第百五話 翡翠の生態
夕方。
雨宮麗奈は、いつも通りに家へ帰ってきた。
校舎を出る頃にはまだ高かった日も、今はもう傾いて、玄関先へやわらかな橙を落としている。片手には書類の入った鞄。肩は少し重い。今日もそれなりに忙しかったが、まあ、特別何か大事件があったわけではない。
少なくとも、学校では。
「ただいまー……」
少しだけ気の抜けた声で扉を開ける。
すると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「おかえりなさい」
瑠璃だった。
やわらかな笑顔。すっかり板についた家での出迎え。最初の頃のぎこちなさはもうほとんどなく、今ではこうして自然に「おかえりなさい」が出てくる。
「うん、ただいま」
レナは少しだけ頬をゆるめた。
「今日は早かったのね」
「うん」
瑠璃は明るく頷いた。
「今日はね、ちょっと色々あって」
その言い方に、レナは靴を脱ぎながら首を傾げる。
「色々?」
「うん」
瑠璃はにこっと笑う。
「すごいことがあったの」
その瞬間だった。
瑠璃の足元から、ちょこちょこと何かがついてくる。
ころん、とした玉ねぎみたいな体。
つやつやした表面。
頭にはぴんとした四葉。
小さな手足がちょこんとついていて、しかも妙に愛らしい。
その小さな存在は、レナを見上げて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
そして。
「ママー」
言った。
レナの目が点になる。
「……マ」
一拍。
「ママ?」
その声は、いつもの雨宮麗奈の声ではなかった。結界担当の教師として大抵のことには動じない彼女の、めずらしく本気で理解が追いついていない声だった。
瑠璃はこくりと頷く。
「うん。この子、ひすい」
「私のこと、ママって呼ぶの」
「ひすい」
とレナは繰り返す。
「ママ」
とも繰り返す。
「……ママ?」
ひすいは、そんなレナを見上げたまま、少しだけ首を傾げた。
「ママ?」
一拍置いて、
「おばあちゃん?」
「お、おば……」
その瞬間、レナはその場にへたり込んだ。
「レナ!?」
瑠璃が慌ててしゃがみ込む。
レナは玄関に崩れ落ちたまま、壁に片手をついていた。顔色は悪くない。悪くないが、ものすごく複雑な顔をしている。
「待って」
レナが言う。
「ちょっと待って」
「情報が多い」
「ただいまの三秒後に“ママ”と“おばあちゃん”が来る家ある?」
「ご、ごめん」
瑠璃が本気で心配そうに言う。
「でも、今日ほんとに色々あって」
「そうでしょうね!」
レナが思わずつっこんだ。
「それは見れば分かるのよ!」
ひすいはそんな二人を見比べて、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「おばあちゃん?」
と、もう一度確認するみたいに言う。
「違う!」
レナが即座に返した。
「まだそこは飛ばないで!?」
「そこはまだ早い! 段階ってものがあるから!」
「だんかい?」
ひすいがきょとんとする。
瑠璃が困ったようにレナを見る。
「でも、私がママなら」
「レナは、その……」
「その先を言わないで」
レナが顔を覆った。
「理屈は分かるの」
「分かるけど、分かるのと受け入れられるのは別なのよ」
ひすいはなおも不思議そうにしている。
「じゃあ、なに?」
レナは数秒黙った。
玄関に座り込んだまま、つやつやしたその小さな精霊を見つめる。
どう見てもかわいい。
ものすごくかわいい。
でも呼称が重い。
「……とりあえず」
レナはゆっくり言った。
「レナ」
「レ・ナ」
「おばあちゃんじゃなくて、まずはそこから始めましょう」
「レナ?」
「そう」
「レナ?」
「そう、それ」
「おばあちゃんじゃない?」
「今は違う!」
ひすいは少し考えるように黙ったあと、こくんと体を揺らした。
「レナ!」
「うん、えらい!」
レナが反射で褒める。
褒めてから、はっとする。
「いや、何この会話」
瑠璃がくすっと笑った。
「ふふ。でも、よかった」
「レナ、ちゃんと受け入れてくれた」
「受け入れてはいるのよ」
レナはまだ少し床に座り込んだまま言う。
「受け入れてはいるんだけど、心が追いついてないだけで」
「帰宅して玄関開けたら、娘に娘ができてたみたいな衝撃なのよ」
「娘?」
瑠璃がきょとんとする。
「そこも今つっこまないで」
