第62話 政治の道具
千里の訪問を受けてから、しばらくして。
窓から見える木々は、枝を若葉の瑞々しい緑色に染め上げている。
そんな書斎で、将典はまた別の客人を迎えていた。
「うん。これは悪くないね」
冨迫伯爵が右手でつまんだ厚焼きクッキーを一口食べて、そう漏らした。くたびれた背広を身にまとい、足を組み、左手には帽子を持ちながら、座席の背もたれに身をゆだねている。その姿は、着物姿で常に背を伸ばして座る娘の利奈子とは似ても似つかない。
そんな伯爵の真向かいに座る将典も、クッキーを一口かじる。ザクッ、ホロッとした食感が癖になりそうだった。バターの香ばしい香りとラム酒の甘い香りが鼻をくすぐる。何より、甘いものが苦手な冨迫伯爵のために咲哉が考えた塩味が、より一層味わいを奥深くしている。
ただ、将典が気づくと、いつのまにか冨迫伯爵の顔には不機嫌さが浮かんでいた。
将典は眉をかすかに動かしてしまう。何か不作法があったか、と。
けれど、伯爵から告げられた言葉に、
「君、利奈子と早く結婚しないか。いや、むしろ、さっさと結婚しろ」
「……何ゆえ、そのような話をするのですか」
予想外過ぎて、一瞬、呆気にとられてしまった。すぐに気を引き締める。
「私たちの結婚は学園を卒業してから時期を改めて定める、とあったはずですが」
将典がこう返すと、冨迫伯爵は鼻を鳴らした。そして、視線を逸らして、吐き捨てるように言葉を紡いだ。
「先日、私の屋敷に武樋貴郎がやってきた。あいつは、その場で、自分と利奈子との結婚を認めるように迫ってきたよ」
突然やってきて、結婚を認めるように迫るなど常識外れだ。伯爵家となれば、正式な使者が赴く前に、入念に下交渉が行われる。家同士のつながりになるからだ。なにより、婚約相手がいる相手にする話ではない。それに、
「……武樋には婚約者がいたのでは」
「そっちは解消したそうだ。おまけに、あいつは利奈子との結婚が将家の若君の意向である、などとぬかしやがった」
「……それは、将家の御意向でもあるのですか」
いつの間にか、将典は痛みを感じるほど拳を握り締めていた。それでも、続いた伯爵の言葉を聞いて、止めていた息を少しだけ吐き出すことが出来た。
「違う。将家の御当主にも確認した。全て、若君と武樋の若造の独断だよ」
「……なら、私たちの婚約をどうされる、つもりですか」
「ふん。ガキどものままごとに付き合うつもりはない」
冨迫伯爵は再び鼻を鳴らして、そう言うと、今度はつまらなそうな顔をして、将典に視線を向けた。
「だが、今、君の結婚相手に江都の有力者たちから関心が集まっている。気づいているかい?」
「……私のですか?」
「正確には、君と同じ世代の者たちの婚姻事情だよ。これからの閨閥が絡むからね」
「それならば、若君のお相手に注目が一番集まるのではないのですか」
将典の言葉に、冨迫伯爵は前のめりになって、声を潜めた。
「若君の婚約が決まったよ。まだ伏せられていて、知る者は限られているけどね」
将典は眉をかすかに動かすが、
「相手は将家の屋敷に小間使いとして働きに出ていた商家の娘」
続いた伯爵の言葉に、思わず、目を大きく丸くしてしまった。
「まあ、普通は認められないね。身分の差が大きすぎる。一昔前なら妾が精々だったろう。だが、若君は将家の御当主を説き伏せた」
冨迫伯爵がくすくすと笑い声を漏らした。
「その時の御当主の顔は見ものだったよ。苦虫を噛み潰したような、あの顔は」
将家当主が「苦虫を噛み潰した」だけではなく、そこには「息子の成長を喜ぶ親の顔」もあった、と将典は考える。
――……これから若君は手強くなるかもしれない。
己の意志を貫き通す成功体験が真一郎を変えるだろう。
冨迫伯爵が挑発するような顔で見てきていた。
「これから何が起こるか、分かるかい?」
「養親はもう決まったのですか」
今回の真一郎の婚約のような場合には、しばしば、婚約相手の娘を有力者の養女にすることで、家格の釣り合いが取られる。
冨迫伯爵が首を横に振った。
「それならば、喜ぶ方が大勢現れるでしょうね。年頃の娘がいなくても、将家と姻戚になれる機会が巡ってきたのですから」
脳裏には、狂喜乱舞する江都の有力者たちの姿が浮かんでいた。例外なく、彼らの目には、権力への野心がみなぎっている。
冨迫伯爵は、顔につまらなそうな表情を浮かべながら、こぼした。
「娘を将家の人間として相応しく育てることが求められるけどね」
続けて、
「ただし、姫君の結婚相手は分からない。あの姫はこの話題について全く動きを見せないからね」
と、言うと、さらに身体を前に乗り出した。
「だが、ここで君が婚約を破棄したら、話は別だ」
きな臭さを感じて、将典は眉が動きそうになるのを抑えた。それでも、伯爵は言葉を続ける。
