第48話 雨の来訪
雨音が聞こえる。
暦の上では初冬に入っているものの、雨の湿気も加わって、季節外れの生暖かさがあった。
将典が、辺りを見回せば、壁紙がきれいに貼られ、照明が取り付けられている部屋も見えれば、まだ壁紙が貼りかけの部屋も見えた。
開け放たれた窓の向こうには、雨煙で霞んでいるものの、いくつもの屋根が見えた。工部省の次官、皇国大学の教授、……、皇国を支える要人たちが住む屋敷だ。晴れていれば、将家の屋敷も見えるはず。
今いるのはスイーツ事業の一号店となる建物の2階。美海の仲介を経て手に入れたこの建物では、開業に向けて、改装が行われていた。店内で紅茶などの飲み物とともにスイーツを堪能できるように、1階は広々とした空間が、2階は周りに気兼ねなく楽しめるように個室が配される。調度品もひとつひとつが吟味され、用意が進められていた。
「いや~、ありがとうございます」「これはこれは。ご丁寧に」
階下から、職人たちの明るい声が聞こえ始めた。
将典とともに来た真宙と、利奈子、その侍女の行子の3人が職人たちに差し入れを始めたのだろう。用意したのは巷で流行っている外国由来の菓子を扱う店で購入したもの、フィナンシェ。
将典の手元には紅茶が入ったカップとともに、フィナンシェが2つ並んでいた。その片方は、階下で利奈子たちが配っているのと同じもの。
そちらを将典は手に取って、一口かじれば、バターとアーモンドの香りが広がり、しっとりとした食感を楽しめる。
――思っていたほど悪くはない。むしろ、上等だ。
――庶民にも手に取りやすい価格を考えれば、行列が出来るのも頷ける。
次いで、紅茶を一口含む。秋摘み特有の穏やかな香りとともに、とろけるような甘み、深いコクが、口の中で広がる。
――致し方ないことではあるが、この紅茶には力負けしてしまうな。
真宙の手で茶葉の可能性を最大限に引き出された紅茶は、先に口にしたフィナンシェの存在感をかき消した。
次いで、残ったフィナンシェに、将典は手を伸ばす。こちらは咲哉が屋敷で作り上げたもの。
手にした瞬間、指先からはっきりとした固さが伝わってきた。
一口かじると、外側のサクッとした食感の後から、内側のしっとりとした感覚があり、口を楽しませる。鼻からは焦がされたバターの香り、舌はアーモンドの豊かな味わいを伝えてくる。
思わず、鼻の穴を大きく膨らませてしまう。
「いやはや。食べ比べてみると、こうも違うものなのですな。同じものとは思えませぬ」
将典と同じように食べていた男が弾むように声をかけてきた。
歳不相応に白髪が多いその男、濱木峰樹は、顔をくしゃくしゃにしていた。
「以前、お屋敷でいただいた時も同じことを思いましたが、今日は確信しました」
右手に持っていたフィナンシェの最後の一口を口の中に放り込むと、
「これと同等のものを提供できるなら、成功は間違いありません」
名残惜しそうに指先を見つめた。
もともと、峰樹は大蔵省の若手官吏として将来を嘱望されていた。しかし、「槐州事変」前夜に開かれた会議で、彼の官吏人生は一変した。軍派遣を否定した将真一郎を舌鋒鋭く批判したからだ。
その彼が政府に辞表を出したと耳にした将典は、すぐに声をかけた。故郷、滄州でかつて神童として名が知られていた者の危地として。その際に峰樹に示した選択肢は、故郷の滄州州府で働くか、魔獣によって荒らされた槐州の復興のために槐州州府で働くか、皇国最大の商会を営む叔父唐渡千里の下で働くか。そして、江都でのスイーツ事業の責任者。
――濱木の官吏として手掛けてきた仕事を考えれば、いずれかの州府で働くだろう。
州府でも、商会でも、相応の地位を用意していた。それらと比べると、スイーツ事業の責任者は毛色があまりに違った。
けれど、峰樹はこの話を聞いた途端、身を乗り出し、
『スイーツという新しい概念を皇国に広める、そんな仕事に巡り合える。それもトップとして差配できるなど、男として見過ごすわけにはいきません! ぜひ、やらせてください!』
そんな彼が、不意に、外へ視線を向けた。
「雨後の筍のように江都中にこの類の菓子を出す店が出来ていますが、最近は名ばかりの紛い物を出す店も増えてきたようです」
そう言うと、今度は、将典の方へ身を乗り出した。
「ですが、我々が本物を提供すれば、名ばかりの紛い物は即座に駆逐できるでしょう。いや、駆逐してみせます」
「そう気負うな。他所のことは気にする必要は無い」
将典にはその姿勢が空回りの前兆のように感じられた。
「むしろ、店で働く者たちに気を配れ」
「……仰る通りでございます」
峰樹がひとつ頭を下げると、
「ここで学び、巣立っていった者が皇国中にスイーツを届けていく。そんな夢を描くと、ロマンを感じますな」
右拳を握り締めた。
「前職とはまた違う、格段にやりごたえがある仕事でございます」
そして、背筋を伸ばして、将典の目を見つめてくると、
「本当に、わたくしめにお声がけいただきありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「これからの働きを期待している」
これはスイーツ事業を率いていく者が交代する儀式だった。将典は肩から荷が降りたような軽さと、胸に穴が開いたような感覚、両方を感じた。
気がつくと、峰樹が身体をひねって周囲を見ていた。
