第57話 名誉/未来の遺恨
「私の後を継いでいただけませんか」
その言葉を将典に投げかけられたのは、何の前触れもなかった。
場所は将典が開いたスイーツ店「春望楼」。新聞で「江都一の菓子店」「皇国随一の甘味処」などと書かれるたびに、客が増えている。開業当初、予約で1か月待ちの状況だったのが、今では半年待ちまでになっている。他所での新規開店の誘いもひっきりなし。らしい。
「らしい」というのは、この事業が将典の手から完全に離れてしまったから。むしろ、事業を委ねている濱木峰樹からの報告を聞くたびに、将典は峰樹の優秀さと自分が手出しする余地の無さを感じるほどだった。同時に、胸に穴が開いている気もした。
――私は天命を全うしたのか?
春望楼よりも手ごろなスイーツを出す店も次々に新しく開かれている。男も女も、老いも若きも、金持ちも貧しい者も、江都に住む者なら一度は食べたらしい。江都に来る者も必ず食べると言う。かつて、峰樹が口にした通り、最近はスイーツの紛い物を出す店もなくなった。滄州でも同様だ。あちらはすでに二号店の出店が決まったと知らせがあった。
皇国中にスイーツが広がるのは、もはや時間の問題。
――もはや、私が手を出すところは無いのか?
そう考えると、将典は己の胸に空いている穴が広がっていくような気がした。
手元の皿からフォークで一口切り出し、口に運ぶ。真っ黒なそれは、バターとカカオの豊かな香りを漂わせていた。外側はさっくりと、内側はしっとりと、2種類の食感を楽しんだ後、甘さと濃厚な味わいが広がる。けれど、同時に広がるほろ苦さが胸の穴をさらに広げていく。
ふと、視線を上げると、視界に入ってきたのは、峰樹と並んで部屋の一角に立つ板家咲哉だった。新作として今回のスイーツ「ガトーショコラ」を作った彼が胸を堂々と張っている姿に、将典は頼もしさを感じられた。
それでようやく、開いた穴に仮初の蓋をすることができた。
「あら? 見た目に反して、意外と……いえ、とても美味しいわね」
「そうでしょう。ですから、食わず嫌いは良くない、と言ったではないですか」
聴覚が女性たちの楽し気な話し声を捉えていく。その中心にいるのが、将美海。皇国を実質的に支配する将家の一人娘である。その彼女が今日初めてガトーショコラを口にして感嘆の声を上げたのに応えたのが、美海の隣に座る冨迫利奈子。冨迫伯爵家の令嬢である。
この場は、間もなく学園の卒業を控えた美海とその同期生を送別するために、利奈子を始めとする後輩たちが開いた集まりであった。同時に、美海が会長を務める学友会を1年間務め上げた者たちの慰労会でもあった。
そのために、利奈子の婚約者である将典が一肌脱いで、春望楼を貸し切り、会の場所を提供した。というのは表向きの理由。
実際には、開業の後ろ盾になってくれた美海への礼であり、その取り巻き達への宣伝を兼ねている。そのために、開業時からこの日を確保していた。
――私にできることは今日のような広告塔になることか。
――……それも必要なことだな。
「だって、この真っ黒な見た目が悪いのよ」
「この黒さがいいではないですか」
「あなただって、最初に見た時は驚いたのではない? 試食で先に食べているのでしょ」
「いいえ。パティシエの板家がおかしなものを出してくるわけないですから」
澄ました顔をする利奈子に、美海の顔には呆れの色がのった。
「本当に、利奈子が羨ましいわ。毎日、こんな甘くて美味しいものが食べられるなんて、本当に羨ましい」
「毎日は食べてないですよ」
「あら、そう? 最近、すこし頬がふっくらしてきたように見える気がするのだけど」
「え? 本当ですか?」
利奈子の顔がわずかに青くなり、その手を頬にあてるのが見えた。
こんな笑顔で気安い会話を楽しむ二人を眺める将典が座るのは、6人掛けの円形のテーブル。その真正面には美海が、彼女の横に利奈子が座っている。他は、美海の取り巻き達が別のテーブルと別れて、座っている。
一応、将典が美海と同じテーブルを囲むのは、場所を確保した手柄、ということになっている。けれど、それだけではないのは分かっていた。
――姫君が残している課題は己の後釜を誰にするのか決めること。
学園内の学生自治を担う学友会の新会長任命は前任者による指名とされている。
――とはいえ、弟の若君に任されるのは明らかであるから。
