第百七話 まだ見えないもの
翌朝。
制服に着替えながら、新はぽつりと呟いた。
「……何だったんだろう、あれ」
昨日の帰り道。
野球部の打球が飛んできた時、自分は確かに妙な違和感を覚えた。見えたわけではない。考えていたわけでもない。ただ、そこにそのまま立っていてはいけない気がして、気づけば彩葉の肩を引いていた。
結果として、ボールは本当にそこを通った。
偶然だと言い切るには、少しだけ出来すぎていた。
「気になるよね、ね」
軽い声が返ってくる。
窓のカーテンがふわりと揺れた。
新は振り返る。
「……ていうか、お前だろ」
「昨日あれやったの」
風のエレメントは、くすくす笑うみたいに空気を揺らした。
「そうだよ?」
「何だよ、教えろよ」
新がすぐに言う。
「教えないよ」
「なんで」
あっさり返されて、新は眉を寄せた。
風が、するりと首元を抜ける。からかうようでいて、でもただふざけている感じでもない。
「今言うと、滲むから」
「……滲む?」
「そ」
風のエレメントの声は軽い。
「せっかくの成長が歪むのよ」
「知ってしまうことで」
新は黙る。
分かるような、分からないような言い方だった。
「ちゃんと認識して、ちゃんと理解しないといけないの」
「これは、そういうものなの」
「そういうものって言われてもな……」
新は小さく息を吐く。
「曖昧すぎるだろ」
「うん、曖昧だね」
風のエレメントは悪びれずに答えた。
「でも、今はそれでいいの」
「だから、言わないんじゃなくて……言えない」
新は、その言い方に少しだけ引っかかった。
「言えない?」
「そう」
風のエレメントは、やわらかく続ける。
「先に言葉を置いちゃうと、そっちに引っ張られるから」
「ほんとは、あなたが自分で掴まなきゃいけない」
新は、むっとした顔のまま黙り込む。
でも、その沈黙の中で分かることもあった。
少なくとも、からかって遊んでいるだけではない。
隠しているのではなく、今はまだ渡せないでいる。
そんな感じだった。
「……悪意でやってるんじゃないんだな」
新がようやく言う。
「そうだよー」
風のエレメントは少しだけ明るく返した。
新は肩をすくめる。
「分かったよ」
「待つよ、一緒に」
「そうしてくれると助かるかな」
窓から入る朝の風が、少しだけやわらかくなった気がした。
◇
そうは言っても、やっぱり気にはなる。
朝の支度をしながら、新は何度も昨日のことを思い返していた。
あの、半拍だけ先に身体が動いた感じ。
見えたわけでも、考えたわけでもないのに、そこに立っているのがまずいと分かった感じ。
「……一回、山田先生に相談してみるか」
新はネクタイを締めながら、小さく呟いた。
クロノスが気にしている、と言っていたのは山田先生だ。
しかもあれは、風のエレメントだけの話ではない気がする。
何か知っているなら、山田先生の方かもしれない。
◇
朝のホームルーム前。
新は、少し早めに実習室の方へ足を向けていた。
扉を開けると、山田先生はもう中にいた。窓際で書類を整えていた手を止め、新に気づくとやわらかく微笑む。
「あら、鳴海さん」
「おはようございます」
「おはようございます」
新は一礼してから、少しだけ言いにくそうに続けた。
「あの、少し聞いてもいいですか」
「ええ、もちろん」
山田先生は穏やかな声で頷いた。
新は昨日の帰り道のことを、なるべくそのまま話した。
ボールのこと。
変な感じがしたこと。
先に身体が動いたこと。
それから、風のエレメントがあれを認めたことも。
山田先生は途中で遮らず、最後まで静かに聞いていた。
そして少しだけ考えるように目を伏せてから、口を開く。
「……クロノスさんは、知らないって言ってますね」
新は目を瞬いた。
「知らない、ですか」
「ええ」
山田先生は頷く。
「何のことか分からないって」
「そうですか……」
新は、少し拍子抜けしたような、でも余計に気になるような顔になった。
山田先生はそんな新を見て、小さく苦笑する。
「尤も、そういうふうにクロノスさんが言うのも珍しいんですけどね」
「珍しい?」
新が聞き返す。
「そうなんです」
山田先生はやわらかく言った。
「クロノスさんは時の精霊ですから」
「大体、何かしら答えてくれるんですよ」
「はっきりした答えじゃなくても、“近い”とか“遠い”とか、“それはまだ”とか」
「何かしら、触れることは多いんです」
「なるほど……」
新はそう返しながらも、余計に分からなくなっていた。
知らない。
でも、それをクロノスが言うのは珍しい。
それは本当に知らないのか。
あるいは、何か別の意味でそう答えているのか。
「……だからこそ」
山田先生が静かに続ける。
「今の段階では、急いで答えをつけない方がいいのかもしれませんね」
新は顔を上げる。
「急がない方が?」
「ええ」
山田先生は頷いた。
