第百十話 重なりの先
ムスビは大きくよろめきながらも、倒れはしなかった。
裂けた袖を揺らし、足を滑らせかけ、それでも一歩、半歩と踏み直す。やわらかな巫女装束の裾が土を払うように揺れ、細い指先が静かに体勢を立て直した。
「大丈夫?」
一ノ瀬がすぐに声をかける。
「大丈夫です」
ムスビは短く答えた。
「しかし……私の糸が無効化されるなんて」
「余程、輪郭がしっかりとしているのでしょうね」
その言葉へ、王様が低く鼻を鳴らす。
「そなた、“繋がりの”であろう?」
「先代をよく知っている」
「先代……?」
一ノ瀬がわずかに目を細める。
律も、きょとんとしたあと、はっとして王様を見る。
「先代!?」
「王様、それ知っとんか!?」
王様は構えを崩さぬまま、ムスビへ向かって言った。
「今のは共鳴で防げたであろう?」
「なぜ用いぬ?」
一瞬、空気が止まる。
「共鳴……?」
新が小さく繰り返す。
「それって」
「共鳴はお姉が持っとる、それも関係あるんか?」
律は目を丸くしたまま、王様へ身を乗り出した。
「何を言っておる」
王様は当然のように告げた。
「繋ぎ、響かせ、重ね合わせて、静寂を齎す」
「それが神巫の精霊であろう?」
「神巫……?」
律が眉をひそめる。
「どういうことや?」
王様は、いかにも「仕方ない」とでも言いたげに息を吐いた。
「ふむ」
「そなた、神守の出であろう?」
「せや」
律は頷く。
「うちはちっさいけど神社や」
「それがなんや」
「神社にはな」
王様の声が少しだけ重くなる。
「神を祀る精霊として、神巫の精霊が付きやすいのだ」
ギャラリーがざわついた。
「神巫……」
「聞いたことある」
「でも実際におるんか」
王様は気にした様子もなく続ける。
「縁を響かせ」
「縁を結び」
「重ねて神へ届かせる」
「そういうものなのだ」
律の目が、ゆっくり見開かれていく。
「……そういうことやったんや」
その横で、一ノ瀬もムスビを見る。
ムスビは静かに立ったまま、少しだけ目を伏せていた。
否定しない。
でも、全部を知っていたわけでもなさそうだった。
「うむ」
王様が頷く。
「結ぶ方も、神巫に触れたことで、本来のものが変質し、目覚めたのであろうな」
「なるほど」
一ノ瀬が小さく呟く。
周囲のギャラリーも、どこか納得したようにざわつく。
「だからあんなに噛み合うんか」
「ただの相性やないんやな」
「繋がりそのものが強いんや」
王様はさらに言葉を重ねた。
「いずれ、神巫の全てが拓かれるやも知れぬ」
「イメージだけは持っておくと良いぞ」
律は、自分の手を一度見て、それからちび律の残滓がまだ漂うあたりへ目を向けた。
「そっか」
「うちの重複、ただ重なるだけやなかったんやな」
「そういうことだ」
王様が重々しく言い切る。
律の顔から、ひとつ迷いが消えた。
◇
「では、改めていくぞ」
王様が拳を鳴らす。
「準備はよいか」
「よっしゃ」
律がにやっと笑う。
「きてみぃ、王様」
律の前に、今度は虎ではなく、巨大なゴーレムが形作られた。
土とも石ともつかない、分厚い塊。
それでいて鈍重なだけではなく、律の魔力でしっかりと芯を通された輪郭を持っている。
さっきまでとは違う。
同じようにはならない。
その意志が、召喚体の形にまで出ていた。
ムスビも一歩前へ出る。
長い袖を静かに引き、細い指先を揃える。
今度はただ糸を散らすのではない。
結ぶための構えだった。
「いける?」
一ノ瀬が問う。
「ええ」
ムスビは答える。
「今度は、分かります」
「よし」
律が前へ出る。
「いくで、透ちゃん」
「うん」
一ノ瀬も頷いた。
「よし、いくぞ」
王様が低く告げる。
次の瞬間。
消えた、ように見えた。
「はっ!?」
新が思わず声を漏らす。
あの巨体が、一歩で間合いを詰めていた。
重い。
大きい。
なのに、速い。
王様の拳が、一直線にゴーレムへ叩きつけられる。
ドゴンッ!!
