第61話 私が選んだ宿命
「将典殿!」
書斎の扉が開くと、将典が口を開く前に、入ってきた人物に抱きしめられた。潮の香りがした。
「叔父上、長旅お疲れ様でございます」
「何の、何の。これくらい大したことではありませんぞ」
叔父、唐渡千里は、商談で赴いていた祖母の故国、フロールヴァル王国から帰国したばかりだった。彼の快活な笑顔には、長旅の疲れの中にも力強さがみなぎっている。
「久典が独り立ちできる時まで、立ち止まってはいられませんからな」
千里がそう言うと、強く力のこもった笑い声が部屋に響いた。
久典は先年、生まれたばかりの千里の息子。誕生と母子の無事が知られた時、故郷、滄州では祝いのお祭り騒ぎが起きた。
ただ、その笑い声が収まると、千里の目に将典を気にかけるような色が浮かんだ。
「ところで、学園はいかがですか」
視線が深いしわを刻んだ将典の眉間に移ると、千里の目の憂いの色が濃くなった。
「学友会の仕事が大変そうですね」
笑顔で「問題ありません」と将典は返すつもりだった。……返さなければいけなかった。
けれど、千里の心から案じるような声を聴いて、その目を見たら、用意していた言葉を口にすることが出来なくなった。
書斎には、二人以外、誰もいない。真宙も康嗣も外している。だからこそ、本音をこぼしてしまう。
「……この一年を乗り切ってみせます」
千里の目の憂いがさらに濃くなった。
将典は千里に促されるまま、応接用のソファに座った。身体が重く感じられた。それでも同じソファに座る千里と触れる膝、向けられる眼差しが温かい。
「貧乏くじを引かされましたね」
「……仕方がありません」
「将家の若君との関係はいかがですか」
この問いかけには、思わず、目をそらしてしまう。
「控えめに言っても悪いです。先日の予算折衝でも若君の面目を潰してしまいました」
真一郎の代理で折衝に来た貴郎は、真一郎の面目を立てろと言うばかりで、交渉につながる具体的な材料を全く示さなかった。将典は貴郎を学友会室から叩き出した後、頭を抱えた。その場にいた利奈子は追加の学生瓦版の用意を始めたほど。
「その話は私も学生瓦版を読みました。さすがに、若君の求める筋が悪すぎます」
千里の優しい言葉に将典は少し心が軽くなるのを感じた。けれど、すぐにまた重くなる。澤渡家当主として甘えてはいけない、と。
「なかなかさじ加減が難しいようですね」
「正直なことを言えば、若君を潰すのは簡単とまでは言いませんが、それほど難しいことではありません。先日の予算折衝のように、若君の面目をひとつずつ潰していけばいいのですから」
カチリ
将典の中で歯車がかみ合った音が立つと、ゲーム「パルヴニール」の情報が浮かび上がってきた。その中で、ゲーム主人公が真一郎と敵対する際、倒すこと自体は難しくなかった。むしろ、その後に迎える適切なエンディング条件を満たすことの方が大変だった。つまり、課外の倶楽部活動で優れた結果を収め、年度後半に開かれる研究発表会で最優秀の成果を披露し、卒業試験では当然1位を取り、首席卒業の資格を得ることだ。
「若君は側近にあまり恵まれていないようですね。この辺りに鬼子と呼ばれ始めた評判の原因があるのでしょうか」
「若君が都合の悪いことに目を背ける方ではないと信じたいです。けれど、少なくとも若君の耳を傾けさせるほど強い諫言が出来る者は周囲にはいないようです」
もしも、諫言する者がいれば初学年時の学生たちの間で身分を原因とする対立は起きていなかっただろう、と将典は考える。一人でもいたら、先日の予算折衝の時のように簡単には真一郎の面目を潰せない、とも。
「そして、あなたは若君を潰してはいけない」
「はい」
だからと言って、下手に弱みを見せることはできない。弱みを見せれば、嬉々として付け入ろうとしてくる相手だ。
「しかも、今は将家当主の継承について人々の関心が集まっています」
千里の少し沈んだ声を聴くと、将典は肩にズシリとさらに重いものが圧し掛かってきたように感じた。
「将家の御当主は、最近、声望を高められた」
先日の江都擾乱のことだ。混乱を収めるために戒厳司令に任じられた将家当主は、滞りなくその任を務め上げた。結果、皇国に出回る新聞各紙が「流石は将家御当主」と誉めそやしたのだ。
「否応なく、人々の関心はいまだ定められていない後継ぎに誰が選ばれるか、に集まるでしょう」
「……ええ。最近は、毎日、どこかの新聞がその話題を取り上げています」
