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第百六話 成長する

 翌朝。


 瑠璃は、翡翠を連れて登校していた。


 昨日の夜、植木鉢の中へすっぽり収まった翡翠は、そのまま自分の居場所を気に入ったらしい。朝になっても鉢の中から四葉をぴょこんと出したまま機嫌よく揺れていて、瑠璃が「学校行くよ」と声をかけると、眠そうに目をこすりながらも素直についてきた。


 その姿が、まずずるかった。


 瑠璃色の髪を朝日に透かせたとんでもない美少女が、小さな植木鉢を大事そうに抱えて歩いている。しかも、その鉢の中には、四葉を揺らすつやつやの小さな精霊がちょこんと収まっているのだ。


 かわいくないわけがなかった。


「おはよう、瑠璃ちゃん」


 校門の近くで声をかけられると、瑠璃はいつものようにやわらかく笑った。


「あ、おはよう」


 それだけでもう十分に強いのに、その次がいけなかった。


「ママー」


 植木鉢の中から、翡翠が顔を出して言った。


 一拍。


 ちょうどすれ違いかけていた男子生徒が、膝から崩れ落ちた。


「……え」

「ママ?」

「今、ママって」

「え、何、どういう」


 その隣にいた別の男子も、肩を震わせながら壁に手をつく。


「だめだ」

「朝から情報量が多い」

「かわいさの方向が渋滞してる」


 さらに近くにいた女子二人は、顔を見合わせてぎゅっと胸元を押さえた。


「……むり」

「なにこれ」

「胸がいっぱいなんだけど」

「分かる」

「かわいすぎて意味分かんない」


 瑠璃は少しだけ困ったように笑う。


「えっと、この子、翡翠」

「私の精霊なの」


「精霊!?」

「えっ、精霊なの!?」

「赤ちゃんじゃないの!?」

「赤ちゃんみたいだけど、精霊だよ」

 瑠璃は植木鉢を少し持ち上げて見せた。

「昨日、生まれたの」


「昨日!?」

「昨日!?」


 ざわめきが一気に大きくなる。


 翡翠はそんな周囲の反応も気にせず、植木鉢の縁へ小さな手をかけて、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「おはよう!」