「んんんっ!」
律が歯を食いしばる。
「なんて重い拳や!」
ゴーレムが押される。
足元からきしむ。
受け止めているのに、受け止めきれない。
「律!」
一ノ瀬が即座に声を飛ばす。
「柔らかく巻き付くイメージを縫い付ける!」
「よっしゃ!」
ムスビの糸が走る。
今度の糸は“外す”ためのものではない。
細く、しなやかに、ゴーレムの表面へ縫い込まれていく。
固さだけではなく、しなりを与える。
受けるのではなく、流すための結び方。
「これで受け流しつつ、巻き取れるわ!」
次の瞬間、王様の腕へゴーレムがぐるりと巻き付いた。
硬い土塊ではなく、柔らかく噛みつく重さへ変わっている。
絡みつき、引き寄せ、動きを鈍らせる。
「ほう」
王様の目が細くなる。
「なるほど、良い連携だな、そなたら」
「せやろ!」
律が誇らしげに笑う。
ムスビも静かに呼吸を整えていた。
今度は糸がただ通っているだけではない。
律のイメージと、一ノ瀬の結び方が、ちゃんとひとつになっていた。
だが。
「ならば」
王様が低く言う。
「である!」
そのまま。
王様は、巻きつかれた腕ごと拳を地面へ突き立てた。
バキィッ!!
「あっ」
律の声が漏れる。
巻きついていたゴーレムが、そこから一気に砕け散った。
柔らかく受け流すはずだった土塊が、王様の膂力ごと地面へ叩き込まれ、耐えきれずに割れる。細かい破片が四方へ弾け、重い音が演習場に響いた。
王様は、その中心で悠然と立っていた。
「パワーで押し切ればよいだけのこと」
あまりにも堂々たるその言い方に、一瞬、誰も言葉を失う。
それから遅れて、ギャラリーがどっとざわついた。
「いや無茶苦茶やろ!」
「今の連携、普通やったら通るで!?」
「押し切った……」
「ほんまに押し切りよった……」
律は砕け散ったゴーレムの破片を見ながら、口元を上げた。
「……おもろいやん」
「王様」
「これは随分厄介だね、律」
一ノ瀬も、ムスビの隣で静かに目を細める。
「へっ」
雅が勝ち誇ったように笑う。
「思い知ったか、バカップル」
しかも、雅はその場でなぜかスクワットをしていた。
一回。
二回。
三回。
演習場の空気が、一瞬だけ止まる。
「……いや」
律が本気で困惑した顔になる。
「何しとん」
「さすがにここで筋トレはないでしょ」
彩葉が思わずつっこむ。
「これはなっ!」
雅が息を切らしながら言い返す。
「王様維持のための儀式!」
「なんか情けないな」
新がぼそっと言う。
「うん、絵面悪いな」
純香も静かに追撃した。
「王様強すぎるだけに、ギャップすごいわね」
彩葉が呆れ半分で言う。
ギャラリーからも、遠慮のないざわめきが漏れる。
「いや、何やあれ……」
「急に俗っぽなったな」
「さっきまで王やったのに」
「しょうがないでしょうがっ!」
雅が宙へ向かって叫ぶ。
「やったれ王様!」
その時だった。
王様の正拳に、ムスビとちび律が同時に両手を前へ出し、術者を護る。
拳が触れた、その瞬間。
リィーン。
澄んだ音が、空気を裂いた。
王様の拳が、弾かれる。
「!?」
律の目が大きく開く。
「なんや今の!?」
王様の巨体が、わずかに後ろへ押し返される。
真正面から受け止めたはずなのに、拳の先だけがきれいに逸らされていた。
その場へ、やわらかな声が落ちる。
「ふふ」
「王様、お久しゅう」
ふん、と王様が鼻を鳴らした。
「だ、誰!?」
律が素で言った。
「ほんま誰!?」
そこに立っていたのは、見慣れたちび律ではなかった。
巫女姿の、小柄な女性だった。
白と赤の装束。
やわらかな輪郭。
どこか穏やかで、それでいて底の見えない静けさがある。
小さい。けれど、弱くは見えない。むしろ、そこへ立っただけで場の重なり方が変わったようにすら感じた。
その女性は、少しだけ困ったように微笑む。
「光」
「そこに在られるのに、姿を見せぬのは失礼になりましょう?」
律はまだついていけていない顔のままだ。
「いや、ほんま誰!?」
女性は袖を整えるように指先を寄せて、やわらかく一礼した。
「私はカサネ」
「この子の重複の精霊にございます」
一瞬、律の顔から全部の表情が抜けた。
「……は?」
ギャラリーも一拍遅れてざわつく。
「重複の精霊……?」
「ちび律ちゃうかったん?」