レナが両手で顔を覆う。
「自分で言って自分でまずいと思ってるから」
ひすいはそんなレナの前へ、ちょこちょこと近づいた。
それから、ちいさな手を上げる。
「レナ」
「なに?」
レナがそっと顔を上げる。
ひすいは満面の笑みみたいに体を揺らした。
「ただいま!」
一拍。
レナは、その場で完全に負けた。
「……かわいい」
ぽつりと漏れる。
「そうなの」
瑠璃が嬉しそうに言う。
「すごくかわいいの」
「知ってる」
レナは真顔で頷いた。
「それはもう、見た瞬間に分かる」
「分かるけど、だからって“ママ”“おばあちゃん”のコンボは心臓に悪いのよ」
そう言いながら、レナはようやく立ち上がった。
まだ少し膝に力が入っていない。
靴を揃え、鞄を持ち直し、それから改めて瑠璃とひすいを見る。
「……で?」
「今日は、どこから説明してくれるのかしら」
瑠璃はにこっと笑う。
「最初はね」
「教室で、双葉が震えて――」
レナはその時点ですでに少し遠い目になった。
「長くなりそうね」
「うん」
「お茶淹れるわ」
「ありがと」
「あと、今日は途中で何回か“待って”って言うと思う」
「うん、いいよ」
「ありがとう……ほんとに、助かる」
◇
説明をひととおり聞き終えた頃には、レナはすっかり“ただいま直後の混乱”から、“面白くなってきたので観察したい結界担当”の顔になっていた。
「……で、つまり」
レナはテーブルの上のひすいを見ながら言う。
「この子は、瑠璃の精霊で」
「生まれたばかりで」
「水を飲んで」
「名前をもらって」
「光と土の影響も少し受けている、と」
「うん」
瑠璃が素直に頷く。
「たぶんそんな感じ」
ひすいは、そんな二人の会話など気にしていないらしい。テーブルの上でちょこんと座り、つぶらな目でレナを見上げている。
「レナ」
一瞬、レナが目を丸くする。
「……今、呼んだ?」
「うん」
瑠璃が少し嬉しそうに笑う。
「ひすい、覚えたみたい」
「そう……」
レナは小さく息を吐いた。
「順応が早いわね、ほんとに」
そう言いながらも、その声は少しやわらかい。
「じゃあ、少しだけ見てみましょうか」
レナはそう言って、軽く指先を持ち上げた。
「この子、結界にはどう反応するのかしら」
「結界?」
瑠璃が首を傾げる。
「ええ」
レナは頷いた。
「瑠璃の子なら、たぶん相性が出るわ」
指先から、淡い光が広がる。
床の上へ小さな結界がひとつ、ふわりと置かれた。
閉じ込めるための強いものではない。
ただ、そこに“場”を作るための、やわらかな結界だった。
ひすいはそれを見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「ひすい」
瑠璃がそっと呼ぶ。
「入ってみる?」
ひすいはちょこちょこと近づいて、結界の縁をぺたっと触った。
そのあと、するり、と中へ入る。
「……あら」
レナが少し目を細める。
ひすいは結界の真ん中で、ぽよんと一度体を揺らした。
それから、見るからに気持ちよさそうに目を細める。
「ふにゃぁ……」
「気持ちいいんだ」
瑠璃が嬉しそうにしゃがみ込む。
「そうみたいね」
レナが頷く。
「この子、結界にちゃんと適応するのね」
そのまま、少し考えるようにひすいを見る。
「少し見てみようかしら」
次にレナが作ったのは、二つの結界だった。
片方は、陽だまりみたいにほんのり暖かい結界。
もう片方は、朝の空気みたいにひんやりした涼しい結界。
「ひすい」
瑠璃が優しく呼ぶ。
「好きな方、入ってみて」
ひすいは、まず暖かい方へ顔を向ける。
それから涼しい方も見る。
小さな手をちょこんと上げて、考えるみたいに止まる。
一拍。
そして迷いなく、暖かい方へ入った。
「わ」
瑠璃が目を丸くする。
「即決だった」
「ええ」
レナも小さく笑う。
「かなりはっきりしてるわね」
ひすいは暖かい結界の中で、満足そうにぽよんぽよん揺れている。
逆に、涼しい方へ少し近づけてみると、露骨に「やだ」という顔になった。
「や」
「うん、嫌なのね」
レナが苦笑する。
ひすいは涼しい結界の前でぴたりと止まり、小さく後ずさった。
そしてそのまま、暖かい方へぴとっと戻っていく。
「本当に植物みたいな子ね」
レナが言う。
「うん」
瑠璃も頷く。
「なんだか、日向が好きな感じがする」
レナはそのまま、テーブルへ置いてあった小皿の水をひすいの前へ出した。