「それにしても、このような絶好の場所を確保されるなど、流石は御当主」
「将家の姫君に口を利いていただけたおかげだ」
「それでも、口利きを引き出されたのは御当主のなせる業。私では到底できません」
「場所と人材は揃えることが出来た。だが、行政からの認可が残っている」
必要な書類は全てそろえた。不備が無いことも確認している。それでも、
「……まだ認可が下りていない、ということは」
峰樹の目がスッと細くなったのに合わせて、将典も軽く頷く。
「おそらくは、後ろで横槍を入れている者がいるのだろう」
「心当たりは?」
いくらでも脳裏に描くことが出来た。槐州の混乱に巻き込まれず、逆に飛躍の足掛かりにしようとしている澤渡家の動きを面白くないと見る者。叔父、千里の商会の隆盛を妬む者。将家の御曹司に楯突いた峰樹を引き入れたことを気に食わない者もいるだろう。
だから、将典は肩をすくめて、こう返す。
「山ほど」
峰樹の目は丸くなったものの、すぐにパッと顔が明るくなった。
「この件に関してはお任せください。必ずや、認可を取って参ります。官吏であった私が最も力を発揮できるところでございます」
そして、峰樹はおどけるように肩をすくめた。
「むしろ、これでも残っていなければ、私の居場所がありません」
「そんなことはない。スイーツ事業はまだ始まったばかりだ。濱木の手腕を必要とするところがそこかしこにある」
「お任せください。全身全霊を注ぎます」
ここで、将典は前へ身をかがめて、声を潜めた。
「ところで、民権運動にかかわるごろつきたちは来たか?」
峰樹も同じように身をかがめると、頷いて、
「ええ。ですが、初めから大工は素性の良い者ばかりを選び、言い含めておきましたので何事もなく」
それでも、将典の脳裏には賊に襲われた富士子の家のことが浮かんできてしまう。
「万一に対しては?」
「その点もぬかりなく。近所の派出所の警官には頻繁な巡邏を頼んでおります。御当主の指示通り、最悪、夜間の放火も想定して、夜番も置いています」
峰樹の声に首を傾げようとする色が混ざった。
「ですが、ここまでしますか」
「念には念を入れて、だ」
将典は言い切る。
「仮に放火であっても、火元となれば……」
一度言葉を切ると、さらに力を籠める。
「全てが水の泡だ」
「仰る通りでございます」
「必要なものがあれば言え。それこそ、使えるなら私であっても、遠慮なく使え」
「でしたら、この一号店開店の際に、将家の姫君の目に触れる機会を何かひとつ作っていただけないでしょうか」
それが出来れば、事業に箔が付くのは分かる。
「……なかなか難しいな。姫君は後ろ盾にはなってくださっても、公に表立って特定の店を贔屓にすることは控えていらっしゃる」
「そうでございました。差し出がましいことを申し出てしまいました」
「構わない。その代わりではないが……」
言いかけたところで、階段を上がってくる足音がした。将典が振り向けば、利奈子たちが2階に上がってきた。
利奈子の笑顔を見て、知らず知らずのうちに張りつめていた緊張が、自分の顔から抜けていくのを感じ……。
ドン!
「何事だ!?」
突然の大きな物音に反応した峰樹が上げた声に、直ちに1階から返事が返ってきた。
「襲撃です! 男たちが突然押し入ってきました!」
将典が窓から外の様子をうかがえば、雨の中、棍棒や槌、刃物を手に持った荒くれ者たちが建物を囲んでいた。
その一人が、大槌を振りかぶり、将典たちがここに来る際に乗ってきた自動車へ向かって、勢いよく振り下ろした。
ドン!
「ヤツラめ! 御当主、あの者たちは民権運動のごろつきたちです」
一緒に外の様子をうかがっていた峰樹が横から告げてきた。
将典の眉間にしわが寄りかけたが、その目が囲んでいるごろつきたちに混ざって立つ一人の男に止まった。
汐入横丁で違法な地上げをしていた夜烏組の用心棒だった。
――民権運動のごろつきたちは、夜烏組につながっていたのか。
雨の中、横に立つごろつきがさす傘の下で、用心棒の男は腕を組んで悠然とたたずんでいた。偶然の巡り合わせで、この件に関わったようには見えなかった。相変わらず、着ている着物は擦り切れていたが、その様子は、ごろつきたちに溶け込んでおり、何度も同じ仕事をしてきたように見えた。ただ、目だけは汐入横丁で見た時と違い、少し上の空のように感じた。
改めて、襲ってきた者たちの顔を見ていくと、用心棒の男と一緒に地上げをしていた夜烏組の男たちがごろつきたちに指示を出していた。襲ってきた者たちの中でも、雨除けの外套をまとい、身にまとう着物も上等で、動きも活発だった。
――あるいは、民権運動そのものが夜烏組の隠れ蓑だったか。
そして、今回の襲撃の主導権が夜烏組にあることも。
ここでひとつの疑問が将典の中で浮かんでくる。
――夜烏組は自らの意志でこの場所を襲撃しに来たのか。
――そうであるならば、何のために?
その間にも、次々に壊れる音が響く。
気づくと、拳を握りしめていた。その拳をさらに強く握りしめ、
「真宙、濱木! 利奈子を守れ! ごろつきたちが2階に上がらないようにしろ!」
「御当主はどうされるのですか!?」
峰樹からの問いかけに、将典の右の口角が上がった。
「少しばかり悪人退治をしてくる」
そう言い残すと、窓の外へ身を翻した。




