第58話 言い値の倍で買うもの
コン、と鹿威しの音が庭から聞こえた。
音が少しずつ消えていく。
書院の畳に座る将典の手には一振りの刀。
江都随一の骨董商から使いの者が屋敷に来たのは、学園の卒業式が終わった昨日の夕方のことだった。
『お探しの刀が見つかりました。検分していただきたいので、空いている日を教えていただきたい』
いつでも良い、と将典が昨日のうちに返事を送ると、朝靄の中、骨董商の先触れが姿を現した。
柄頭を持った左手首を数回叩く。すると、先に目釘を抜いてあるため、柄から刀身が少しずつ浮いてくる。そこで、鍔と刀身の間にある鎺を握って、刀身から柄を抜くと、黒錆が満遍なく付着した茎が露わになった。
真っ先に将典の目に飛び込んできたのは、金象嵌された刀銘「月狼」。他には、刀身から抜けないように茎に刻まれた鑢目の見えづらい中に、この刀を鍛えた刀工の銘が、裏には将家より澤渡家に下賜された由縁が刻まれている。
茎を手のひらに乗せると、さらさらと柔らかな手触りが伝わってきた。
鞘から刀身を抜く。障子越しに差し込んでくる太陽の光で、刃が煌めいた。
将典は、改めて、刀を掲げ、刀身と茎の厚みの違いを確認する。刀が使われ、研ぎに出されると、研がれた刀身だけ薄くなるものだが、厚みは変わらない。
次いで、刀を傾け、光を刃に流す。
――確かに、たなびく雲の合間に浮かぶ三日月と翔ける狼みたいだな。
そんな模様が刃紋に現れていた。「月狼」と銘が付けられた所以である。
直接、手にするのは初めてであったが、澤渡家に伝わる由緒書から外れる特徴はひとつも見当たらなかった。
ただ、水を湛えているように輝く刃紋の流れが、将典には刀が涙を流しているようにも見えた。
横から身じろぎする音が聞こえた。視線をスッと送ると、骨董商で番頭を務めると名乗った若者が声をかけてきた。
「いかがでしょうか」
澤渡家には、一振りの刀が代々伝えられていた。それは、澤渡家初代が魔獣討伐で武功を上げたことで、当時の将家当主から直接授けられたものだった。以来、家宝として大切にしてきた。将典の父、高松拓哉が自分の酒代の足しにするために、二束三文で売り払ってしまうまでは。
その刀の銘を「月狼」と言う。
「まあ、待て」
将典は若者に言葉を返すと、同席している老年の男に刀を渡した。あらかじめ定めていた秘かな合図とともに。
男は礒橋康嗣。家令として、将典の亡き母の代から澤渡家を支えてきた。かつて、「月狼」を手にしたことがあるとして、席を共にしている。
その彼は、将典と同じように刀を検分し終えると、首を横に振ってみせた。
若者の顔からわずかに血の気が引くのが、見えた。
気づかないふりをして、将典は康嗣の否定的な態度に同意するようにゆっくりと頷くと、
「似ているが、確かに違うな」
「……どういうことでしょうか」
若者の目にはっきりと困惑の色が浮かんだ。
「偽物でもない。ここまで当家に伝わる由緒書と寸分違わず、作るのはまず不可能」
そう言うと、若者の顔に安堵の色が浮かんだ。
「恐らく、これは下賜された刀の写しであろう。本物は魔獣討伐に使われ、何度か研ぎに出されているのだが、この刀にはその痕跡がない。」
刀を探し求めるために、澤渡家では定期的に新聞に広告を出していた。その際、刀の刃紋や茎の特徴は記したが、研ぎに出したかどうかは記さなかった。慣習的にそこまで記すことがないのもあるし、意図的に伏せていたことでもあった。
「おっしゃるとおりです。でしたら、この刀はなにゆえここにあるのでしょうか」
だから、若者は納得の表情を見せた後、不思議さを表に出しながら、探りを入れるような視線を向けてきた。
それに気づかぬふりをして、将典は澄ました顔で嘘を吐く。
「恐らくは、4代前の当主が継承した際の混乱時に紛失したものであろう」
当主の一人娘だけを残して、澤渡家の一族が槐州における魔獣討伐でことごとく戦死した一件はすでに百年前の出来事になる。多くの人の記憶から薄れたものの、武家に出入りする者が忘れていれば白い目で見られる常識。そして、15代目当主となった一人娘が澤渡家を守り抜くために孤軍奮闘する中、多くの家宝が流出したことも。
将典の目の前に座る若者も、思い出したかのような表情を浮かべると、目に納得の色を浮かべた。
「とはいえ、写しであっても当家にとっては大切な刀であることには違いはない。よく持ってきてくれた。礼を言う」
頭をわずかに下げながら、将典は己の良心がかすかに痛みを発するのを感じていた。
「そちらの言い値で引き取らせてもらおう」
骨董商で番頭を務める若者の顔がほころんだ。
その顔をあまり視界に入れないようにして、将典は康嗣から刀を慎重に受け取る。
「それでは、あちらで商いの話をいたしましょう」
康嗣が促すと、若者はいそいそと立ち上がり、そろって書院から去っていった。
コン、と鹿威しの音が聞こえた。
将典は抜身の刀を丁寧に納めていく。
そして、片膝をついた姿勢で、刀を腰に当てる。
ふうと呼吸を整えてから、鯉口を切ると、金属の硬い音が部屋に響いた。
