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第百十一話 ミラ

 新は、内心ひどく戸惑っていた。


 負けたくない。その一心で前に出た。

 けれど、何をすればいいのか分からない。どう戦えばいいのかも、今の自分に何ができるのかも、まだはっきりしない。


 ただ――風が、そうしろと言った。


 だから、立った。


     ◇


 新の周囲で、風が舞っていた。


 自由に。軽やかに。

 けれど、ただ吹き散っているのではない。散りながら集まり、集まりながらほどけ、ほどけながら、また形を為していく。


 その中心に、彼女はいた。


 風に靡く髪。

 風にほどける裾。

 伏し目がちの長い睫毛に、整った容姿。

 その周囲を、大小さまざまな光が、時計の針や文字盤の欠片のように静かに巡っている。


「新さん」


 風の精霊が、やわらかく呼びかけた。


「私はミラ」


 新は息を呑む。


 ミラは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「これでやっと、あなたの隣に立てるわ」


「隣に……?」


「分かるでしょう?」

 ミラは新の目を見る。

「もう以前のあなたではないの」

「その目が、何よりの証拠」


 白銀の時計の紋が、新の目に浮かんでいた。


「一緒に向かいましょ」

 ミラは言う。

「この先へ」


「何を言って――」


 かち。


 その瞬間だった。


 何かが見えた。


 はっきりした映像ではない。

 けれど確かに、“先”へ意識が滑った。


 衝撃波が、自分の体を掠めていく。


「危ないっ」


 考えるより先に、新は場所をずらしていた。


 次の瞬間。


 ゴウッ、と重い音を立てて、脇を衝撃波が通り過ぎる。


「避けた!?」

 一ノ瀬が目を細める。


 だが、すぐにその目つきが変わる。


「……いや」

「あれは見えてからじゃない」

「見える前から、動いていた」


 そして、その視線が新の目へ止まる。


「その目……まさか」


 新自身も、まだ半信半疑だった。


「今……見えた」

 掠れた声が漏れる。

「先の……未来が」


「何だって、新!?」

 雅が驚いて叫ぶ。


「分からない」

 新は首を振る。

「でも、見えた」


「先見……」

 カサネが静かに呟いた。

「なんとまあ、珍しいこと」


「先見?」

 律が聞き返す。


「ええ」

 カサネは頷く。

「そのまま、先を見る力ですわ」


 その言葉が落ちた瞬間、新の中でいくつもの点が繋がった。


 帰り道の、あの違和感。

 風が“先がある”と言ったこと。

 クロノスが気にしていたこと。

 そして今、自分の目に浮かぶ白銀の時計。


 全部が、一本の線になった。


「そうか……」


 新が小さく呟く。


 ミラは隣で、にこやかにそれを見ていた。


「そういうことか」

 新は、今度ははっきりと言った。

「ミラ、そういうことか」


「ええ」

 ミラがやわらかく笑う。

「そうなのよ、新」


 だとしたら――


 かち。


 新の白銀の時計の針が、ひとつ進む。


 また見えた。


 自分が放つ風を、律が横へ避ける。

 その避けた先に、別の流れがある。


「いくぞっ!」


「何か分からんけど、来てみぃ!」

 律が迎える。


 新が風を放つ。


 鋭く、まっすぐな一撃。

 律はそれを見て、いつもの調子で身をひねる。


「そんなん、ちょろいで――って、うわわわっ!?」


 避けた先に、旋風が置いてあった。


 後から生まれたのではない。

 最初から、そこへ避けると分かっていたみたいに。


 巻き込まれて、律の体がふわりと宙へ浮く。


「律!」


 一ノ瀬が即座に動く。

 滑り込むようにして律を受け止め、そのまま二人とも新とミラを見る。


「今……」

 律が息を呑む。


「読まれてた」

 一ノ瀬が、はっきりと言った。


     ◇


