第50話 烏が夜に泣く 前編
しとしとと雨が降る中、街灯の灯をたよりに、二挺の人力車が緩い坂道を上っていた。
まだ日暮れ前だというのに、低い雨雲によって、夜の帳が下りたかのように暗い。そこに立ち込める霧が加わって、見通しも悪い。
車夫の足音の合間に、時折、車輪が水たまりを切り裂く音が重なる。
先行する人力車に、将典が利奈子とともに乗っていた。利奈子を冨迫家の屋敷へ送り届ける途中だった。
出発前に確保できたのが、この二人乗りの人力車だけ。後続の人力車には真宙と壮馬が乗っている。同性の彼らはともかく、未婚の男女が同じ人力車に乗るのは、外聞が少し悪いのだが、
「よろしいではないですか。私たち婚約していますもの」
笑顔の利奈子によって、押し切られた。
霧の向こうに、人影はひとつも見えない。場所は汐入横丁の外れ。了成がいる寿慶院の近く。
風は無いものの、人力車が駆け抜ける空気の流れが、将典に肌寒さを感じさせていた。
――夜烏組にけじめをつけさせなければならないが、どうするか。
警察の取り締まりを強化させることは難しい。誰が裏組織につながっているか、分からないからだ。
――なら、新聞に連載されている小説の主人公のように、正体を隠して悪を叩く行動に出るか?
こんな己の考えに、思わず、将典は笑ってしまった。
「どうかなさいましたか」
「何でもない。益体もないことを考えていただけだ」
ゲーム「パルヴニール」の主人公は、夜烏組の隠れ家に直接乗り込んで壊滅させていた。けれど、将典に同じことは出来ない。人相手の私闘は皇国の法によって禁止されている。「皇国の藩屏」である澤渡家当主であっても許されることはなく、破ってもならない。当然、誰にも分からないように隠れても、ダメだ。
チンチンと鐘の音がした。坂道を下りてきた路面電車とすれ違う。電車の中に客はいなかったが、その照明に一瞬だけ照らされた利奈子の顔はひどく嬉しそうに見えた。
「? ……何かいいことでもあったのか?」
「そんな顔をしていますか?」
「私にはそう見えた。勘違いだったら、申し訳ない」
「いいえ。澤渡様の勘違いではありません」
声音も弾んでいるように聞こえた。
「殿方に名前を呼ばれるということが、これほど心躍ることとは思ってもいませんでした」
将典は首を横に傾げてしまう。彼女の言葉の意味が理解できなかったから。
「男女の恋愛を描いた小説で、似たような場面を読んだことはありました。ですが、その時は、さほど私の心は動きませんでした」
じわじわと理解が広がっていく。誰かが、利奈子を名前で呼んだということだ。
小説は見識を広げるために目を通している。恋愛小説も少ないが例外ではない。けれど、利奈子が言ったように、将典の心も動かなかった。だから、
――心躍る? そういうものか?
心の片隅でザワリとするものには目を背けながら。
けれど、学園で彼女に強引に話しかけていた武樋貴郎の顔が浮かんでくると、またザワリと……。
「お気づきではなかったのですか? 襲撃が起きた時に、澤渡様が私の名前を呼ばれたことに」
『利奈子を守れ!』
「! もう……」
口にした言葉を思い出して、将典は反射的に「申し訳ない」と謝罪しようとしたのだが、利奈子の手によって口をふさがれてしまった。
「謝らないでくださいませ。私にとって嬉しかったことですから」
「だが……」
「私たちは婚約しているのですから、何の問題はありませんわ」
将典は異を唱えようとするものの、畳み掛けられる。
「それよりも、私もお名前で呼んでもよろしいでしょうか。……将典様、と」
呼ばれた瞬間、顔が熱くなった。真宙や他の者たちからはこれまでに数えきれないほど掛けられた言葉、幼い頃の利奈子にも言われた言葉ではあったが、今、この時は全く違う言葉に聞こえた。
辺りが暗く、己の顔色が利奈子にはっきりと知られないことに、将典は安堵してしまう。それでも、ほんのわずかな間、視線の置き所に迷った末、あらぬ方向に視線を送って、
「……好きにするがいい」
と返すので精一杯だった。
「はい。将典様」
横から返ってきた弾むような言葉に、ますます顔が熱くなった、その時。
獣の遠吠えがした。
瞬間、将典の意識は一気に冷たく研ぎ澄まされた。
人力車を引く車夫は歩みを緩め、いぶかし気に周囲を見回していた。
「……野犬か?」
首を傾げながら、そうつぶやく声が将典の耳に届いた。
――違う。狼だ。それもただの狼ではない。
――狼の魔獣だ。
肌に感じる空気が一際冷たくなった気がした。
「将典様」
再び、横から声をかけられた。けれど、先ほどのような明るく弾むものではない。張りつめた声だった。
将典が顔を向ければ、利奈子の顔が見えた。暗がりの向こうでも、その表情が引き締まっているのが分かる。そして、彼女も遠吠えの正体を察していることも。槐州で二人とも何度も耳にしたから、聞き間違えようがない。
――だが、江都に魔獣?
