第百十三話 インターハイへ向けて
一方で、純香や彩葉たちものんびりしていたわけではない。
夢見ヶ丘高校の訓練場。
乾いた土の匂いの中、純香は一度深く息を吸い、次の瞬間には地を蹴っていた。
速い。
これまでの純香は、どちらかといえば落ち着いて構え、場を整え、相手を封じる形が多かった。けれど今は違う。ただ堅実なだけではない。必要な瞬間には、迷いなく自分から動く。
一直線に駆ける。
足裏が砂を噛み、土埃が軽く跳ねた。
「テラ、お願い」
純香の声に応じるように、低く落ち着いた気配が返る。
「……任せろ」
次の瞬間、純香の着地地点に土が盛り上がった。
ただの土塊ではない。踏み切るために最適な角度でせり上がった足場だ。純香の足はそこへ寸分違わず乗り、そのまま流れるように次の一歩へ繋がる。
止まらない。
踏む。駆ける。さらに上へ。
盛り上がった足場はそのまま細く高く伸び、まるで純香の意志を先読みするみたいに、次に必要な場所へ次々と形を変えていく。
頂上付近まで一気に駆け上がった純香は、その勢いのまま高く跳んだ。
体が宙へ浮く。
空中で髪がふわりと揺れ、制服の裾がはためく。
そのまま純香が片手を払うと、前方へ土壁が一気に立ち上がった。
鈍く重い音。
壁はただ立つのではない。幾重にも折り重なるように層を作り、その内側へ空間を閉じ込める。防壁であり、同時に檻だった。
着地。
だが、そこで終わらない。
純香が足元へ意識を落とした瞬間、壁の内側の地盤がぐずりと崩れた。
重い。
空気そのものが沈んだような圧が生まれる。
重力が増したように、中心へ向かって力が落ちる。立っているだけでも足を取られ、踏ん張ろうとすればするほど地面が逃げていく。崩れた土はそのまま周囲へ絡みつき、逃げ道を埋め、ただの足場の崩壊を抜け出せない牢獄へ変えていく。
「っ――」
着地の反動でわずかに体勢がぶれた純香の背を、がっしりとした腕が支えた。
テラだ。
どっしりとした体躯の召喚体は、余計なことは言わない。ただそこにいて、純香が最も安定する角度で支える。その在り方そのものが、もう信頼だった。
純香は一度だけ呼吸を整えると、土壁の向こうに残る重さと崩れ方を見つめた。
以前より明らかに速い。
以前より明らかに、滑らかだ。
駆ける。跳ぶ。作る。落とす。閉じる。
その流れのどこにも、無理な引っかかりがない。
「……今のは良かった」
テラが低く言う。
純香は小さく息を吐いて、口元をわずかにゆるめた。
「ええ」
「大分、スムーズになってきたわ」
◇
一方で、彩葉も負けてはいない。
同じ訓練場の別の一角。
彩葉は軽く息を吐くと、指先でくるりと小さく円を描いた。
「いくよ、シュイ」
その呼びかけに応えるように、水の召喚体がふわりと揺れる。
「はいっ、いつでもどうぞっ」
彩葉は水の召喚体を、シュイと名付けていた。
名前を与えてから、呼応はさらに明確になった。ただ隣にいるだけではない。今はもう、動きの意味まで分かち合い始めている。
シュイは輪郭をほどき、水球のような形へと変化する。透き通った表面が光を受けてきらめき、そのまま彩葉の動きへぴたりと重なった。
彩葉が一歩踏み出す。
同時に、シュイも動く。
彩葉が指を持ち上げると、前方に水柱が立ち上がった。幾筋もの流れが絡み合い、螺旋を描きながら上へ伸びる。
「いいですねっ、そのままですっ」
次の瞬間、彩葉が腕を払う。
しゅっ、と水が散り、その先に水陣が一気に展開する。
床の上。
空中。
足元。
視界の端。
薄い水の膜が円を描くように広がり、場そのものの流れを書き換えていく。踏み込めば滑る。視線を切れば死角から水が来る。たった一振りで、彩葉は空間の通り道を奪っていた。
「そこ、きれいに取れてますっ」
止まらない。