「喋った!」

「ねえ喋れるの!?」

「うわああ、かわいい!」


 さっきまで膝をついていた男子が、今度は顔を上げて呆然とする。


「だめだろこれ……」

「可愛い精霊を抱えた瑠璃さんが“ママ”呼びされる朝とか、破壊力高すぎるだろ……」


「分かる」

 女子の一人が真顔で頷く。

「でも今のは、むしろ浄化だった」

「浄化」

「浄化」


 なぜか周囲の納得が広がった。


 翡翠は瑠璃を見上げて、小さく首を傾げる。


「ママ」

「なあに?」

 瑠璃がすぐに返す。


「ひと、おおい」


「うん」

 瑠璃はふふっと笑う。

「みんな、翡翠が気になるんだって」


「ひすい、きになる?」

 翡翠がきょとんとする。


「気になるよ!!」

 女子が即答した。


「めっちゃ気になる!」

「だってかわいいし!」

「しかも喋るし!」


「ひすい、かわいい?」

 翡翠がまた聞く。


「かわいい!!」

 今度は周囲がほぼ全員で答えた。


 翡翠は一拍だけ止まって、それから満足そうにぽよんと揺れる。


「うれしい」


 その一言で、今度は女子の方が耐えきれなくなった。


「だめ……」

「かわいすぎる……」

「朝から満たされすぎて、もう一日分の幸せある……」


 男子のひとりがふらふらと立ち上がりながら言った。


「俺もう、今日の一限だいぶ頑張れる気がする」

「分かる」

「いや頑張れ、ちゃんと頑張れ」

 友人につっこまれていたが、本人はまだ少し遠い目をしていた。


 そんな風に、校門から昇降口までの短い道だけで、瑠璃と翡翠の周りには小さな人だかりができた。


     ◇


「……すごいね」


 上履きに履き替えながら、瑠璃がぽつりと言う。


 翡翠は植木鉢の中で、朝日を受けて四葉をぴんと立てていた。


「なにが?」

「みんな、ひすい見て笑う」

「うん」

 瑠璃はやわらかく笑った。

「翡翠、かわいいから」

「かわいい」

 ひすいはその言葉を繰り返す。

「ひすい、かわいい」

「うん。とってもかわいいよ」


 その会話をたまたま近くで聞いた女子が、危うくその場でしゃがみ込むところだった。


「だめだって」

「その確認の仕方、かわいすぎる」

「本人に自覚が芽生えてるの、余計にだめ」


 瑠璃は少しだけ照れたみたいに笑う。


「でも、ほんとだよ」

「昨日より、ちょっと大きくなってるし」

「おっきくなった」

 ひすいは嬉しそうに四葉を揺らした。


 教室へ向かう廊下でも、やはり反応は同じだった。


「おはよう、瑠璃さん」

「あ、おはよう」

「……その子が噂の?」

「うん、ひすい」

「ひすいです」

 と、翡翠も言う。


「えっ、ちゃんと名乗った」

「すごい」

「かわいい……」


 男子は男子で妙に姿勢を正し、女子は女子で顔を見合わせて微笑み合う。昨日まで“とんでもない美少女の転入生”だった瑠璃は、今日は“とんでもない美少女のママ”という、さらによく分からない存在へ一歩進んでいた。


     ◇


 教室へ入ると、すでに何人かがその異変に気づいた。


「おはよー、瑠璃――」

 そこまで言って、相手が止まる。

「……何その子」

「ひすいだよ」

 瑠璃が言う。

「私の精霊」


 一拍の沈黙。


「えっ」

「精霊!?」

「ちょっと待って、想像の三倍かわいい」


 瑠璃が植木鉢ごと翡翠を見せると、翡翠はきょとんとしながら、ぺこりと体を傾けた。


「おはよう!」


「うわあああ」

「喋れるんだ!?」

「ねえ喋れるの!?」

「うん、喋れるよ」

 瑠璃が答える。


「ひすい、しゃべれる」

 本人も答えた。


「うわ、自己申告した」

「だめ、かわいすぎる」


 教室の空気が一気にやわらかくなる。


 誰かが「見ていい?」と聞けば、瑠璃は「うん」と笑って植木鉢を近づける。翡翠は見られるたびにぱちぱちと目を瞬かせ、ときどき「ママ」と瑠璃を呼ぶ。そのたびに周囲の何人かが静かに天を仰いだ。


「破壊力高いな……」

「うん」

「でも平和」

「すごく平和」


 朝の登校は、いつもよりずっと賑やかだった。


 いや、登校だけではない。教室の空気そのものが、翡翠の存在で少しふくらんだようだった。かわいいものを前にした時の、あの妙にやさしいざわめきが、朝からずっと続いている。