「分からないままでも、起きたことそのものは消えませんから」
「もう少し見ていけば、向こうから輪郭が出てくることもあります」
その言葉は、朝の風のエレメントの言い方と、どこか似ていた。
今はまだ、その時じゃない。
先に言葉を置かない方がいい。
新は少しだけ息を吐く。
「……みんな、同じこと言うな」
「あら」
山田先生が少しだけ笑う。
「それは、ちゃんと繋がっているということかもしれませんね」
新は、その言葉にすぐには返せなかった。
分からないままなのは、やっぱり落ち着かない。
でも、昨日よりはほんの少しだけ、待ってみようという気にもなっていた。
「何かまた変わったことがあったら、教えてくださいね」
「はい」
新は素直に頷いた。
まだ見えない。
まだ掴めない。
でも、何かがもう始まっている。
そんな感覚だけが、胸の奥に静かに残っていた。
◇
一方、その頃。
彩葉は水の精霊との呼吸が、前よりずっと合ってきていた。
もともと彩葉は、位相合わせが上手い。
力で押し切るのではなく、相手の流れを読む。
今どこへ向かいたいのか。
どの瞬間なら、すっと乗れるのか。
そういうものを感覚で掴むのが、昔から上手かった。
だから今も、水の精霊の動きがよく見えていた。
長い髪の精霊が揺れる。
肩がわずかに傾く。
腕が流れるように持ち上がる。
その全部に、無理がない。
止まっているようで、止まっていない。
静かなのに、常にどこかが先へ流れている。
「……うん」
彩葉はその動きを目で追いながら、小さく頷いた。
顎の横で、ボブカットの毛先がやわらかく揺れる。
水の精霊もまた、彩葉を見て微笑む。
「いくわよ」
その声と同時に、水の精霊が一歩前へ出た。
その動きを、彩葉はそのままトレースする。
右足。
左肩。
腕の角度。
呼吸の入り方。
水の精霊の体の流れを、彩葉の体がなぞっていく。
最初は鏡写しみたいだった。
けれど数拍もすると、ただ真似しているだけではなくなってくる。
向こうが動く前に、次の重心が分かる。
次にどこへ流れるかが、何となく身体に入ってくる。
「そう」
水の精霊がやわらかく言う。
「そのまま」
彩葉は一度、深く息を吸った。
それから、少しだけ口元を上げる。
「じゃあ、ここから切り替えていくね」
「いいよ」
水の精霊もすぐに応じる。
「合わせてね」
「おっけー」
今度は逆だった。
さっきまで精霊の動きを彩葉が追っていた。
けれど次の瞬間からは、彩葉の方が先に流れを作る。
半歩、前へ。
肩を開く。
視線を斜めにずらす。
その動きに、水の精霊がぴたりとついてくる。
遅れない。
急ぎすぎない。
ちょうどいい。
まるで最初から、どちらが先でもよかったみたいに。
「すご……」
誰かが小さく呟いた。
彩葉と水の精霊のあいだには、昨日までよりずっと自然な往復が生まれていた。
片方が引っ張るだけじゃない。
片方が合わせるだけでもない。
流れを渡して。
流れを受け取って。
また返す。
そうやって、呼吸そのものが往復している。
「うん、いい感じ」
彩葉が笑う。
「ええ」
水の精霊も微笑んだ。
「前より、ずっといいわ」
◇
その脇では、純香が土のエレメントと向かい合っていた。
いや、向かい合っているというより、同じ静けさの中に座っている、と言った方が近い。
純香は床へ静かに腰を下ろし、背筋をまっすぐ伸ばして目を閉じている。
その隣に、がたいの良い土のエレメントもどっしりと座っていた。
空気が違う。
彩葉のところにある“流れる呼吸”とはまた別の、沈むような静けさ。
土へ根を下ろすみたいな、深い落ち着きだった。
「……落ち着く」
土のエレメントが、ぽつりと低く言う。
「ええ、そうね」
純香も静かに返す。
それだけだ。
それだけなのに、ちゃんと会話になっている気がした。
土のエレメントの肩へ、いつの間にか小さな鳥が一羽とまっていた。
窓から入り込んだのか、それともどこかから紛れ込んだのか。
けれど、土のエレメントはまったく動じない。
追い払わない。
驚かない。
ただ、そこに在る。
純香も同じだった。
鳥がとまっても視線ひとつ乱さず、静かに呼吸を続けている。
その在り方が、妙に似ている。
言葉は少ない。
というより、ほとんどない。
でも、不思議と意思疎通は取れているようだった。
何を考えているのか。
何を心地よいと感じるのか。
それを、わざわざ言葉にしなくても分かり合っている。
支える。
受け止める。
急がない。
そういう在り方そのものが、もう揃っていた。
◇
新は少し離れたところから、その二つの光景をぼんやりと見ていた。
彩葉の方では、水の精霊と流れがぴたりと噛み合っている。
向こうへ合わせる時も、向こうが彩葉へ合わせる時も、呼吸がきれいに通っているのが分かる。
純香の方では、言葉にしないまま静けさが通っている。
落ち着く、という短いやり取りだけで、もう十分に噛み合っていた。