 律と一ノ瀬の背中を、冷たいものが流れる。


 王様は強かった。

 何より圧がすごかった。重く、正面から来るだけで押し潰されそうな強さだった。


 でも、対処はできた。


 見えていたからだ。

 どう来るのか。

 どこを通るのか。

 何を押しつけてくるのか。


 分かる相手なら、まだ組み立てられる。


 けれど、ミラのこれは違う。


 得体が知れない。


 見えない。

 それに――全てを見透かされるような、そんな怖さがある。


 その時だった。


「くすくす」

 ミラが笑う。

「くすくす」


 足元を、風がするりと抜けた。


「……っ」


 律が反射で一歩後ろへ下がる。

 けれど、その下がった先にも、もう風がいた。


「うわっ」

 一ノ瀬が思わず声を漏らす。


 次の瞬間、別の流れが首筋を撫でた。

 頬をかすめ、耳元を抜ける。


 冷たくはない。

 けれど、ぞっとする。


 そこにいる。

 いるのに、掴めない。


 まるで演習場そのものへ溶け込んで、二人の反応を面白がって遊んでいるみたいだった。


 律の喉が小さく鳴る。

 正直、もう戦慄していた。


「律」

 一ノ瀬が低く言う。

「いくぞ」


「透ちゃん……」


 一ノ瀬は目を細めたまま、新とミラを見る。


 新の先見は得体が知れない。

 でも、こちらにはまだ手数の優位がある。


 律。

 ムスビ。

 カサネ。

 そして自分。


 重ね、結び、ずらし、押し込む手数はこちらの方が多い。

 力で押せば、新だって下がるしかない。


「先見が厄介でも」

 一ノ瀬が静かに言う。

「押し潰すだけの手数を作れば、対処しきれない」


「わ、わかった」

 律が頷く。


 怖い。

 でも、止まれない。


「……そう」

 一ノ瀬が小さく呟く。

「たとえ後手でも揺るがなければいい」


 律の目がはっと開く。


「そうか、ゴーレムやったら」


「そう」

 一ノ瀬が頷く。

「ゴーレムなら、風にも強い」

「多少崩されても、すぐには揺るがない」


「いこか、それで」


「ああ」


 二人の間で、方針が決まる。


「いくぞっ」


「くすくす」


 その瞬間、またミラが笑った。


 足元を風が薙ぐ。


「わぁっ!?」


 律がすっ転ぶ。


 体勢を整えようとした一ノ瀬も、同時につんのめった。


「っ……!」


 地へ手をつく。

 だが、その前にもう次の風がある。


 手のひらを払うように、横からすっと流れが走る。


「うっ」


 一ノ瀬の指先が浮く。

 支点がずれる。


 立てない。


 律が魔力を練る。

 ゴーレムの輪郭を組もうとする。

 だが、その拍に合わせて風が胸元へ入り込んだ。


 どん、と押される。


「っ、あ……!」


 律が尻餅をつく。

 一ノ瀬も、立ち上がる一歩を押し戻される。


 新は、じっとこちらを見ていた。

 凝視している。


 その隣で、ミラは軽やかにこちらを見ている。

 微笑みながら。

 でも、手加減しているようにはまったく見えなかった。


 風の圧が、また来る。


 今度は胸元を押し込まれた。

 呼吸が、一拍だけ狂う。


「……っ」


 律が歯を食いしばる。

 一ノ瀬も、今度こそ無理にでも立とうとする。


 だが、立とうとしたその手を、また風が払った。


 ぴしゃり、と。


 叩くほど強くはない。

 でも、確実に“そこでは立てない”と示してくる風だった。


 そこでようやく、二人は気づく。


 風は――止められない。


 まともに動けない。


 魔法すら、出させてもらえない。


 構築しようとする前に崩される。

 繋ごうとする前にずらされる。

 踏み込もうとする前に、もうそこが塞がっている。


 その全てに、先回りされている。


 そして、その隙を風は見逃さなかった。


「うわぁぁっ!」


 ちび律が吹き飛ばされていった。


 ころころと転がって、演習場の端で――


 ぽすん。


 止まる。


 しばらく沈黙してから、ちび律がよろよろと起き上がる。