 瑠璃はそんな空気の真ん中で、少しだけ不思議そうに、でも嬉しそうに笑っていた。


「なんか、みんな元気だね」

「いや、その原因ほぼ君たちだから」

 近くの女子が言う。

「そう?」

「そう」

「完全にそう」


 翡翠はその言葉の意味はよく分からないらしかったが、とりあえず嬉しそうに四葉を揺らしていた。


「ひすい、げんき!」


「うん、知ってる」

「元気なの、めっちゃ伝わる」


 その返しにまた笑いが起こる。


 朝の教室は、いつもより明るかった。

 瑠璃の笑顔と、翡翠の小さな声が、その中心にあった。


     ◇


 そんな賑やかさがまだ残っている頃だった。


 教室の前の扉が開く。


「おはようございます」


 やわらかな声が、静かに教室へ落ちた。


 山田先生だった。


 いつもの穏やかな微笑み。大きな声を出しているわけではないのに、不思議とざわつきの芯だけがすっと静まっていく。


「おはようございます」

「おはようございまーす」


 返事が返る中、すぐに前の方の席から声が上がった。


「先生、瑠璃さんのが成長してます」


「あら?」


 山田先生が目を細めて、瑠璃の机の方を見る。


 瑠璃は少し嬉しそうに植木鉢を持ち上げた。


「見て」

「翡翠だよ」


 山田先生は教壇から一歩、二歩と近づいてきた。そうして植木鉢の中を覗き込み、そのまま小さく目を丸くする。


「まあ……」

「これはまた、輪郭がもうしっかりとしていますね」

「植物系かしら」

「かわいらしいですね」


 翡翠は山田先生を見上げて、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「ひすい」


「翡翠、というのですね」

 山田先生の声が、いつもより少しだけやわらかくなる。

「まあ、かわいい」


 その瞬間だった。


 山田先生の胸の奥が、きゅっとなる。


 大きくはない。けれどたしかに、何か暖かいものに軽くつままれたみたいな感覚だった。


「……あらあらあら」


 思わず、そんな声が漏れる。


 教室の何人かが、その反応に小さく笑う。


「先生もやられてる」

「そりゃそうだよね」

「今の翡翠見たら無理でしょ」


 山田先生は小さく咳払いをして、けれどまだ少しだけ目元をやわらげたまま頷いた。


「ええ、本当に可愛らしいですね」


 翡翠は褒められたことが分かったらしく、嬉しそうにぽよんと揺れた。四葉も小さくふるふると揺れる。


「ひすい、かわいい」

「そうですね」

 山田先生は微笑む。

「とてもかわいいです」


 そのやりとりで、また何人かの胸が静かにやられた。


 けれど山田先生は、そこでふっと教室全体へ視線を向ける。やわらかな空気を壊さないまま、少しずつ授業の顔へ戻っていく。


「瑠璃さんの精霊は、もうしっかりと顕現していますね」

「でも、まだの方も、まだ少しふわっとしている方も多いと思います」


 教室のあちこちで、ぴくりと肩が動く。


「そこで今日は」

 山田先生はそう言って、教壇の横へ手を伸ばす。

「精霊との対話を行っていきます」

「精霊が何を考えているのか、何を心地よく感じて、何を嫌がるのか」

「それを、一緒に見ていきましょう」


 教室の後ろには、すでに木製のマリオネットがいくつも並べられていた。人の形をしたもの、少し丸みを帯びたもの、装飾の少ない素体。それぞれ違うが、どれもまだただの器に見える。