「今年の学友会会長を姫君の直接の指名で引き継いだからね。周りから見れば、君は姫君に一番近い男だ。加えて、槐州を傘下に収め、私の冨迫家の首根っこを押さえている今、君が私の娘との婚約を維持するメリットは薄い」
次第に、伯爵の言葉が熱を帯び始めていた。
「ここで婚約を破棄してみなよ。君の所には、山のように新しい釣り書きが送られてくるよ。その思惑もあって、若君の周りにいる一部の大人が若君と武樋の若造を焚きつけたのだろうね」
「私は女を政略の駒と見る非情な男と言われます」
そう、将典が冷たく返しても、冨迫伯爵は鼻で笑った。
「そんなこと、私たち貴族にとって些細なことだ」
伯爵の目はぎらついていた。淀んでいるようにも見えた。
「むしろ、君が新しい婚約者に姫君を選べば、全て吹き飛ぶ。皇国の力関係は劇的に変わるぞ」
伯爵はそう言うと、胸を反らし、両手を大きく横に広げた。
皇国屈指の貿易港を抱え、近代化も進み、豊かな滄州。事変からの復興は道半ばではあるものの潜在能力は高い槐州。さらに、叔父、千里が営む皇国最大の貿易商会。これらを背後に控えた澤渡家が皇国中央への本格進出を宣言した時、将典には江都の有力者たちの揉み手をしながら笑顔で近寄ってくる姿が目に見える気がした。
そこに魅力は感じられない。全く、欠片も。ただし、その道に足を踏み入れれば、より多くの民に政を行うことが出来るのは確か。より多くの困っている民に手を差し伸べることもできる。
――……もしかすると、「良き貴族」になる近道ではないのか。
『他の貴族からは敬意を払われ、お坊さんたちからは尊重され、使用人たちから慕われ、民衆から愛される。そんな人になりなさい』
亡き母の言葉が耳元で囁かれる。
――スイーツに代わる新しい天命を見いだせるのではないのか。
けれど、利奈子の明るい笑い声が聞こえた気がした。脳裏に浮かんでいた光景が一気に色あせてしまう。代わりに、利奈子が美海と楽しく話をしている様を思い出す。ふと、利奈子が笑顔でこちらを向いた気がした。
『将典様』
将典は首を横に振った。
「姫君が私との婚約に首を縦に振るとは到底思えません」
「姫君が首をどちらに振ろうが関係はない。これは皇国の未来を決める政略だよ」
冨迫伯爵に切って捨てられる。甘い、と言わんばかりに。
それでも、将典は伯爵の言動を一昔前の古い考えだと感じてしまう。
――やはり、私にとって、受け入れがたい考えだ。
とも。伯爵の中に、将典と美海との結婚の仲人役を得ようとする野心を見て取れるような気もした。もちろん、仲人役には、もれなく、名誉と利益がついてくる。
「どうする? 私の娘との婚約を解消するかい」
美海と婚約して皇国の中心になることを望むのか、と冨迫伯爵が無言で問いかけてきていた。
だから、将典は伯爵の目を正面からしっかりと見つめる。
「そんなことはしません。中央政界には興味がありません」
冨迫伯爵の鼻が、三度、音を立てた。その顔には面白くなさそうな、けれど安堵も入り混ざったような、そんな表情が浮かんだ。再び、座席の背もたれに身体を寄りかからせると、顔を横に向かせ、右手を背もたれの後ろに回した。
「だったら、利奈子と早く結婚して、江都の有力者たちの関心をそらしなよ」
冨迫伯爵から、ギラついた野心の炎がかき消えたことに、将典は気づいた。まるで幻だったかのように。
「それとこれとは別の話では?」
と返せば、伯爵は左手に持っていたままだった帽子を指先で回して、
「まあ、そうかもしれないね。けれど、結婚すれば、学生の間に伯爵に叙爵されることもあるかもしれないよ」
事務方ではその準備をいつでも始められるようになっている、とも付け加えたのは、伯爵が有爵者に関する事務を司る宗秩局の長「宗秩長」だから。もっとも、伯爵の手元に届く前に全てが定められてしまうから、
――伯爵の後ろにいる方々のご意向か。
将典は眉間にしわが寄るのを感じた。背中に冷たいものが走る感覚も。自分の結婚が政治の道具にされていることを、改めて思い知らされて。
――となると、これまでの話は、どこまでが伯爵の本心だったのか。
けれど、冨迫伯爵は左手で膝を叩くと、
「よし、私の仕事はここまでだ。伝えなければならないことはもう言った」
立ち上がってしまう。
この場で決断を求められるのか、と身構えようとしていた将典は、肩透かしを食らった気分になった。
ただ、伯爵の用件はこれだけではなかった。
「そうそう。高松拓哉が江都にきているぞ。武樋の屋敷に出入りしている」
この言葉を耳にした瞬間、将典は己の血が音を立てて沸き立つのを感じた。
「君には同情するよ。あんな男が父親だなんてね」
耳を閉じたくなった。何も聞きたくない、と。世界が白と赤の二色に変わった気さえした。
こんな将典に気づいた様子を見せず、冨迫伯爵は書斎の扉へ歩いていく。最後に、こう言い残して。
「あれでも、昔は好い男だったんだがね。何が、彼に道を踏み外させたんだろうね」




