第55話 「君が嫌いだ」
庁舎の廊下に靴音が2つ響く。その音をかき消すざわめきは、将典が中に入った時とは異なるものになっていた。
「戒厳司令部との連絡線、開通しました!」
「歩兵第2大隊、汐入横丁まで進出開始!」
「戒厳布告文の印刷、急げ!」
「15分後、戒厳司令官より訓示が下されます!」
背広姿の官吏よりも、軍服をまとった軍人たちが慌ただしく動き回っていた。
将典の前を帽子をかぶった冨迫伯爵が歩いている。背中からは、伯爵の気だるさがにじんでいた。
「やっぱり、君のことが嫌いだ」
伯爵の歩みが止まった。将典も歩みを止める。
「自分の若い頃を思い出させる。あの頃の私は、自分で全てを解決することしか考えていなかった」
伯爵が将典に背を向けたまま、天井を仰いだ。
「君のように、周りをうまく利用することは考えもしなかった」
「利用する」という言葉に、将典は少しだけ眉を動かしてしまう。
「君は、私があの証拠を渡されても全く動かないとは思わなかったのかい? それとも君を裏切って堂上侯爵の下に走るとは考えなかったのかい?」
――その時はその時。読み違えた時の責任は私だ。けれど……。
証拠を手にした伯爵がどのように動いたのか、今の将典に知る術はない。ただ、堂上侯爵の執務室で感じた伯爵の汗のにおいから、伯爵が侯爵を追い込むために奔走したのは想像できる。そして、その奮闘が表に出ることがないことも。
だから、振り返った伯爵へ感謝を込めて、将典は静かに笑みを浮かべた。
伯爵の口から、大きな溜息が吐きだされた。
「本当に、君は私に対して意地が悪いね」
見つめてくる伯爵の目には妬みと羨望が浮かんでいた。
「私はあなたの中にある誇りを信じました」
将典がかけた言葉に、伯爵は目を見開くと、帽子に右手を当てた。腕で顔が隠れている。
「ああ、そうだ。私にも誇りがある」
そして、帽子を目深にかぶり直す。つばで表情が隠れた。
「だけど、私のことも少しは考えてくれ。あの証拠を渡されて、私は何を考えるか。侯爵に渡せば、私はこの江都で楽に生きていくことが出来たんだ」
「けれど、渡さなかった」
伯爵は帽子をさらに深くかぶり、顔を横に向けた。
「そんなだから、私は君のことが嫌いなんだ」
声には、わずかに自己嫌悪が混じっていた。
そして、背を向けて一歩だけ前に踏み出すと、そのまま止まり、上を向いた。
「……だが、何かあれば連絡しろ。出来ることであれば手伝う」
言い残して、去っていった。その後ろ姿に、将典は頭を下げる。いつか伯爵に認められる日が来るよう努めていく、の決意とともに。
下げていた頭を戻すと、伯爵の背中は変わらず気だるげな空気を漂わせていたが、将典にはどこか大きく見えた。