「このマリオネットは」

 山田先生が続ける。

「見たことがある方も多いかもしれませんが、宿す精霊に合わせて形が変わります」

「こちらが無理に決めるためのものではなく、向こうに輪郭を持ってもらうための器ですね」


 何人かが、へえ、と小さく声を漏らす。


「もうしっかりと見えていて、会話もできる方は、使わなくても大丈夫ですよ」

 そう言いながら、山田先生はちらりと瑠璃と翡翠を見る。


 瑠璃は少しだけ照れたみたいに笑って、翡翠は植木鉢の中から「ひすい、しゃべれる」と小さく言った。


 教室の空気がまた少し和む。


「ええ、そうですね」

 山田先生も笑った。

「そういう方は、そのまま対話を続けてください」


「では、やっていきましょう」


     ◇


 教室の空気が少しずつ静まっていく中、新たちはそれぞれ自分の前へマリオネットを置いた。


 昨日まで“気配”だったもの。

 まだ曖昧にしか掴めていなかったもの。

 それを一度、形ある器へ宿してみる。


「急がなくて大丈夫ですよ」

 山田先生がやわらかく言う。

「呼んで、気配を寄せて、宿ってもらう」

「先に決めつけすぎないでくださいね」


「はい」

 新が小さく返す。


 その隣では、彩葉も、純香も、雅も、それぞれ少しだけ真剣な顔になっていた。

 瑠璃は翡翠を植木鉢ごと机の端へ置き、自分はその隣で静かに見守っている。

 翡翠は翡翠で、四葉を揺らしながら「みる」とでも言いたげにぱちぱち瞬きをしていた。


 最初に変化を見せたのは、新だった。


 細身のマリオネットの周りに、ふっと風が集まる。

 髪を揺らすほど強くはない。

 けれど、そこにたしかに“流れ”があると分かるくらいの、細くやわらかな風だ。


 その風が、人形の肩、腕、胸元、足元をひと巡りする。


 そして次の瞬間、マリオネットの姿が変わった。


「……あ」


 新が目を見開く。


 現れたのは、女性型だった。


 すらりとした体つき。

 布のようでも霞のようでもある、ふわふわとした衣装が肩から腕へ流れていて、動くたびに裾が風にほどけるみたいに揺れている。

 髪も長く、けれど形を固定しきらず、先へ行くほど空気へ溶けていた。


 以前、新が感じた“どこまでも行きたい風”とも繋がっている。

 でも、前に見た気配そのままではない。


 もっと近い。

 もっとはっきりしている。

 そして、思ったより感情の色がある。


「わ……」

 彩葉が思わず声を漏らす。

「綺麗」

「ほんとだな」

 新も呟く。

「前より、だいぶはっきりしてる」


 その風の精霊は、そんな新を見て、ふっと笑った。


「あら?」

 軽やかな声だった。

「これは面白いわね」

「君と、ちゃんと会話できるのね」


 少し楽しそうに首を傾げる。


「よろしくね、新」


 新は一拍遅れて、でもちゃんと頷いた。


「……よろしく」

「前と、ずいぶん雰囲気が違うね」


 風の精霊は、くすっと笑う。


「私たち、成長するのよ」

「以前とは違うわ」

「性格も、性質もね」


「性格も、性質もか」

 新が小さく繰り返す。

「君の風も変化するの?」


 風の精霊は、長い衣の袖を揺らして笑った。


「もちろん」

「もう始まってるわ」

「気づいてない?」


 その言葉に、新は先日のことを思い出していた。


 風はね。

 どこまでも行きたいの。

 見たことない場所。

 見たことない景色。

 連れていってよ。


 あの声。

 あの衝動。


 風の精霊は、新の表情を見て、またくすっと笑う。


「そうよ」

「そしてあなたも、私も、その先があるわ」


「その先……」


 新が呟く。


 風の精霊は少しだけ楽しそうに目を細めた。


「くすくす」

「鈍いのね」

「クロノスも言ってたでしょ」


 その名前に、新の肩がわずかに揺れる。


 山田先生が以前、確かに言っていた。

 クロノスが、新を気にしている、と。


 風の精霊は、新の反応を面白がるみたいに微笑んだ。


「くすくす」

「鈍い男の子も好きよ、私は」


「ちょっと」

 新が思わず言う。

「そういう言い方、ずるくない?」


「そう?」

 風の精霊は、悪びれもせず首を傾げる。

「そのうち分かるわよ」

「あなたが先を望むならね」


「ちょっと、意地悪しないで教えてよ」

 新が眉を寄せる。


 けれど風の精霊は、ふわりと衣の裾を揺らしただけだった。