――江都には200年、魔獣は現れていないんだぞ。
ゲーム「パルヴニール」でも、江都に魔獣が現れるシナリオは無かった。
なぜ、江都に魔獣が? 疑問は浮かぶが、すぐに消し去る。わずかな気の迷いを魔獣は見逃さない。目の前の現実に意識を集中させる。
その時だった。
断末魔の叫びが空気を切り裂いた。
車夫の足が止まった。
叫びが聞こえたのは、これから進む先。それほど遠くない。けれど、濃い霧に遮られ、様子をうかがうことはできない。
車夫が青ざめた顔で振り返った。恐怖で口を開くこともできない、といった様子だ。
空気が動いた。反射的に、将典は彩気を操り、備える。
のそり。
それは霧の向こうから現れた。
魔獣だ。
姿は狼に似ているものの、普通の狼より二回り以上大きい。二対の蒼と紅の瞳が禍々しくギロリとにらみつけてくる。
車夫の口から、ヒッと声にならない悲鳴が漏れた。
その悲鳴を聞き分けたかのように、血塗られた口が嗤うように開き、鋭い牙が露わになった。
そして、その後ろ脚に力を込め、飛び掛かってき……。
ズン
氷柱に貫かれ、大地に落ちた。氷は将典の彩気によって生み出されたもの。
その時、動転した車夫が人力車の柄から手を放してしまった。緩いとは言え、坂道を上っていたから、人力車は後ろへ傾く。
彩気も操り、将典は倒れ始めた人力車から飛び出した。両腕に抱えた利奈子の驚きの声を残して。
「お怪我はありませんか!?」
後続の人力車から、壮馬が駆け寄ってきた。
「大丈夫だ」
そう答えながら、将典は彩気を操る。傘のように広げ、利奈子の身体が雨で濡れないようにしてから、抱えていた彼女を下ろした。
真宙はステッキに隠していた仕込み刀を抜き、魔獣の下へ近寄っている。必要があれば、止めを刺すために。
降り続く細かい雨による霧で、相変わらず、周囲の見通しはきかない。
将典は彩気を広げていって、この近くに、別の魔獣が潜んでいないことを確認する。
「一体、この魔獣はどこから来たのでしょうか」
魔獣の絶命を確認した真宙が首を傾げながら寄ってきた。
――どこから来たか。
「おそらくは、勧業博覧会の見世物として確保された魔獣であろう。それが逃げ出した」
将典の言葉を受けて、利奈子も続いた。赤らめていた顔は引き締めて。
「そうですね。江都の市内はもちろん、郊外でも姿を見た話はここ200年、耳にしておりません」
真宙も口を開く。
「でしたら、捕らえて運んでくるのは不可能ではないでしょう。実際、魔獣の研究のために、皇国大学の学者が軍と共同で行った前例があります」
真宙の言葉を聞きながら、将典は視線を壮馬へ送っていた。壮馬の視線は落ち、口は開かない。新参者は控える、といった様子で。
「小矢島。この魔獣について、何でもいい、知っていることは無いか」
そんな彼に将典は水を向けた。夜烏組を通じて、何か知っていることが無いか、と。
「申し訳ありません。今日、船から陸揚げされる、としか分からないでやす」
「それだけか?」
この言葉に、壮馬は首を横に振って、
「あとは、陸揚げされた後は夜烏組の隠れ家に運び込まれる、としか」
将典の眉がかすかに動いた。反応したのは真宙も。
「おい! まさか、夜烏組がこの魔獣を江都に連れ込んだのか?」
「は、はい。夜烏組の頭が自ら指示を出していると聞いていやす」
気圧された様子を見せる壮馬に、真宙は気に留めず、血相を変えたまま、将典の方を向いた。
「今度の勧業博覧会の最大の目玉は、魔獣の展示です」
「そうだな、真宙。つまり、夜烏組は政府と江都市長肝煎りの勧業博覧会に深く食い込んでいるということだ」
「申し訳ありません。私の手落ちです」
真宙がそう謝るのは、江都での情報収集を担っているから。勧業博覧会で展示される魔獣がどこから運び込まれるのか、調べていた。軍か、魔獣を捕らえる十分な力を持ったどこかの有力家か、と的を絞っていたら、完全に外した結果だ。
「気にするな。誰も気づかなかったのだ」
頭を下げたままの真宙の肩に、将典は手を添えると、
「おそらくは、魔獣を捕らえる役と江都で魔獣を管理する役は別ということだろう」
頭を上げさせた。
「肝心なのは、夜烏組は脱走した魔獣を押さえることが出来るか、だ」