すらりと刀を鞘から抜く。開け放たれた障子から差し込む陽の光で、刃が水に濡れるように輝いた。
そこに彩気を注ぎ込む。戻って来ようとする流れを感じても、構わず、さらに強く彩気を押し込む。
次第に、鍔の近くから刀身が青白く色が変わっていく。その色はまるで月明かりのよう。そして、全て染まりきると、切先から一滴の水が滴り落ちた。刀を横たえると、刀身に一匹の銀狼が姿を現していた。
これが銘「月狼」の本当の所以。刀そのものが気術の発動媒体となり、魔獣で屍山血河を築いても、その切れ味は一切変わらない。授かった澤渡家初代は、切先から放った一閃によって、山をひとつ切り裂いた。そう由緒書に記されていた。ただし、使いこなせたのは、歴代当主の中でも両手の指で数えられる程度。将典の母も、祖父も扱えなかった。直近で使いこなせたのは、将典の曾祖母にあたる15代目当主。扱えなかった当主は、刀の写しを持って、魔獣との戦いに赴いたと伝えられている。そして、その写しは14代目当主の死に場所で失われた。
「お見事でございます」
声の方へ視線を送れば、神妙な面持ちをした康嗣が縁側に両手をついて座っていた。
『月狼を扱えし者こそ、澤渡家の真の当主である』
由緒書にはこのように記されていたが、記された時と今とは時代が異なる。
――今、求められるのは、この刀を扱える力ではない。
――時流を読む力なのではないか。
学友会のことしかり、流れに押し流されるばかりだ、とも。
それでも、彩気を抜いて元に戻った刀を鞘にしまうと、畳の上に正座で座り、刀を前に置いた。
「あの番頭は帰ったか?」
「はい」
「商人という者は、叔父上もそうだが、なかなか強かな生き物だな」
「……将典様が学友会会長に就かれたこのタイミングで、『月狼』を持ってきたことでしょうか」
学友会の新会長の最初の仕事が、昨日の学園の卒業式で送辞を述べることであった。同時に、例年とは異なり、限られていた人しか知らされていなかった新会長の正体が明らかにされた時でもあった。
骨董商の番頭の将典に向けた第一声も、会長就任への祝いの言葉だった。
「それもあるな。売り時を見計らっていたか」
江都随一と謳われる骨董商の「ようやく見つかりました」の言葉を、その通りに受け取るほど将典は素直ではなかった。「月狼」ははるか前に見つけており、じっと様子をうかがっていたのだろう。いつ、誰に売るのが、最も高く売れるか、と。
「それも、となると、他にも?」
「若い番頭を遣わしてきたことだ」
「写しであるというこちらの主張を素直に受け入れましたな」
「海千山千の主人はもとより、百戦錬磨の古参の番頭でももしかしたら見破られていただろう」
他家では拝領品として大切に死蔵することも多く、使うとしても写しであることがほとんどと聞いていた。
「当家では実際に使って参りました」
「写しであろうと本物であろうと、あちらとしてはどちらでも構わない。そういうことなのであろう」
澤渡家には、刀が本物ではなく写しでなければならない事情がある。その理由は、澤渡家と将家、そして、将典の父、高松拓哉の三者の間で結ばれた約定。「月狼」が澤渡家に戻るまで、高松拓哉は澤渡家の敷居をまたぐことはない、とされている。ただし、そこに「月狼」を戻す主体は記されてはいない。
「いくら支払った?」
「ご指示の通り、向こうの言い値の倍を」
康嗣からの答えに、将典は頷いた。差額は口止め料である。
「受けたか」
「はい。素直に喜んで」
頷くと、刀を手に取って、刀袋に、さらに木箱の中にしまう。そして、康嗣の方へ押し出した。
「分かっているな」
「滄州の屋敷へ私自身が持って参ります」
「頼む」
木箱を抱えた康嗣の姿が消えると、将典は畳の上で身体を大の字に広げた。
澤渡家に戻ってきたのは、「月狼」の本物ではなく、写し。本物が戻ってくることはない。
つまり、今日から、将典の父がいついかなる形で現れても、完全に拒絶できる。
『さあ! これからは俺が伯爵だ!』
母の葬儀の後、傍若無人に宣った男は二度と澤渡家の敷居をまたぐことはない。
安堵の感情が浮かんでくるのを待ったが、将典の中にはいつまでも浮かんではこなかった。
コン、と鹿威しの音が聞こえた。音が少しずつ消えていく。
――……あの男と何が違う。
将典の記憶にある男の姿は、欲望のまま身勝手に振る舞う姿ばかり。
先程の自分の姿を振り返れば、平然と嘘を吐き、金で口封じをした。
「空が見えないな」
視界に映るのは、格子天井に貼られた板の木目だけ。洋館とは違い、和館にあるこの書院には照明を設けていない。だから、明かりは外から差し込んでくる日の光だけなのだが、天井には届かない。暗く、重い。
いつのまにか、畳の上で身動きひとつできなくなっていた。
コン、と鹿威しの音が聞こえた。
『将典様! お庭を案内してくださいませ!』
そう言って、将典の手を引く幼い利奈子の姿が脳裏に浮かんできた。
『気をつけるのですよ』
後ろからは、亡き母の言葉が投げかけられる。
「……」
一筋の雫が目尻から顔を流れ落ちるのを感じた。