「教えないよ」

「まだ、その時じゃないもの」

「くすくす」


「うわ、ほんとに教えてくれないんだ」

「そういうところも、風なのよ」

 彼女は楽しそうに言った。

「先があるから、今は言わないの」

「全部見えてたら、つまらないでしょ?」


 新は少し困った顔のまま、それでも目を逸らさなかった。


 分からない。

 でも、からかわれているだけでもない気がする。

 ちゃんと何かを知っていて、その上でまだ今は渡さないでいる。そんな感じだった。


     ◇


 その隣では、彩葉のマリオネットにも水が集まり始めていた。


 するり、と流れるように、透明な揺らぎが人形を包む。

 それは固まるのではなく、なじむように輪郭を作っていく。


 やがて現れたのは、すらりとした女性型の水のエレメントだった。

 長い髪は水面のようにやわらかく揺れ、立ち姿はしなやかで、でも流されるだけではない芯がある。


 彩葉は少しだけ照れくさそうに笑う。


「ねえ」

「あなたも進化してるの?」


 水の精霊は、まるでそれが当たり前みたいに、さらりと答えた。


「もちろんよ」


「わ、即答」

 彩葉が目を丸くする。


 水の精霊はくすっと笑う。


「あなたは流れを掴むのが上手いから、わたしもすぐ乗れるわ」

「すごく動きやすいの」


「えへへ、ありがとう」

 彩葉は素直に頬をゆるめた。


 水の精霊はそんな彩葉を見て、やわらかく微笑む。


「そうね」

「以前、王様にも言われたように」

「流れの中で自分を見失わなければ、わたしもみんなを繋ぐことができるわね」


 そう言って、にこりと笑う。


 彩葉はその言葉を受けて、少しだけ真剣な顔になった。


「うん」

「頑張るよ」


     ◇


 一方、純香の前では、会話というより静かな確認が行われていた。


 がたいの良い男性型の土のエレメントは、相変わらず言葉が少ない。大きな体でそこに立っているだけで、妙な安心感がある。


 純香がじっと見上げる。


「……あなた、無口なのね」


 土のエレメントは少しだけ間を置いてから、低く答えた。


「……うむ」

「あまり話すの、得意じゃない」


「でも」

 純香は続ける。

「支える、という感じはするわ」

「しっかりと」


 土のエレメントは短く頷く。


「……そうね」

 純香は小さく笑った。

「あなたなら出来そうな気がするわ」


 その言葉に、土のエレメントの視線がわずかに動く。


「……王様に言われた」

「……支えるだけじゃなく、育む土台になれと」


 純香は少しだけ目を細めた。


「なるほど」

「いい言葉ね」


「……そうなれるように、努力する」

 土のエレメントは静かに言った。


 純香は、その真っ直ぐさを受けて、少しだけ声音をやわらげる。


「なんだか、信頼できる感じね」

「もし私が立ち止まったりしたら、どうする?」


 土のエレメントは、ほとんど迷わなかった。


「……勝手には先へ行かない」

「……あなたを支えて、一緒に進む」


 純香は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「そう」

「嬉しいわね」

「頑張りましょ」


 土のエレメントは、今度は前より少しだけ深く頷いた。


「……うむ」


     ◇


 そして、雅の前では。


 筋骨隆々の王が、すでに堂々たる態度で腕を組んでいた。


 見た目の圧がすごい。

 だが、それ以上に、本人にまったく遠慮がない。


「何か余に聞きたいことはあるか、雅よ」


 雅は眉をひそめた。


「ぐいぐい来るな、俺の場合だけ」


 王は少しも気にした様子がない。


「当然であろう」

「王たるもの、自ら民へ道を示すものである」


「誰が民だよ」

 雅がすぐにつっこむ。

「それならさ」

「なんでそんなにいつも偉そうなのか、とか」


 王は、まるで「何を当たり前のことを」という顔で顎を上げた。


「余が王であるからである」


「うわ、出た」

 雅が半目になる。


 王はそのまま、堂々と続けた。


「なぜ以前より大きいか、分かるか」


「いや?」

 雅は肩をすくめる。

「気分の問題じゃないの」


「雑であるな」

 王が即答した。


 教室の近くで聞いていた新が少し吹き出し、彩葉が「王様つよい」と小声で呟く。


 だが王は全く揺るがない。