「食べ物は、やっぱり水だけでいいのかしら」
「ひすい、おみずすき」
言ったそばから、ひすいは夢中で飲み始める。
「……すごい飲むわね」
レナが少し驚く。
「うん」
瑠璃が頷く。
「今日もいっぱい飲んでた」
ひすいは飲めば飲むほど、体がつやつやしてくる。
葉もぴんとして、見るからに元気になる。
「分かりやすいわね」
レナが笑う。
「体調が葉っぱに出てる」
そう言って、ふと棚の方を見る。
「……試しに、これも置いてみましょうか」
持ってきたのは、小さな園芸用の肥料だった。
庭いじり用に家へ置いてあったものだ。
瑠璃が目をぱちぱちさせる。
「それ、食べるの?」
「食べるかどうかは分からないけれど」
レナは肩をすくめる。
「植物寄りなら、反応くらいは出るかもしれないわ」
そっと、ひすいの近くへ置く。
ひすいは水を飲むのをやめて、肥料を見る。
近づく。
くん、とでも言いたげに体を寄せる。
一拍。
そのまま、ちょこん、と上へ乗った。
「……乗った」
瑠璃が言う。
「乗ったわね」
レナも言う。
ひすいは肥料の上で、妙に満足そうにしていた。
ぴったり収まる場所を見つけたみたいに、そこでぽよんと丸くなっている。
「ふふぅ……」
「幸せそう」
瑠璃が思わず笑う。
「これはもう植物ね」
レナが半ば呆れたように言った。
その時だった。
ひすいの頭の四葉が、ふわっと揺れた。
「……あら?」
レナが身を乗り出す。
四葉が、ほんの少しだけ大きくなっていた。
色も濃く、つやも増している。
さっきまでの元気、というだけじゃない。ひと目で“育った”と分かる変化だった。
「ほんとだ」
瑠璃が目を輝かせる。
「大きくなってる」
「色艶も良くなってるわね」
レナがやわらかく言う。
「あらあら、成長が分かりやすい」
ひすいは、自分の葉っぱをまたぺたぺた触る。
ぺた。
ぺたぺた。
そして、瑠璃とレナを順番に見た。
「ひすい、げんき!」
「うん」
瑠璃がすぐに笑う。
「元気ね」
「かわいい」
レナも、思わずそう漏らしていた。
ひすいはその言葉が分かったらしい。
うれしそうに体を揺らして、四葉をふるふるさせる。
「かわいい」
「かわいいわね」
瑠璃とレナが、ほとんど同時に言った。
一瞬、二人の目が合う。
それから、どちらからともなく笑った。
「……癒やされる」
瑠璃がぽつりと言う。
「ええ」
レナも静かに頷く。
「これはだいぶ、癒やされるわね」
◇
「……で」
レナが、肥料の上で満足そうにしているひすいを見ながら言った。
「夜はどうするかしら?」
「夜?」
瑠璃がきょとんとする。
「ええ」
レナは頷いた。
「この子、今のところだいぶ植物寄りでしょ」
「なら、昼と夜で反応が変わるかもしれないわ」
「たしかに」
瑠璃もひすいを見る。
「寝るのかな」
ひすいは二人の視線に気づいて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ひすい?」
「なあに、ママ?」
「夜はどうするのかなって」
「よる?」
その言葉の意味はまだよく分からないらしい。
ひすいは首を傾げたまま、肥料の上でぽよんと揺れている。
「……試してみましょうか」
レナが立ち上がった。
ぱちん。
部屋の電気が消える。
ふっと、部屋がやわらかな夜の明るさになる。
窓の外から入るわずかな街灯と月明かりだけが、薄く輪郭を残していた。
一拍。
ひすいが、ぴたりと止まる。
「……あ」
瑠璃が小さく声を漏らした。
さっきまで元気に揺れていたひすいの動きが、目に見えてゆっくりになる。
四葉が、すうっと力を抜くみたいにやわらかく垂れて、つぶらな目も半分閉じかけた。
「ふにゃ……」
「え、もう?」
瑠璃が目を丸くする。
ひすいは肥料の上で、ぽよんと一度だけ揺れた。
それから、そのまま小さく丸くなる。
「すぅ……」
「すぅ……」
寝た。
「……寝たわね」
レナが静かに言う。
「寝たね」
瑠璃も小声で返す。
ひすいは、ほんとうに気持ちよさそうに寝ていた。
四葉は少ししんなりしているけれど、それが逆に寝息と合っていて、見ているだけで頬がゆるむ。
「わかりやすく植物ね」
レナがくすっと笑う。
「かわいいね」
瑠璃がそっと言う。
「そうね」
レナも頷いた。
「ものすごくかわいいわ」
そのまま二人で、しばらくひすいを見つめる。
「……じゃあ」