「フェイクやったんか?」
王様はそんなざわめきを意に介さず、低く言った。
「ふん」
「大分弱体化しているようだがな」
カサネはにこりと笑う。
「それは王様もでしょう?」
「そのような小さきお身体で」
律と雅が、同時に少しだけむっとした。
「おい」
雅が眉をひそめる。
「今、王様ディスった?」
「おいカサネとか言うたな」
律も口を尖らせる。
「うちの前でいきなり何言うてんねん」
カサネはその反応すら面白そうに見ていた。
「この子は小さく、若く、まだ心も揺れます」
「ですから私は、顕現を控えておりました」
「え!?」
律が目を剥く。
「そしたら、ちび律は?」
「はい」
カサネはあっさり答えた。
「フェイクです」
「フェイク!?」
律が叫ぶ。
「王様が神巫について触れてしまわれたので」
カサネはにこやかに続ける。
「出ていくほか、ありませんでした」
口調は丁寧だった。
だが、言っている内容にはしっかり棘がある。
「うち、まだ不十分なん?」
律が少しだけ真顔になって聞く。
「カサネ?」
「はい」
カサネは即答した。
「何なら全然です」
「もう、全然」
「ちょ、お前、容赦ないなほんま」
律が思わず半歩のけぞる。
「はい」
カサネは楽しそうに微笑んだ。
その笑顔がまた、妙に上品で、余計に逃げ場がない。
「宜しければ、本気をお見せしてさしあげますよ」
カサネが静かに言う。
「律?」
律は少しだけ歯を見せて笑った。
「……ええやろ」
「見せてみ」
「はい」
カサネは満足そうに頷く。
「ちゃんと見ていて下さいね」
「重なりの、本当の力を」
その視線が、そっとムスビの方へ向く。
「ムスビちゃんも、そこで見ていてね」
ムスビは、わずかに目を見開いて頷いた。
あの柔らかな巫女姿の奥に、自分とは違う、けれど確かに“近い系譜”を感じ取っているようだった。
◇
「雅」
王様が低く呼ぶ。
「どうした、王様」
雅がすぐに返す。
「気合いを入れるのだ」
「お、おう」
雅が反射で背筋を伸ばす。
王様の視線は、もうカサネを見ていた。
あの王が、少しだけ声音を変える。
「来るぞ」
「……はい」
さっきまでのスクワットの間抜けさが嘘みたいに、雅の声も引き締まった。
カサネは、静かに一歩前へ出る。
「では、行きましょうか」
その時にはもう、彼女の手には神楽鈴があった。
いつ出したのか、誰も見ていない。
だが確かに、小さく美しい鈴がその指先に揺れている。
シャン。
鈴が鳴った。
その瞬間だった。
王様の体が、くの字に折れて吹き飛んだ。
「え……」
雅の口から、情けない声が漏れる。
さっきまであれほど重かった王様が。
あの巨大な体が。
今、鈴の音ひとつで後方へ弾かれた。
王様は演習場の床を滑り、それでも転ばずに片膝で止まる。
「やるではないか、カサネ」
その声には、悔しさよりもむしろ愉快さが混じっていた。
「あら?」
カサネが小首を傾げる。
「この程度で、それ?」
言葉はやわらかい。
でも、完全に煽っている。
「こちらもいくぞ」
王様が立ち上がる。
次の瞬間、王様の拳が唸った。
速い。
重い。
さっきまで律たちを押し潰していたあの一撃だ。
だが。
シャン。
鈴が鳴る。
それだけで、王様の拳は止まった。
いや、止められたのではない。
鈴の先で、いとも簡単に受けられていた。
細い手首。
小さな鈴。
それだけで、王様の重い一撃がきれいに受け流されている。
「何がどうなってる!?」
雅が叫ぶ。
カサネは、王様の拳を鈴でいなしながら、静かに言った。
「これが、“重なり”です」
その声は、澄んでいた。
「イメージを重ねるだけが、重なりではないのです」
シャン。
また鈴が鳴る。
その音は、ただ綺麗なだけではなかった。
重なったものの位相を揃え、噛み合わせ、必要ならずらす。
目には見えないはずの“関係”そのものへ触れているみたいな音だった。
「一つは倍に」
カサネが静かに言う。
シャン。
鈴の音が一つ、空気を打つ。
「倍が、更に倍へ」
シャン。
シャン。
さっきの音が、消えずに残っている。
いや、残っているのではない。
後から鳴った音と重なって、見えない層を作っている。
「更に、更に倍へ」
シャン。
シャン。
シャン。
音が重なるたび、空間そのものが震え始めた。
ドゥン!
