第60話 化け物、再び
「化け物、再び、ですね」
真宙がそう言ってきたから、学友会室で並んで座る将典は素っ気なく返す。
「真宙も私とそう変わらないだろ」
二人とも目の下に深い隈を刻んでいる。さらに朝方見た鏡で、将典は、眉間に深いしわを刻み、険しい顔つきとなっていた。いち早く母を助けるためにと初学年の時、単位を全て取った時と同じ形相だった。今回は、学友会の予算案策定のために、連日徹夜をしたせいだが。
今日は、今年度予算が発表される日。つい先ほどまで、図書館内の自習室を借りて、将典は学生たちに予算案の説明を行っていた。
脇に立つ利奈子と行子が心配そうに見つめてきている。徹夜続きの将典たちに配慮して、雑用係を買って出てくれた。将典の手元には利奈子が淹れた紅茶と、茶請けとしてチョコレートの四角い焼き菓子「ブラウニー」が置かれている。
紅茶は先に飲んでいたが、香りはいまいち、渋みも強かった。それでも、なぜか心温かく、美味しく感じられた。
そして、彼女の笑顔を見るだけで、しわを深く刻む眉間から力が少しだけ抜けるような気がした。頭は眠気で、身体は疲労で、限界だった。
ブラウニーを一個、口に放り込む。見た目よりも、指先から伝わった感覚は重かった。その重さに相応しく、食感もしっかりとしていて、チョコレートの濃厚さが際立つ。なにより、甘さが頭と身体に力を注ぎ込む。
「だが、この顔も少しは役立つようだな」
将典は顔に手を当て、先ほどの予算説明会での学生たちの反応を思い出す。すると、横から真宙が言葉を挟んできた。
「説明会で将典様を見る目には恐れがありましたから」
「この後の折衝も楽になれば、御の字だ」
これから始まるのは予算折衝。予算配分に不満を持った倶楽部の代表者が交渉にやってくる。
「ですが、若君がいらっしゃる倶楽部の予算はあれで、本当によろしかったのですか?」
恐る恐るといった様子で行子が声をかけてきたのは、真一郎からの大きな反発が予想されるから。
今年度の予算要求を大幅に増額していた真一郎が所属する倶楽部に対して、将典は前年度より減額した予算を提示した。
「いいもなにも、あれで予算増額を認めたら、他に示しがつかない」
倶楽部から提出された書類には、前年度の活動実績はまともになく、今年度の活動予定も明確に示されていなかった。
「他の倶楽部もどこも増額要求でしたね。今年度、新しい活動を始めるから、といった理由があれば別でしたが、適当な理由で水増しした要求ばかりでした」
真宙の言葉に、将典は首をかしげる。これは予算案を策定していた時から何度も繰り返した動作だった。
「今年の予算規模は従来通りと言っていたはずだが、どうしてだ?」
「それは澤渡様の叔父様が巨額の寄付を行う。そんな噂が学生たちの間で流れたからです」
行子からの返答に、再び将典は首をかしげた。寄付で予算が大きく膨れる。それなら、希望したらいくらでももらえるのではないか、と学生たちは考えたことになる。将典の叔父、唐渡千里は皇国最大の商会主であり、そうした行動をしてもおかしくはない。けれど、
「どこから、そんな噂が? 確かに、叔父上は私の会長就任を喜んでくれはしたが、寄付の話は全くなかった」
「自分たちの都合のいいように勝手に考えたのですわ。勝手に期待して、期待通りにならなかったから勝手に怒る。なんて恥知らずな人たちなのでしょう」
そう言った利奈子は、腹が立って仕方がないといった様子を見せている。けれど、逆に、そんな彼女を見ていたら、将典の中でくすぶっていた気持ちがいつのまにか和らいでいた。
ただ、それは将典だけの話。部屋の空気が重くなりそうになったのをなだめるように、真宙が明るい顔で口を開いた。
「澤渡家の資金を使って、要求を全て受け入れるという選択肢もありましたけどね」
「金で支持を買うようなことをするわけにはいかない。そんなことをすれば悪しき前例になる」
真宙の意図は承知のうえで、将典ははっきりと否定する。
仮に、真宙の言った通りのことを行えば、来年度が問題となる。寄付として継続すれば、澤渡家が学園で影響力を拡大しようとしている、と非難される。逆に、寄付しなければ、その穴を誰が負担するのか、という話になる。この問題に対応するのは、当然、次の学友会会長である。
「瓦版を配る手はずは整っていますわ」
それは予算説明会が終わった直後に、将典は利奈子から見せられた。「学生瓦版」と名付けられた配布物が学友会室の一角にうず高く積まれていた。倶楽部の代表者たちが不満を広げる前に、先手を打つのに役立つだろう。先回りして用意してくれていた利奈子に、将典は感謝を告げる。
そして、あくびを紛らすために、両腕を上に高く突き上げて背伸びをすると、
「とはいえ、今日で終わりだ」
「今晩はベッドの上で眠りましょう」
真宙の言葉に大きく頷いてから、皿に残っていた最後のブラウニーを口に放り込み、気合を入れる。
扉が外側から叩かれた。
開かれた扉から姿を現した予算折衝の一番手は、武樋貴郎。今では、真一郎の側近の立ち位置を確立している。
その顔には自信だけがあった。