「無理でやす。夜烏組のヤツラはもちろん、他の用心棒も酒と賭け事で身を持ち崩した者ばかり。不意を突かれたら、立て直すことなんか到底不可能でやす」
壮馬から返ってきた答えに、将典は眉間にしわを寄せる。
一陣の風に乗って、どこか遠くから人の悲鳴が聞こえたような気がした。魔獣に対抗する銃の発砲音はひとつも聞こえない。
と。
「どこへ行く!?」
将典が声をかけたのは利奈子。勝手にどこかへ走り出そうとしたからだ。
「今の魔獣が襲った人を助けに」
彼女の言葉に、人の命を必ず奪う魔獣の習性を考えれば、無意味だと否定しかけるが、
「一緒に行こう」
そう返した。利奈子の気持ちを軽く扱いたくはなかったゆえに。
将典たち4人は、完全に腰が引けた人力車の車夫たちを後ろに連れて、魔獣が来た方向へ足を向けた。
しばらくすると、一組の男女が何かを守るようにうずくまっているのを見つけた。
すでに事切れていた。傷跡などの状況から、魔獣に殺されたのは明らかだった。けれど、
「……将典様」
彼らが守っていた乳飲み子は生きていた。傷ひとつなく。泣き声を上げることもなく。
乳飲み子を抱きかかえながらも、利奈子は治癒術の使い手として死んだ男女に何も手を施せない無力感にさいなまれているように見えた。
そんな彼女に、将典はかける言葉を見つけられず、ただ、無言で彼女の肩に手を添えることしかできない。
乳飲み子と目が合った。その無垢なまなざしに、思わず、目を背けてしまう。
見上げると、彩気で作った透明な傘に雨粒が当たるのが見えた。その向こうに見えるのは、暗く重い雲。
彩気を新しく操る。薄く広く広げていく。周囲の気配を探る術だ。普通なら、目で見える程度の範囲しか知ることが出来ないが、もっと遠くへ広げていく。そして、将典の彩気は目当てのものを捉えた。
――数は9。種類は全て狼型だな。
雨は小降りになったものの、いまだに霧は濃い。
そんな中で、将典はさらに彩気を操る。秘かに、今度は空中に9本の氷柱を作り出す。
射出。放たれた氷柱は勢いよく天を翔け、重力に従って、地に落ちる。誤りなく、魔獣たちを貫く。そして、将典は、氷柱に満たしていた彩気を抜くことで、氷を溶かしてしまう。魔獣を倒したのは誰の仕業か、知られないように……。
の、はずだったのだが、将典はしくじりを犯してしまっていた。それは、氷柱を作り出す際に必要な水分を霧から集めすぎたことと、氷柱を送り出した時の空気の反動を見誤ったこと。
結果、将典たちがいるところだけ、霧が晴れ、垂れこめていた雲もかき消え、十三夜の月が姿を現した。
――彩気を使いすぎたか。
将典の眉間にしわが寄ってしまう。
何が起きたのか、を察したのは、彩気のことを知る利奈子、真宙、壮馬の三人。人力車の車夫たちは目を丸くしているものの、察した様子は見えない。
その中で、
「澤……」
「小矢島!」
言葉にしようとした壮馬に、小声でも鋭い制止の声をかけたのは利奈子。さらに、人差し指を秘かに口元へ運び、黙るように指示する。魔獣を倒したことを隠す将典の意図を察して、先回りしたもの。
『私が、200年ぶりに皇国の首府、江都に現れた魔獣を倒した』
などと声高に触れ回ったりしたら、方々の面目を潰し、敵を作ることになる。触れ回ったりしなくても新聞に取り上げられ衆目を集めたら、同様。江都市長の堂上侯爵、宰相の加登伯爵、内務卿の戸梶子爵に、魔獣を倒すことが主である軍と、皇国を実質統治する将家も、全て、将典の敵となる。
十八代目澤渡家当主と言えども、今の将典は、爵位を持たない、公職にも就いていない、学園に通う一人の学生にすぎない。
――過ぎた力は災いを招く。
――まるで、力の呪いだな。
そんな感慨を抱きながらも、視線だけで、将典は感謝を伝えると、利奈子も応えるようにかすかな笑みを浮かべた。他でも魔獣の犠牲者が出ていることを察した悲しみとともに。
けれど、壮馬が申し訳なさそうに近づいてきたのを見て、意識を切り替える。
「どうした?」
声をかければ、壮馬は声を潜めて囁いてきた。その言葉に、将典は眉をピクリと動かしてしまう。
「澤渡様。この男、夜烏組の頭です」