どっちも、すごいと思った。
ちゃんと進んでいる。
ちゃんと掴んでいる。
それに比べると、自分の方はまだ曖昧だ。
風は笑う。
先があると言う。
でも、まだ渡してはくれない。
「……」
新は小さく息を吐いた。
分からないままなのは、やっぱり落ち着かない。
でも、焦っても仕方ないということも、何となく分かってきていた。
彩葉は流れを掴んでいる。
純香は静けさを通している。
なら、自分にも自分の掴み方があるはずだ。
そう思いながら、新はもう一度、二人と精霊たちの様子を見た。
水は流れていた。
土は静かに沈んでいた。
そのどちらとも違うところに、自分の風がある。
そのことだけが、今はかすかに感じられた。
新は、ゆっくり自分の手元へ視線を落とした。
分からないままでも、何かできることはある気がした。
新は静かに掌を合わせるようにした。
ぴたり、と閉じるのではなく。
ほんの少しだけ隙間を残して、向かい合わせる。
すると、そのあいだをさらさらと風が流れていった。
「……あ」
新が小さく息を呑む。
強い風じゃない。
何かを吹き飛ばすようなものでもない。
でも確かに、そこを通っている。
掌と掌のあいだ。
自分で作った小さな道を、風が選ぶみたいに流れていく。
新は少しだけ指を寄せた。
隙間が狭くなる。
すると風も、さっきより少しだけ速くなった。
さら、ではなく。
さぁっ、と。
細く、鋭く、先へ抜ける。
今度は逆に、手をほんの少し離してみる。
隙間が広がる。
すると風は、今度はゆったりと流れた。
急がない。
でも止まらない。
自分のあいだを通り抜けながら、どこかもっと先へ行こうとしているみたいだった。
新はそれをじっと見つめる。
狭めれば速くなる。
広げればゆるやかになる。
同じ風なのに、通り方が変わる。
自分の作り方ひとつで、流れ方が変わる。
「もっと先を」
新は、ほとんど無意識に呟いていた。
掌のあいだを流れる風が、わずかに揺れる。
「もっと、もっと先を」
「見てみたい」
その瞬間だった。
ふっ、と。
ほんの僅かに、風が吹いた。
教室の窓が鳴るほどでもない。
誰かの髪を大きく揺らすほどでもない。
けれど確かに、自分の手のあいだから外へ抜けた流れが、その先で小さく応えた。
呼応した。
ただ流れたのではなく、返してきたみたいに。
「……今の」
新が目を上げる。
風はもう元に戻っていた。
けれど、さっきの一瞬だけは確かに違った。
もっと先を見たい。
そう思った時にだけ、わずかに強く吹いた。
まるで、その気持ちを拾ったみたいに。
少し離れたところで、水の精霊がちらりとこちらを見た。
土のエレメントも、わずかに視線を向けた気がした。
そしてもう一体。
雅と“丁寧さの訓練”をしていた王様が、ふと新の方へ顔を向けた。
「ほう」
低く、満足そうな声だった。
「あの者、そうか」
「どうした、王様」
雅が怪訝そうに眉を寄せる。
王様は腕を組んだまま、新をじっと見ている。
「いや」
「あの者は、そなたの学友であったな」
「新?」
雅がそちらを見てから頷く。
「そうだけど?」
「あの者、面白いな」
王様は静かに言った。
「まだ途中だが」
雅が露骨に嫌そうな顔になる。
「どういうことだよ」
「何」
王様はふんと鼻を鳴らす。
「その内分かるとも」
「またそれかよ」
雅が顔をしかめる。
「お前ら、そういうの好きだな」
王様は聞いているのかいないのか、そのまま当然のように続けた。
「それより雅よ」
「もっと丁寧に余を扱えるようになれ」
「いや、今それの訓練してただろ」
「足りぬ」
王様が即答する。
「いずれ、それがあの者の助けにもなるだろう」
雅が一瞬きょとんとする。
「どういうことかわかんねえ」
「今は分からずともよい」
王様は堂々と言い切った。
「だが無駄にはならぬ」
雅は少しだけ黙ってから、肩をすくめた。
「……でも、とにかく先ずは王様ってことだな」
「そういうことだ」
王様は深く頷いた。
「では続きいくぞ」
「うん?」
雅が嫌な予感を顔に出す。
王様は厳かに、だが妙に張り切った声で告げた。
「息を上げずに、腹筋百回だ」
「だから何で俺だけ体育会系なんだよ!」
教室の空気が少しだけ緩む。
その声に、新もはっと我に返った。
さっきまで感じていた微かな呼応は、もう静かに引いていた。
でも、消えたわけではない。
掌のあいだには、まだかすかな流れが残っている。
風の精霊が、どこか楽しそうに笑う気配がした。
「……気づき始めた?」
その声に、新は少しだけむっとした顔をした。
「そういう言い方、ほんとずるい」
「くすくす」
「でも、今のはよかったわよ」
新はもう一度、自分の掌を見る。
まだ分からない。
でも、まったく何も掴めていないわけでもない。
そんな、曖昧だけど確かな手応えが、そこにはあった。
風を掴むような話