「そなたの精度が上がったからである」

「以前より、余を丁寧に扱えるようになった」

「それゆえ、余も以前より深く顕れる」


 雅が少しだけ目を丸くする。


「急に褒めてくるじゃん」


 王はふんと鼻を鳴らした。


「褒めるべきは褒めるぞ、余は」

「そなたにはまだ先がある」


 そこで、王の視線がほんのわずかに真面目になる。


「以前、その瑠璃という少女にも教えられたであろう」

「丁寧な力の使い方を」


 雅の表情が少しだけ変わる。


 瑠璃と実習した時のこと。

 “押しつける”のではなく、“通じるように扱う”こと。

 あの感覚を、雅も確かに覚えている。


 王は低く、はっきりと言った。


「それを、常に考えていくのだ」

「今の余はまだまだ未完成である」

「本来の姿になれることを、期待しているぞ、雅」


 その言葉に、雅は一瞬だけ黙った。


 そして、口元をわずかに上げる。


「……やってやるさ、王様」


 王は満足そうに深く頷いた。


「うむ」

「その気持ちである」


     ◇


 少し離れたところで、そのやりとりを山田先生は静かに聞いていた。


 新は、まだ先を示されている。

 彩葉は、自分の流れを信じる方向へ進み始めている。

 純香は、支えるものとしての輪郭を少しずつ深めている。

 雅は、王に押し上げられるようにして、さらに上を目指し始めている。


 どの精霊も、昨日までとは少し違う。

 そして、生徒たちの方も。


「……成長していますね」


 山田先生は、小さくそう呟いた。


 それは、教壇から全員を見守る教師としての実感だった。

 まだ途中。

 まだ曖昧。

 でも、確実にそれぞれが“次”へ向かっている。


 そこで山田先生は、教室全体へ向けてやわらかな声で言った。


「いいですね」

「今日みたいに話してみると、精霊は術者を映すだけではない、というのが少し分かると思います」


 何人かが顔を上げる。


「似ているところは、もちろんあります」

「でもそれだけではありません」

「精霊は、今の自分を見せるだけでなく、自分の先にあるものを先に知っていることもあるんです」


 新が、ほんの少しだけ目を上げる。

 風の精霊は、そんな新の横でくすっと笑った。


 山田先生は続けた。


「だから、分からないことを無理に今ここで決めなくて大丈夫です」

「気になる言葉があったなら、そのまま持って帰ってください」

「まだふわっとしているなら、それも今の大事な形です」


 その言葉は、教室のあちこちへ静かに落ちていく。


「精霊との対話は、答え合わせではありません」

「一緒に育っていくための、最初の確認です」

「何を好むのか、何を嫌がるのか」

「何を望むのか、どこへ行きたいのか」

「それを知ることは、皆さん自身を知ることにも繋がります」


 瑠璃はそっとひすいを見た。

 ひすいは植木鉢の中から、嬉しそうに四葉を揺らしている。


 彩葉は、水の精霊の言葉を思い返していた。

 流れの中で自分を見失わないこと。

 それがきっと、自分の次に必要なことなのだろう。


 純香は、短いけれど揺るがない返事をくれた土のエレメントを見上げる。

 支えるだけではなく、育む土台へ。

 その言葉は、静かに胸へ残っていた。


 雅は王を見て、小さく息を吐く。

 未完成。

 その言葉が、妙に自分にしっくりきていた。


 そして新は――まだ少し戸惑いながらも、風の精霊の横顔を見ていた。


 その先がある。

 クロノスも言っていた。

 でも、まだ今は教えてくれない。


 分からない。

 けれど、それが嫌ではなかった。


「皆さん、ちゃんと前へ進んでいますよ」

 山田先生はやわらかく微笑む。

「焦らなくて大丈夫です」

「精霊は、ちゃんとそれを見ていますから」


 教室には、まだいくつもの声が残っていた。

 人の声。

 精霊の声。

 言葉になりきらない気配。


 その全部が、昨日より少しだけはっきりしている。


 春の光が窓から差し込む中で、それぞれの“これから”が、静かに輪郭を持ち始めていた。


     ◇


 放課後。


 新たちは、いつもの四人で並んで帰り道を歩いていた。


 春の夕方はまだ明るい。校門を出ても空には光が残っていて、部活の声もあちこちから聞こえてくる。野球部の掛け声、吹奏楽部の音合わせ、校庭の端でボールを蹴る音。そんな放課後らしい雑音の中を、四人はゆっくり歩いていた。