彩葉はそのまま、くるりと舞う。
ボブカットの毛先が跳ね、制服の裾がひるがえる。その舞いに合わせて、無数の水弾が放たれた。
前へ。
横へ。
上へ。
死角へ。
しかも水弾は飛ぶだけではない。空中でぴたりと滞空し、そのまま空間の自由を掌握していく。
「はいっ、流れ掴めてますっ」
彩葉は少し息を弾ませながら笑った。
「いい感じ」
シュイは彩葉の肩の横へふわりと浮かぶ。
「前よりずっと、きれいに流れてますっ」
彩葉は空中に残る水弾の位置を見渡した。
「うん」
「前より、ずっと思った通りに動いてくれる」
その言葉に応えるように、シュイの表面がきらりと光る。
「一緒に、もっと広げていきましょうっ」
彩葉は小さく笑った。
「ええ、もっと面白くできそうね」
◇
その頃。
「雅、もっとだ」
王様の低い声が、訓練場に響く。
「もっと力をこめろ」
「まだまだ」
「すばやく動け」
「あのなあ、王様」
雅が肩で息をしながら言い返す。
「なんだ」
「だから、なんで俺だけ筋トレなんだって」
そう叫びながら、雅はバービージャンプを続けていた。
しゃがむ。
脚を後ろへ弾く。
腕立ての体勢になる。
跳ね戻る。
立ち上がってそのまま跳ぶ。
きつい。
普通にきつい。
しかも王様は、すぐ目の前で腕を組んだまま、まったく容赦しない。
「仕方ないであろう」
王様は当然のように言った。
「儀式のためである」
雅は着地と同時に顔をしかめる。
「その儀式ってのが、もう意味分かんねえんだよ……!」
だが、王様は真顔だった。
王様は、使用したエネルギーに応じて力を発揮できた。
つまり。
運動して体内のATPを消費すればするほど、王様に還元され強化される。
そういうことである。
「運動しろ、雅」
王様が重々しく言い放つ。
「有酸素運動だぞ」
「分かってるよ!」
雅が叫ぶ。
「分かってるけど、もっとこう……あるだろ!」
「かっこいい練習とかさあ!」
「ない」
王様は即答した。
「ないのかよ!」
「今のそなたに必要なのは、映えではない」
「酸素と根性である」
「いや絶対違うだろ!」
それでも雅の体は止まらない。
しゃがんで、蹴って、戻って、跳ぶ。
またしゃがんで、また跳ぶ。
額から汗が落ちる。
呼吸が荒くなる。
脚がじわじわと重い。
そのくせ、王様は妙に満足そうだった。
「よい」
「そのまま続けろ」
「余がさらに大きくなるぞ」
「いやそこなんだよな……!」
雅はぜえぜえ言いながら抗議する。
「確かに強くはなるんだけど、そこに至るまでがダサすぎるんだよ……!」
「何を言う」
王様が眉ひとつ動かさず返す。
「鍛錬とは本来、地味なものだ」
「地味とかそういうレベルじゃねえ!」
「俺もかっこいい練習してえーー!!」
最後は半ば悲鳴みたいに叫んで、雅は天を仰いだ。
だが、天は何も答えない。
その時だった。
「それほど言うなら、試してみるか? 雅」
王様が腕を組んだまま、いかにも当然のように言った。
ぜえぜえと肩で息をしていた雅が、ぴくりと反応する。
「お?」
「何だよ、今度こそかっこいい練習するの?」
「余がパンチする」
「それだけぇ?」
へなへなと、雅の膝がまた落ちた。
「おい待てよ!」
「今までの流れでそれだけってある!?」
「もっとこう、構えとか型とか連携とかあるだろ普通!」
「まあ見ておれ」
王様はまったく動じない。
そして、くるりと視線を巡らせた。
「純香とやら」
「少し頼みたいのだが」
訓練場の端で調整をしていた純香が、静かに振り向く。
「何かしら、王様」
「いまできる最も硬質で、密度が高く、厚い壁を作ってくれんか」
純香は一瞬だけ目を細めたが、すぐに頷いた。
「いいわよ」
足元へ、すっと意識を落とす。
次の瞬間。
ゴゴゴゴ……!
