちゃうんだ」
「止められないの」
そう言って、鏡花は一度だけ足を止めた。
新も合わせて止まる。
夕陽が、鏡花の髪を透かしていた。
その横顔は昼間よりずっと静かで、なのに目だけはまっすぐだった。
「だから」
鏡花は言う。
「ゆっくりでいい。新くんのペースでいいから」
そして少しだけ指に力を込める。
「私を見ていてほしいの」
そう言って、鏡花はこちらの目を見つめた。
冗談みたいな軽さはない。
からかいもない。
ただ、まっすぐだった。
新の胸の奥が、小さく揺れる。
「先輩」
そう呼ぶと、鏡花が少しだけ唇を尖らせた。
「鏡花って呼んで」
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「……鏡花」
「うん」
たったそれだけで、鏡花の顔がやわらかくほどける。
どうしていいか分からなかった。
言葉にすれば足りない気がした。
黙ったままだと、もっと足りない気がした。
だから、新はそのまま鏡花を抱きしめた。
鏡花の身体が一瞬だけ驚いたように強張る。
けれどすぐに、その力は抜けた。
目を閉じて、体を委ねる。
腕の中にある温度がやわらかい。
近すぎる距離に、自分の心臓の音がうるさいほど響く。
でも、それだけじゃない。
鏡花の鼓動も、ちゃんと伝わってきた。
少し早い。
自分だけじゃないのだと分かって、胸の奥がふっと熱くなる。
新は少しだけ身を離した。
鏡花が目を開ける。
その瞳が、新だけを映していた。
そして、そのまま。
そっと、唇にキスをした。
ほんの一瞬。
触れるだけの、やわらかなキス。
けれど、それだけで十分すぎるほどだった。
鏡花が目を丸くする。
そのまま、みるみる顔が赤くなっていく。
「……っ」
目を丸くしたまま、顔を伏せる。
「い、今、した、よね!?」
「しました」
「な、何で!?」
その問いに、新は少しも迷わなかった。
「好きだからです」
鏡花の肩がぴくりと震える。
「だって私……」
言いかけて、そこで止まる。
うまく続きが出てこないらしい。
新は少しだけ笑った。
「可愛いですよ」
「え……」
鏡花が、真っ赤な顔のまま新を見上げる。
その視線があまりにもまっすぐで、あまりにも無防備で、新はさらに続けた。
「そうやって照れてる鏡花」
「最高にかわいいですよ」
笑いかける。
鏡花は、それ以上何も言わなかった。
ただ真っ赤なまま、また顔を伏せる。
それから再び歩き出したけれど、繋いだ手だけはぎゅうっと力強くこちらを握ったままだった。
離したくない、と言うみたいに。
新、隅におけないですね