ドゥン!
見えない衝撃波が、王様へ次々と叩き込まれる。
「ぬううう……!」
王様が正面から受ける。
押し返そうとする。
だが、衝撃は止まらない。
ひとつをいなしても、次が来る。
次を受けても、もうひとつ先が重なっている。
まるで、音そのものが王様の拳や脚へまとわりつき、動きの位相をずらしているみたいだった。
「これが、重なり」
カサネが告げる。
「一つを二つに」
「二つを四つに」
「四つを、さらに幾重にも重ねていく」
シャン。
鈴が鳴るたびに、衝撃は累乗する。
ドゥン!
ドゥン!
ドゥン!
今度は王様の巨体が、明らかに押し込まれていく。
「ぐ……っ!」
巨体が踏ん張る。
床が割れる。
それでも、後ろへ押される。
ギャラリーが息を呑む。
「押してる……」
「王様を?」
「うそやろ……」
カサネの表情は変わらない。
穏やかなままだ。
「重なりは、ただ積むものではありません」
「共鳴し響かせ、結んで揃え、重ねて噛み合わせてこそ――本当の重なりになるのです」
シャリン!
最後の一音が鳴った。
その瞬間、今まで積み重なっていた衝撃が、一斉に王様へ返った。
ドォンッ!!
「ぐはっ!」
王様のガードが吹き飛ぶ。
巨体が大きく仰け反り、そのまま後方へ弾かれた。
王冠が揺れ、分厚い腕が空を切る。
さらさらと、召喚の輪郭がほどけていく。
「あっ、王様っ!」
雅が思わず叫ぶ。
光は、もう留まらなかった。
王様の姿は静かに崩れ、そのまま召喚が解除されていった。
「分かったかしら、律?」
「はあっ、はぁっ……なるほど、よう分かった」
律が肩で息をしながら、でも顔を上げる。
「ほんで」
「これで、勝負あり、やな」
勝利宣言だった。
たしかに、今の打ち合いだけ見ればそうだ。
王様は落とされた。
雅の最大戦力は、いま消えた。
だが。
「――まだだっ」
声が飛ぶ。
律と一ノ瀬、そして雅まで、同時にその方を見る。
◇
風が舞っていた。
自由に。
軽やかに。
でも、ただ散っているのではない。
散りながら集まり、
集まりながらほどけ、
ほどけながら、また形を為していく。
新の周囲で、風が生き物みたいに回っていた。
「新……?」
彩葉が呆然と呟く。
その風が、ゆっくりと輪郭を持つ。
風に靡く髪。
風にほどける裾。
伏し目がちの長い睫毛に、整った容姿。
それは以前見た風の精霊に似ていて、でも違っていた。
もっと静かで、もっと深くて、もっと――先を見ている。
その周囲には、大小様々な光が浮いていた。
くるくると。
円を描くように。
まるで時計の針や文字盤の破片が、風の中へ散りばめられているみたいに。
「……っ」
雅が息を呑む。
「新、お前、目が――」
「え?」
新が、はっとする。
見ようとして見えるわけじゃない。
でも、何かが自分の中で噛み合った気がした。
その時だった。
「それ……」
彩葉が小さく呟く。
「山田先生と、同じ……」
新の目に、白銀の時計の紋が浮かんでいた。
金ではない。
けれど明らかに、あの時空の紋と同系統だと分かる光。
「分からない」
新が掠れた声で言う。
本当に分からない。
何が起きているのか。
何が見えているのか。
何が生まれたのか。
だけど。
「何か……分かる……」
その言葉だけは、自然に口からこぼれた。
風が、ふっと強く吹く。
演習場の全員が、その一瞬だけ息を止めた。
◇
その頃。
山田鈴音は、実習室で資料を整えていた。
「あら?」
彼女はふと顔を上げる。
「クロノスさん? どうしました?」
いつもなら軽く返ってくる気配が、今は少しだけ違っていた。
クロノスは、どこか楽しそうに笑っている。
「生まれたようね」
「生まれた?」
鈴音がきょとんとする。
「何がですか?」
「いいえ」
クロノスはくすくす笑った。
「何でもないわ、鈴音」
「……?」
鈴音は首を傾げる。
けれどクロノスはもう別の方を見ていた。
遠く。
まだこちらには見えない場所を。
「先見……」
その声は、やわらかいのに妙に愉しげだった。
「面白くなりそうね」
先見とは?