「なんかさ」

 新が両手を頭の後ろへやりながら言う。

「“先がある”って言われたんだよね」

「でも教えてくれないんだよ」


「へえ」

 彩葉が新を見る。

「やっぱ気になる?」


「気になるに決まってるだろ」

 新は少し眉を寄せる。

「こっちは意味深なことだけ言われてるんだぞ」

「そのくせ、“まだその時じゃない”とか言って全然教えてくれないし」


「風っぽいわね」

 純香が淡々と言う。

「捕まえたと思ったら抜けていく感じ」


「それはそう」

 新が小さく息を吐く。

「でもさ、クロノスのことまで出されると、余計気になるだろ」


「おれなんか」

 雅が肩をすくめた。

「“本来の姿になるのを期待してる”って言われたぜ」

「今でも筋骨隆々なのに、本来になったらどんな化け物になるんだよ」


「化け物って、自分の精霊に対してひどくない?」

 彩葉が笑う。


「でもちょっと分かるわ」

 純香も口元をやわらげた。

「今の時点で、あれだけ王様してるもの」


「だろ?」

 雅が言う。

「これ以上どう盛るんだよって話だよ」


「ね」

 彩葉が少しだけ前へ出るようにして振り返る。

「でも、みんな“成長してる”って言われたよね」


「そうね」

 純香が静かに頷く。

「それぞれ違ってきてるし、面白くなってきたわ」


「うん」

 新も空を見上げる。

「前はただ“使う”って感じだったけど、今はもう少し向こうのことも考えるようになったしな」


「私は、ちゃんと話せるのが嬉しかった」

 彩葉が言う。

「なんか、前より近くなった感じする」


「おれは偉そうに説教されたけどな」

 雅が言う。


「王様だからでしょ」

 彩葉が即答する。


「それ言われると反論できないんだよな……」


 そんなふうに笑い合っていた、その時だった。


 カァン、と乾いた音がした。


 野球部の打球音だ。

 高く飛んだような、そんな音。


 新は何気なくそちらへ目を向けた。


 その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。


 何か、嫌な感じがする。


 うまく言えない。

 でも足が止まりかける。

 風が一瞬だけ、妙な向きに流れた気がした。


「……ん?」


 新が立ち止まりかけた、その時。


「どうしたの?」

 彩葉が不思議そうに振り返る。


「いや……」


 新は言いかけて、言葉を切った。


 分からない。

 何が、とは言えない。

 ただ、そこにそのまま立っているのがまずい気がした。


 だから新は、考えるより先に、彩葉の肩を軽く引いた。


「え?」


 彩葉の体が半歩だけずれる。


 次の瞬間。


 びゅっ、と風を切る音がして、ボールがさっきまで彩葉のいた位置を横切った。


「うわっ!?」


 雅が声を上げる。

 ボールはそのまま地面に落ちて、二、三度跳ねて転がった。


 一拍遅れて、四人とも止まる。


「……え?」

 彩葉が目を丸くする。


 新も、自分の手を見ていた。

 今、自分は何をした?


「新」

 純香が静かに言う。

「今、見えてたの?」


「いや」

 新はすぐに首を振る。

「見えてたっていうか……」


 そこで言葉が詰まる。


 見えてはいない。

 来ると分かっていた、と言うのも少し違う。

 ただ、そこにいちゃいけない気がした。


「分かんない」

 新は正直に言った。

「でも、何か変な感じがして」


「変な感じであれ出来るの?」

 雅が半分呆れた声を出す。


「俺が聞きたい」

 新も眉を寄せる。


 彩葉はまだ少し青ざめた顔のまま、自分の立っていた場所と転がったボールを見比べていた。


「……助けてくれたのは分かった」

「ありがと」


「あ、うん」

 新が少し戸惑ったように返す。

「いや、でもほんと、たまたまかもしれないし」


「たまたまで半歩引っ張って、そこをボールが抜けるの?」

 純香が淡々と言う。

「だいぶ変よ」


 その時だった。


 どこかで、くすくす、と笑い声がした気がした。


 ほんの少し。

 耳元を風が撫でるくらいの、かすかな音。


 新がはっとして顔を上げる。


 けれど、誰もいない。

 校庭では野球部が次の球を追っているし、帰り道には他の生徒たちが普通に通り過ぎていく。


「……新?」

 彩葉が覗き込む。


「いや」

 新は小さく首を振った。

「何でもない」


 でも、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。


 うまく掴めない。

 でも、ただの偶然とも言い切れない。


 それが何なのか、まだ分からないまま。


 新は転がってきたボールを拾い上げた。


「すみませーん!」


 校庭の方から、野球部の声が飛んでくる。


 新は少しだけ間を置いてから、そちらへ向かってボールを投げ返した。


「大丈夫でーす!」


 ぱしっと、向こうで誰かが受け取る音がする。


「すみませんでしたー!」

「気をつけます!」


 その明るい声に、新は「はーい」とだけ返した。


 それから、もう一度だけ自分の手を見る。


 風が、指先をするりと抜けていった。

みな成長しています

※エピソード一部抜けた可能性あって震えてる※

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