レナが少しだけ悪い顔をした。
「逆も試してみましょうか」
ぱちん。
もう一度、部屋の電気がつく。
「ぴかっ」
次の瞬間、ひすいの目がかっと開いた。
四葉がぴんと立ち、つぶらな目が一気にまるくなる。
「ひかり!」
さっきまでの眠そうな声が嘘みたいに、ぱっと明るい声だった。
「ひかり、うれしい!」
そのまま、ひすいは嬉しそうにぽよんぽよん跳ねる。
「すごい」
瑠璃が笑う。
「ほんとに光で起きた」
「段々と扱いがわかってきたわね」
レナが腕を組みながら言う。
「この子、かなり単純で助かるかもしれないわ」
「単純って言うと、ちょっとかわいそう」
瑠璃が言う。
「でも、分かりやすいのはいいことね」
レナが返す。
「それはそう」
瑠璃も頷いた。
ひすいはまだ嬉しそうに体を揺らしている。
「ひかり!」
「うれしい!」
「うんうん」
瑠璃が笑う。
「よかったね」
レナはそんなひすいを見て、それからふと何かを思いついたように立ち上がった。
「こういうのはどうかしら?」
「こういうの?」
瑠璃が首を傾げる。
レナはそのまま庭へ出て、しばらくして小さな植木鉢を持って戻ってきた。
丸くて、素焼きの、手のひらに収まるくらいの鉢だ。土は抜いてあって、中は空になっている。
「入るかしら」
「おうち?」
瑠璃が少し目を輝かせる。
「そうね」
レナは笑う。
「寝床というか、居場所というか」
「植物なら、鉢は嫌いじゃない気がするのよ」
ひすいはその植木鉢を目の前へ置かれると、ぱちぱちと目を瞬かせた。
じっと見る。
右から見る。
左から見る。
ちいさな手で縁をぺたっと触る。
「どう?」
瑠璃がしゃがみ込んで聞く。
ひすいは少しだけ考えるように止まったあと――
ちょこん。
と、自分から中へ入った。
「……あ」
瑠璃が声を漏らす。
ひすいは鉢の中へ、あまりにもぴったり収まった。
ころんとした玉ねぎみたいな体が、鉢の丸みと妙に合っている。
四葉だけがぴょこんと上に出ていて、その姿がまた反則みたいにかわいい。
「かわいい」
瑠璃が即座に言う。
「可愛すぎる」
レナも真顔で返した。
ひすいは鉢の中で、満足そうにぽよんと一度だけ揺れる。
「ここ、いい」
「ほんと?」
瑠璃が顔を寄せる。
「うん」
ひすいはこくんと揺れた。
「ひすい、ここ、すき」
「よかったわね」
レナが言う。
「ちゃんと自分の場所ができたじゃない」
ひすいはそれを聞いて、嬉しそうに四葉をふるふるさせた。
「おうち!」
「そうね」
瑠璃がやわらかく笑う。
「ひすいのおうちだね」
その言い方が嬉しかったのか、ひすいは鉢の中でまた満足そうに丸くなる。
さっきよりもずっと落ち着いていて、見ているこちらまで安心してくる。
「だめ」
瑠璃がぽつりと言った。
「かわいすぎる」
「分かる」
レナも即答した。
「これは反則だわ」
二人して植木鉢の中のひすいを見つめる。
光があると起きて。
暗くなると眠くなって。
水が好きで。
肥料の上で幸せそうにして。
植木鉢へ入るとぴったり収まる。
本当に、どこまでも分かりやすい植物の子だった。
けれど、そのつぶらな瞳がふと瑠璃へ向けば、ちゃんと甘えるような意思があって。
レナの声へ反応すれば、そこにもきちんと親しみがある。
ただの植物ではない。
でも、植物みたいに育つ。
その不思議さがまた、たまらなく愛しかった。
「ママ」
ひすいが鉢の中から小さく呼ぶ。
「なあに?」
瑠璃がすぐに返す。
「ひすい、ねむくなったら、ここ?」
「うん」
瑠璃は笑って頷いた。
「ここでいいよ」
「レナ」
今度はひすいがレナを見る。
「なあに?」
レナがやわらかく返す。
「ここ、いい」
その一言に、レナは少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「ええ」
「よかったわ」
ひすいは満足そうに、ぽよんと一度だけ揺れた。
その夜は、ひすいが鉢の中へ収まっているだけで、何だか部屋の空気までやわらかくなった気がした。
瑠璃も、レナも、時々ちらちらとそちらを見ては笑ってしまう。
「……癒やされるわね」
レナが小さく言う。
「うん」
瑠璃も頷く。
「すごく癒やされる」
二人して、同じものを見て、同じように頬をゆるめる。
それは、静かで、あたたかくて、少しだけ笑ってしまうような夜だった。
水と肥料と魔法で届き出しそうね