将典がそう言うと、やはりと言わんばかりに、千里は顔を縦に大きく動かした。
「どちらが優勢ですか? やはり、若君ですか」
「……はい。姫君を望むような論評を載せる新聞はあまり見かけません」
「そうですか」
千里は視線を上に向けると、優しい言葉で将典に現実を突き付ける。
「ならば、若君にこれ以上の失点をさせず、来年の学友会会長の座を無事に引き継がせる。それが、将典殿の御役目ですな」
無性に、将典は全てを投げ捨てたくなる衝動にかられた。
どうして、私がこんな役目を担わなければならないのだ、と。
「しかも、下手に手心を加えると、若君はプライドが傷ついたと怒りそうな厄介な性格の持ち主」
千里の言葉がどこか遠くの出来事のように聞こえた。
「パルヴニール」でゲーム主人公が真一郎に敗れた後のことは、ゲームオーバーとされるだけだった。成長した真一郎がどんな政治家になるか、ゲーム主人公が勝利した後どうなるか、を将典にゲームの知識をもたらした「愚者」は持ち合わせていなかった。ただ、「限定販売された設定資料集完全版」なるものに記されていた可能性はあるらしいが、「愚者」は入手できなかった。はっきりと分かるのは、美海が将家の次期当主となることを固辞したことだけ。ゲーム主人公が皇国の舵取り役となる、とはあったが、まだ年若いゲーム主人公がその任を担えるかは不透明。
むしろ、これまで皇国を導いてきた将家当主が空白となることによってもたらされる混迷が皇国にどれだけ悪い影響を及ぼすか、が将典からすると非常に気がかりだった。
と、千里の目に一瞬だけ浮かんだものに、将典は現実に引き戻された。それはギラついた凄みだった。
「まあ、若君を推す大人たちの中には、私の商会を毛嫌いしている人が多いので、私としては姫君に次期当主になってほしいのが本音ですが」
普段は表に出さない「皇国最大商家の主」の顔を千里から垣間見た気がした。
けれど、本当に一瞬だけだった。すぐに、いつも目にする甥を想う叔父の顔に戻った。
「本当に、貧乏くじを引かされましたね」
心の底から心配している、そんな顔をする千里に、将典は頭を下げるしかなかった。
「叔父上にはご迷惑をかけております」
「いやいや。将典殿が謝る必要はありません。悪いのは、争いに巻き込む将家の人たちです」
そして、何気なく、千里が心惹く誘惑を囁いてくる。
「それよりも、心身ともに大切にしてください。学園のことが本当に手に負えなくなったら、滄州に逃げてこられてもいいのですよ」
普段なら、将典は「ご冗談を」と笑い飛ばす。けれど、今は、首を横に振って、
「……さすがにそれは」
言葉を濁すことしかできなかった。心がはっきりとグラつくのを感じながら。
そんな将典の内心を見透かすように、千里の顔には慈しむような笑みが浮かび、
「将典殿は全てを背負い込みかねないですからね。姉上もそうでした」
過去に思いを馳せるかのように、一時、宙に視線を向けた後、再び、将典の目を見つめてくる。
「ですから、万が一の時の、そういう逃げ道もあるということを頭の片隅に置いておいてください。なに、裸一貫でまた商売を始めるのもいいものですよ」
最後の言葉は、本当に楽しそうだった。それが将典の中で幼い頃の記憶を呼び覚ます。
『私は叔父上のような貿易商人になります! なって、船に乗って大海原に漕ぎ出したいです!』
亡き母へ向かって無邪気に告げたものだった。
将典は千里を真っすぐ見つめる。
「ありがとうございます、叔父上」
そう言いながら、幼い頃の記憶は丁寧に心の奥底に仕舞い込む。声はかすかに揺れていた。
そして、一度、唇を噛みしめると、ある言葉を告げた。
すると、束の間、千里の目が丸くなったあと、彼の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「やはり、あなたは姉上の子だ。姉上も同じことを言っていらした」
千里の言葉に、将典は顔が赤くなるのを感じ、思わず、視線を逸らしてしまう。けれど、逸らした先にあったテーブルに置かれた皿の文様が、将典に己の言葉の重さを改めて突きつけてくる。鷹の羽だ。澤渡家の家紋である。
将典の脳裏に、澤渡家に関わる者たちの顔が浮かんでくる。真宙、康嗣、咲哉、……。利奈子もそうだ。目の前にいる千里も。
だからこそ、この言葉とともに、将典は己の肩に圧し掛かっているものを背負いなおしたのだ。
「……ですが、逃げることはしません。これが私が選んだ宿命ですから」