地面が唸りを上げた。
訓練場の土が盛り上がる。
ただせり上がるのではない。
下から押し出された地盤が何層も圧縮され、押し固められ、ひとつの塊として噛み合いながら持ち上がっていく。
横に広い壁、というより。
それは、巨大な岩の柱だった。
分厚い。
高い。
表面は鈍く光り、ところどころに岩肌の筋が走っている。見た目以上に詰まっているのが分かる、重い重い柱だ。
「……すご」
彩葉が思わず呟く。
「壁というより、岩山ね」
瑠璃も目を丸くする。
王様はその柱へ歩み寄ると、ぱし、ぱし、と手で叩いて感触を確かめた。
鈍い、重い音が返ってくる。
「うむ」
「よいな」
雅も半信半疑で近づき、拳で軽く叩いてみる。
「……っ」
「硬っ」
思った以上に硬い。
いや、硬いというより、詰まっている。普通の土壁の感触ではない。殴ったこっちの拳の方が痛い。
「壁っていうか、巨大な一つの岩だぞ、これ」
雅が顔をしかめる。
「そうである」
王様は胸を張った。
「だからよい」
雅は柱を見上げ、それから王様を見る。
「王様」
「これにパンチするのか?」
「そうである」
あまりにも当然のように返されて、雅は逆に少し引いた。
「まじで?」
「まじである」
そして王様は、まるで思いついたみたいに付け足す。
「よし、雅」
「そなたはそこで全力で腿上げをしておれ」
「結局そこに戻るのかよ!」
「当たり前であろう」
王様は眉ひとつ動かさない。
「余の力を見せるのに、そなたの協力は不可欠だ」
「……じゃあ、やってやるよ」
雅は半ばやけくそみたいに顔を上げた。
「王様、見せてみろよ」
「誰に言っておる」
次の瞬間、雅はその場で全力の腿上げを始めた。
一回。
二回。
三回。
膝を高く引き上げるたび、呼吸が荒くなる。太腿が熱を持ち、足裏が細かく地面を打つ。
だが、それと同時に、王様の輪郭がじわじわと膨らみ始めた。
「うおっ……」
新が思わず声を漏らす。
膂力が、盛り上がっていく。
胸板がさらに分厚くなる。
腕の筋が浮き、肩の張りがひと回り増す。
空気そのものが、王様の周囲だけ濃くなったみたいだった。
「ほら見て」
彩葉が小さく言う。
「ほんとに上がってる……」
「ええ」
純香も静かに頷く。
「かなり分かりやすく」
王様はその増していく力を受け止めるように、ゆっくりと拳を握った。
「よい」
「そのままだ、雅」
「っ、は……っ、は……!」
雅は腿上げを続けながら歯を食いしばる。
「だから……これ……見合うだけのやつ、見せろよ……!」
「うむ」
王様が一歩、前へ出る。
そして、巨大な岩柱のど真ん中を見据えた。
大きく、振りかぶる。
王冠が揺れる。
腕がしなる。
肩から背へ、腰から脚へ、全身の力がひとつの線にまとまっていく。
その瞬間、訓練場の空気がぴんと張った。
王様が拳を振り抜いた。
ブオォッ!!
その拳が空間を二分する。
バガァンッ!!
凄まじい轟音が訓練場を揺らした。
王様の拳が、柱のど真ん中を真正面からぶち抜いた。
一瞬、何が起きたのか分からない。
次の瞬間、柱の中央に空いた巨大な穴から、衝撃が四方へ走る。
ど真ん中を貫かれた岩柱は、そこを起点に内部から一気に崩壊した。
内側から弾ける。
割れる。
砕ける。
柱全体に放射状の亀裂が走り、次の拍にはもう保てない。
どォッ!!
巨大な柱が、真ん中から粉砕された。
上半分が崩れ落ちるより早く、残った下半分まで耐えきれず、無数の岩片となって四方へ吹き飛ぶ。細かい破片は砂煙となって舞い、大きな塊は地を抉りながら転がった。
たった一撃だった。
しかも、ただ壊したのではない。
真正面からど真ん中を打ち抜いて、柱そのものを成立不能にした。
「……は?」
最初に間の抜けた声を出したのは雅だった。
腿上げを止めたまま、呆然と砕け散った柱の跡を見る。
「こんなにか……王様」
「そうだ」
王様は当然のように言った。
「こんなに、なのだ」
そのまま腕を組み、満足そうに胸を張る。
「分かったか、雅よ」
「お前が動けば動くほど、余のパワーは倍増するのだ」
王様の低い声が、妙に重く響いた。
「覚えておけ」
雅はまだ目を丸くしたままだった。
でも、その表情の奥では、さっきまでの不満が少しずつ別のものに変わっていく。
納得だ。
面倒くさい。
きつい。
地味だ。
でも、今の一撃を見せられたら、文句だけでは終われない。
「……分かったよ」
雅がようやく言う。
その返事に、王様はうむ、と重々しく頷いた。
「ならば続けるぞ」
「次は持久走である」
「今ちょっと感動しかけてたのに!!」
訓練場に、雅の悲鳴が元気よく響いた。
それぞれ頑張っています




