第百十七話 放課後ティータイム
ペア戦は、後日行われることになった。
個人戦の熱気がまだ校内に残る放課後。窓の外はもう、少しずつ夕暮れの色へ傾き始めていた。
そんな中、新は校外のカフェにいた。
どうしてこうなったのか。
いや、理由は分かっている。
校内予選の最後、透川鏡花に「放課後、お茶に付き合いなさい」と言われたからだ。
ただ、その“お茶”に、なぜ妹まで当然のようについてきているのかは、よく分からなかった。
向かいには鏡花。
その隣には、双子の妹である透川晶。
鏡花はクリームたっぷりのカフェラテを、晶はいちごのドリンクを前にしている。新はというと、少し冷め始めたコーヒーに手を添えたまま、なんとなく落ち着かない気分で座っていた。
「で、あれは一体なんなの」
鏡花が、カフェラテをひとくち飲んでから言った。
白いクリームが少しだけ唇についたが、本人は気づいていない。
「そうよ、あれは何なのかしら」
晶も両手でいちごのドリンクを持ちながら、新を見た。個人戦のあとに散々泣いたせいで、目元はまだ少し赤い。
「……あの」
新は困ったように二人を見た。
「何で俺、二人に問い詰められてるんですか?」
「だって……ほら……君が私に、ね?」
鏡花がそこで少し言葉を濁す。
校内予選の最後、自分が新に抱き上げられた場面を思い出したのか、頬がほんのり赤くなる。
「お姉ちゃんに恥ずかしい思いさせたからですっ」
晶がすかさず言った。
「そんなぁ」
「男の子ならつべこべ言わないっ」
晶がびしっと言う。
「女の子を恥ずかしめた責任を取りなさい、責任を」
「責任って……」
新が額に手を当てる。
その様子を見て、隣でミラがくすくすと笑った。
夕暮れの光を少しだけまとったみたいにやわらかな輪郭が、椅子の背にもたれるように揺れている。
「それが君の精霊ね」
鏡花が言う。
「ミラと言います」
ミラはにこやかに一礼した。
「ミラさんね」
鏡花はカップを置き、新をじっと見る。
「あれは一体何なの?」
新は少しだけ視線を泳がせた。
自分でも、まだ完全には理解していない。
けれど、隣にはそれを少し先から見ている精霊がいる。
ミラがふわりと微笑む。
「あれは先見の力です」
「あの、先が見えるって力ね」
鏡花が頷く。
「そうです」
ミラは続けた。
「でも、それだけではありません。先へ向かう力でもあります」
「そう、それ」
鏡花が身を乗り出す。
「どういうことなのよ」
「そのままの意味です」
ミラは穏やかに言った。
「見た未来へ、行けるのです」
「未来へ、行く」
鏡花が小さく繰り返す。
「そうです」
ミラは頷いた。
「私の力で先を見て、その先に行く。行ってしまうと“今”からは消えます。だから瞬間移動のように見えるのです」
「なるほどねえ……」
鏡花はスプーンを口に咥えたまま、こくりと頷く。
新はその仕草を見て、少しだけ目を逸らした。
校内予選であれだけ得体の知れない怖さを見せた人なのに、こうしていると妙に年相応で可愛らしい。
調子が狂う。
「君の精霊、不思議な子ねえ」
「俺もそう思います」
すると、隣で晶が目を丸くした。
「え、そんな力なの? やっぱり」
新も少し眉を上げる。
「……俺も、今知ったんだけど」
「何それ、分からないで使ってたの!?」
鏡花が呆れたように言う。
「だから言ったじゃないですか、分からないって」
「ふーん……」
鏡花はそう言いながら、新をじっと見た。
その視線が、少し楽しそうで、少し探るようで、そして少しだけ熱を帯びているようにも見えて、新は落ち着かなくなる。
コーヒーに手を伸ばした、その時だった。
「ところでさあ、鳴海くんさあ」
「なんです?」
「付き合ってる人とか、いる?」
新は危うくコーヒーを吹きかけた。
「ぶっ……けほっ」
「お、お姉ちゃん!?」
晶が目を剥く。
「な、なんですか!?」
新も動揺を隠せない。
だが鏡花は、思っていたよりずっと真面目な顔をしていた。
「いるの?」
その一言だけで、空気が少し変わる。
新はごくりと喉を鳴らした。
「い、いや……いません」
鏡花がふっと息を吐く。
「そっか」
それだけ言って、少しだけ視線を落とす。
窓の外から差し込む夕暮れの光が、その横顔をやわらかく染めていた。
しばらく沈黙が落ちた。
店内に流れる食器の触れ合う音と、遠くの席の話し声だけが静かに耳へ入る。
その中で、鏡花がぽつりと口を開いた。
「じゃあさ」
新の胸が、小さく跳ねる。
鏡花はそっぽを向いたまま言った。
「付き合ってみない? 私と」
「お姉ちゃん!?」
晶が思わず身を乗り出す。
「晶は黙っててね」
「むうう……」
新の心臓が、どくどくと音を立てる。
鏡花はそっぽを向いたままだ。
けれど、頬が少し赤い。