美海には2つ年下の弟がいる。将典にとっては1学年下の後輩。名は将真一郎。将家の唯一の男子として、学園卒業後には将家の跡継ぎ「嫡子」に指名されるのでは、噂されている。それが現実になれば、皇国の指導者となる未来は確実である。
――次期会長の若君を陰から支えるように頼まれる、のか。
――あるいは、この場で頼まれるのなら……。
将典の中で陰鬱な空気が立ち上がってくる。理由は真一郎との仲が険悪だから。それこそ、幼い頃に初めて会った時から。
『女が州知事など務まるものか。お前の母は見栄っ張りの目立ちたがりだ』
彼から乱暴に投げつけられた言葉の記憶が蘇ってきた。笑顔の仮面を顔に貼り付ける陰で、将典はかすかに奥歯を噛みしめた。
――学友会に入り、直接そばで支えることを求められるか。
「澤渡様はそう思われませんか?」
「……さて。私にはそのようには見えませんが」
剥がれ落ちそうな笑顔の仮面を押さえながら、言葉を返す。
「あら。よかったわね、利奈子。あなたの婚約者様は今のあなたが綺麗だそうよ」
利奈子の頬が赤みを帯びるのが見えた。気づけば、将典の中で立ち上がっていた陰鬱な空気がかき消えていた。けれど、
「そういえば、澤渡様にはお話があるのでした」
美海が柔らかの表情を浮かべながら、視線を将典へ向けてきた。その視線は利奈子へ向けていたのとは全く違う。まるで、凪いだ湖面のようだった。将典は無意識に自分の身体に力が入るのを感じた。
「なんでございましょう」
「学友会会長として、私の後を継いでいただけませんか」
この言葉に、今度こそ、将典ははっきりと笑顔の仮面を落とし、驚きの表情を露わにしてしまった。
それでも、すぐに、周囲の様子を察する。そして、美海の言葉に誰も驚いていないことに気がついた。利奈子だけは申し訳なさそうに視線をそらし、俯いていた。
――昨日の利奈子は何も変わりは無かったから……。
――姫君から言われたのは、昨日別れた後か、今日ここに来るまでの間か。
将典は穏やかな笑顔の仮面をかぶりなおす。
「弟君の真一郎様を会長に指名されないのですか」
この言葉に、美海は不思議そうに首をかしげた。その目からは真意が読み取れない。
カチリ
将典の頭の中で歯車がかみ合った音が立つと、いくつかの情報が浮かび上がってきた。それはこの世界をゲームに仕立て上げた「パルヴニール」と呼ばれたもの。その中の様々なシナリオでも、次の会長には真一郎が就いていた。例外は、「パルヴニール」の主人公が大活躍した時。この時はゲーム主人公が会長に就き、真一郎と激しく対立することになる。この対立に勝利することが主人公の成り上がり成功エンドを達成するための必須条件。
とはいえ、将典からすれば、ゲーム主人公が真一郎と対立するのは必然と言うべきもの。学友会会長の就任は、首席卒業と並んで、学園卒業後も評価される非常に名誉なことだ。その座に、真一郎を差し置いて、同学年で平民という身分が下の者が就けば、真一郎の面目は丸潰れである。彼の激しい性格を差し引いても、激怒するのは当然。むしろ、怒らなければ、彼に汚名返上の機会が与えられないほど。けれど、
「伯爵位を控えている澤渡様を差し置いてですか」
確かに、当主であった母亡き今、澤渡家の当主を務める将典は、学園を卒業すれば伯爵に叙される予定である。その意味では、いまだ将家の正式な継承者「嫡子」として認められていない真一郎と比べると、立ち位置は上になる。ただし、真一郎が素直に受け入れるかどうかはまた別。さらに、ゲーム「パルヴニール」の中で、将典が会長に就くシナリオは1つもなかった。
だから、美海から投げられた言葉に、
――飛び級で早く卒業しておけば……。
将典は思ってしまった。学園を卒業するのに必要な単位は初学年時で全て取っていたが、飛び級で卒業するにはまた別の試験が必要だった。去年は春望楼の開業準備に奔走して、後回しにしていた。初学年時の成績から、将典の学年での首席卒業はほぼ確定している。卒業を控える新年度は、滄州や槐州、あるいは海外も回り、見聞を広めるつもりだった。そうすれば、真一郎と顔を合わせることも避けられ、学園を平穏に卒業できる、はずだった。
「弟が学年主席を取っていれば、今少し考えたのですが」
美海の言葉の通り、去年の初学年時の真一郎の学園での成績は次席だった。この世界の慣例の中でも、ゲーム「パルヴニール」の中でも、珍しいことだった。