 とてとて。


 その場から慌てて律の方へ戻ってくる。


 完全に怯えきっていた。


 目に見えてしょんぼりしている。

 いや、しょんぼりどころではない。

 もう「いやや」「帰りたい」と全身で訴えていた。


 ギャラリーですら、一瞬だけ何とも言えない顔になる。


 だが、笑えない。


 ちび律のその反応が、今の場の異様さをそのまま映していたからだ。


 正直言って。


 律も、内心では同じだった。


 ギャラリーも、ようやくその恐ろしさを理解し始める。


「いや、あんなんヤバすぎやろ……」

「何もできんやん」

「やる前から全部、風が持ってくんやで」

「そんなん無理ゲーやん……」


 笑いはもうなかった。

 ざわめきの中にあるのは、はっきりとした畏れだった。


 新は、白銀の時計を目に浮かべたまま、二人を見ていた。


 その顔に、勝ち誇った色はない。

 ただ、静かだった。


 以前の新ではない。

 けれど、新のままだ。


 だから余計に、ぞっとする。


「……まだ」

 新が、口を開いた。

「まだ、やる?」

「できる?」


 その問いは挑発でも侮りでもなかった。

 ただ、事実をそのまま確認するみたいな声音だった。


 それが、かえって重い。


 律は唇を噛んだまま、横にいるカサネを見た。


「カサネ」

 掠れた声で問う。

「どう思う」


 カサネは、新とミラ、それから周囲に満ちた風をひとわたり見て、静かに答えた。


「どうもこうもないです」


 その声はやわらかい。

 けれど、曖昧さはひとつもなかった。


「今のこの感じ、完敗です」

「形になりません」

「させてもらえません」


 一ノ瀬が、わずかに目を伏せる。


 その言葉が、決め手だった。


「……わかった」


 そう言って、一ノ瀬が手を挙げる。


「僕らの負けだよ」


「透ちゃん!」


 律が思わず声を上げる。


 一ノ瀬は、そんな律へ静かに目を向けた。


「律」

「残念だけど、今の僕らだとこの風は防げない」


 その言葉は、悔しさを飲み込んだうえでのものだった。


「先見も、防ぎようがない」

「勝ち目がないよ」


「透ちゃん……」


 律の目が、少しだけ潤む。

 悔しい。

 まだやりたい。

 でも、今の言葉が嘘じゃないことも分かってしまう。


 けれど次の瞬間、一ノ瀬は顔を上げた。


 見る先は、新だった。


「でも」

 静かな声だった。

「本戦では、こうはいかないよ」


 その目は、もう落ちていない。


「新くん」

「必ず対策を考えておくからね」


 その言葉は、敗北宣言の続きであると同時に、次の勝負への宣言だった。


 新は一瞬だけ目を見開いてから、小さく頷く。


「……うん」


 律もそこで、ようやく息を吐いた。


「そやな」

「次は、そう簡単にはやられへんからな」


 その間に、新もふうっと息を吐く。


 白銀の時計の紋が、ゆっくりと薄れていく。

 光が消え、すっと、いつもの目へ戻った。


 新自身も、少しだけ肩の力を抜いた。


 さっきまで見えていたものが、まだ胸の奥に残っている。

 でも、それを無理に掴みにいく必要はない気がした。


「わかった」

 新が言う。

「お互い、すごいことが分かったから」


 律と一ノ瀬を見る。


「頑張って目指そう」


 一ノ瀬が、小さく笑った。


「そうだね」

「がんばろう」


 その横で、ミラがくすくすと笑う。


「くすくす」

「こういうの、いいわね」


 カサネも、どこか満足そうに目を細めていた。

 ムスビは静かに立ったまま、そのやり取りをにこやかに見つめている。


 風が、やわらかく吹いた。


 さっきまでの得体の知れない圧ではない。

 穏やかな、春の風だった。


 その風は、四人のあいだをすり抜け、演習場のざわめきを少しだけやさしく揺らしていった。

先見の力

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