言った本人がいちばん照れているのが、分かってしまう。
新は視線を落とした。
胸の鼓動がうるさい。
こんなふうに真正面から言われるなんて思っていなかった。
しかも相手は、あの透川鏡花だ。
鏡みたいに相手を見透かすくせに、自分の照れは隠しきれていない先輩。
新は一度だけ息を吸って、それから顔を上げた。
「……じゃあ」
鏡花がぴくりと肩を揺らす。
「お願いします、鏡花先輩」
鏡花がそっぽを向いたまま、目を丸くする。
新は今度は逃げなかった。
「付き合って下さい、鏡花先輩」
その一言に、鏡花の顔がみるみる赤くなっていく。
耳まで。
首筋まで。
さっきよりずっと分かりやすく。
自分で言い出したはずなのに、返ってきた言葉に完全に動揺していた。
隣で晶が、あわあわしながら二人の顔を交互に見る。
「え、え、ちょっと待って、ほんとに? ほんとに!?」
鏡花はしばらく何も言えなかった。
それから、ようやく小さく唇を開く。
「……手、出して」
「え!?」
「手、出してって言ってんの」
「え、あ、はい」
新が恐る恐る手を差し出す。
「繋いで」
「え、あ……」
「繋いで」
「はい」
新がそっと手を重ねると、鏡花がじれったそうに眉を寄せた。
「違う」
「恋人繋ぎ」
「は、はいっ」
指を交互に絡める。
ぎこちなく。
けれど確かに。
恋人繋ぎになった二人の手は、思ったよりずっと熱かった。
鏡花はそれを確かめるように一瞬だけ視線を落としてから、ようやく新を見た。
「よろしくね、新」
その瞬間。
鏡花が、満面の笑顔で笑った。
いつもの少し意地悪な笑みではない。
照れも、戸惑いも、全部そのまま抱えたような、まっすぐで綺麗な笑顔だった。
新の呼吸が止まりそうになる。
「あ……よろしく、お願いします……」
声は最後の方、ほとんど消え入りそうなくらい小さくなった。
晶はそれを見て、小さくため息をついた。
「……もう」
「なんか、私がいる意味なくない?」
けれどその声も、どこか嬉しそうだった。
◇
店を出ると、外はすっかり夕暮れ色だった。
茜に溶けるような空の下、街の輪郭がやわらかく滲んでいる。昼間の熱は少しだけ引いて、風が頬をなでるたびに、さっきまでの出来事が夢みたいにも思えた。
けれど、夢ではない。
新の右手には、まだ鏡花の手の温度が残っていた。
恋人繋ぎのまま、二人は並んで歩く。
指と指が絡んでいる。
離そうと思えばすぐ離せるのに、どちらも離さない。
それだけのことが、妙に胸を騒がせた。
鏡花は少しだけ前を向いたまま歩いている。
けれど時々、指先にきゅっと力が入る。
そのたびに新の心臓は変に跳ねた。
少し後ろから、晶が二人の背中を見ていた。
「鳴海くん」
「なんですか」
振り返ると、晶は真面目な顔をしていた。
さっきまでの騒がしさが、ほんの少しだけ引いている。
「絶対、お姉ちゃん泣かさないでね」
新の表情が少し引き締まる。
晶は続けた。
「泣かしたら容赦しないから」
その声は小さいのに、思っていたよりずっと重かった。
新は恋人繋ぎのまま、きちんと晶を見た。
「分かりました」
短い返事だった。
でも、ごまかしのない声音だった。
晶はその顔をしばらく見て、それからふっと息をついた。
「……ならいいけど」
ほんの少しだけ肩の力を抜く。
そんなやり取りのすぐあとだった。
「新っ」
隣から、鏡花の声がした。
「何です」
新が顔を向けると、鏡花は悪戯っぽく目を細めていた。
夕陽がその横顔を染めていて、昼間よりも少しだけ大人びて見える。
「キスしよっか」
「ちょ……っ」
新の足が止まりかける。
「お姉ちゃん!」
晶がすぐさま声を上げた。
「それはダメ!」
鏡花は一瞬だけ目を丸くしたあと、くすっと笑った。
「えへへ、冗談だよ、冗談っ」
その笑い方は軽い。
けれど、新の胸に落ちた言葉の衝撃は全然軽くなかった。
「……冗談に聞こえないですよ」
「聞こえたらつまらないでしょ?」
そう言って鏡花は、少しだけ楽しそうに手を揺らした。
絡んだ指まで一緒に揺れて、新はもうどうしていいか分からない。
恋人繋ぎのまま、新はそっと天を仰いだ。
夕暮れの空は、さっきよりも深く赤くなっていた。
手は熱いまま。
隣の先輩は思っていた以上に距離が近くて、後ろの妹さんは思っていた以上に目が鋭い。
これは――
大変そうだ。
そう思うのに、不思議と嫌ではなかった。
隣を見ると、鏡花はまだ少しだけ笑っていた。
その笑みは、からかうためのものでも、見透かすためのものでもない。
ただ、嬉しそうだった。
夕方の風が、三人のあいだをやわらかく通り抜けていく。
校内予選の熱がまだ胸の中に残る放課後。
その余熱の中で、新はひとつ、自分でも思っていなかった未来へ踏み出していた。
新に彼女ができました