「最近は『鬼子』なる異名がついてしまったようです。先生方も困らせているようですし。本当に困った弟」
美海が右手を頬にあて、困惑したように話すが、本当に困っているようには見えない。
ただし、言っていることは間違っていない。真一郎の進級試験の成績は2位だった。1位との差は僅差であったため、平常点で下駄をはかせて真一郎を学年主席とすることも、学園教員部はやろうと思えば出来た。そうすれば、真一郎の面目は立ったし、学生たちの多くも仕方なしと受け入れただろう。けれど、今回は違った。真一郎は初学年の学生の間で身分を背景とした対立を煽るような行動をとっていた。そのことに不満を持った学園からの無言の抗議と見られている。
ただ、ゲーム「パルヴニール」の中で真一郎が次席となったのは、主人公が会長に就くシナリオの時でのみ起きたこと。その時は、主人公が進級試験で全て満点を取ったため、と描かれた。学園側の抗議とは描かれていなかった。
――惑わされるな。
将典は己に言い聞かせる。知識に振り回されず、目の前のことに集中しろ、と。
「澤渡様は来年のことも、再来年のことも、もうお考えなのでしょう?」
姿勢を正して言葉を紡ぐ美海から言外に示された依頼を察する。
彼女の目に強い意志があれば、真一郎に代わり後継者を名乗る覚悟だと分かる。彼女にはその資格が十二分にある。だが、その目は変わらず凪いだ湖面のよう。
――私に若君が越えなければならない障害になれ、ということか。
「……私にはまだ、会長職に相応しい関係が学園で築けているとは言えません。十分な地盤なきままに就任しては、かえって姫君が築かれたものを損なってしまいます」
対して、将典には学友会会長に就く利点はほとんどない。確かに、学友会会長で首席卒業となれば、目指している皇国大学の入学試験は無条件で免除される。けれど、すでに試験勉強は万全で、よほどのことがない限り、落第となることはない。
むしろ、将典にとって、不利益の方が大きい。会長就任で生まれる真一郎との遺恨は、いずれ将家と澤渡家の対立に発展する。澤渡家の破滅につながりかねない。
「私のことは気にされなくて構いません」
美海の軽やかな声に、将典は笑顔の仮面の裏で顔をしかめてしまう。学園在学中の3年の長きにわたって会長を務めていた彼女の後を継ぐだけでも、荷が重い。
けれど、続いた言葉で、はっきりと顔のこわばりを表に出してしまった。
「もしも、引き受けていただければ、皇国大学卒業後に澤渡様が滄州知事に就任できるよう、勅許が下される用意が出来ております」
滄州知事就任は、前知事であった亡き母の後を継ぐとして、将典の将来の希望である。ただし、美海が言っていることはあまり意味がない。ここでの勅許は、「皇国の藩屏」と呼ばれる貴族八家の後継ぎが大学卒業時に与えられるものとして、慣例になっているからだ。大学卒業の祝いとこれからの皇国への忠勤を期待するといった意味合いが強く、むしろ、「そうする用意がある」程度の空手形に近い。将典の母の時もそうだった。利奈子の父、冨迫伯爵は槐州知事だった。
けれど、今、この時、この場で美海が口にしたことは問題だ、と将典は判断する。将典だけではない。利奈子も、他の女学生たちも顔に驚きを浮かべていた。
今の美海は将家の令嬢ではあるが、卒業を間近に控える学園の一学生にすぎない。公的な職も地位も持たない。それなのに、たとえ彼女の取り巻きであっても、皆が見ている前で口にするのは、悪ふざけですまされる程度を越えていた。
なのに、部屋の中にざわめきが広がる中で、美海の顔は変わらない。
――つまり、姫君一人だけの意向ではない、ということか。
将典は美海の目を見た。その目から何もうかがい知ることが出来ない。この件についてどう考えているか、その真意はどこにあるのか、全く分からない。
ただ、彼女の背後には誰かが控えているのは分かった。彼女に「勅許が下される」と言わせる誰かが。
もう一つ、はっきりと分かることがあった。将典には選択肢がひとつしかない、ということだ。
心配げな利奈子の顔が見えた。
腹に力を込める。
「かしこまりました」
そして、頭を深々と下げる。
「その大役、引き受けさせていただきます」
皿に残されたガトーショコラが目に飛び込んできた。
真っ黒だった。




