第37話 災いを呼ぶモノ
天幕の中では、絶え間なく雨粒の打ち付ける音が響いていた。
揺らぐ灯の下、将典は一人、戦闘詳報を改竄していた。三つ首の大蛇の脅威度を甲と判断していたのを乙に引き下げ、将典は後方の野戦砲陣地に待機しており、討伐したのは第一大隊の鎮台兵によるものとする、と。
改竄された報告は、江都に送られる。改竄前の戦闘詳報は滄州鎮台司令部の機密文書庫に収められ、
――日の目を見るのは百年後か、二百年後か。
政府に将典の力を知られないようにするため、ひいては真一郎の競争心を刺激しないためだ。
書きあがり、将典は筆を置くと、机の脇に置いてあった保温瓶から湯呑に白湯を注ぐ。保温瓶の横には、石焼にされた甘藷がとろりと蜜を溢れさせていた。けれど、将典の手は伸びない。
ギロリと鋭い視線を感じた。顔を向ければ、紅い目が3対、にらみつけてきていた。
大蛇の幻だ。幻と分かっていても、背中を冷たい汗が流れ落ちる。
雨音に紛れて、兵たちの声がかすかに聞こえた。大蛇を倒したことを祝う声だった。犠牲者はゼロ。誰もが心から喜んでいる。
いつの間にか、幻は消えていた。それでも、冷たくなった指先が、戦いで疲労した身体が、将典の心を冷たく重く沈ませようとしてくる。
兵たちから離れて、将典は一人、己の天幕に戻っていた。いつも側にいる真宙の姿はない。江都に残らせ、康嗣とともに情報収集にあたらせているからだ。
右手だけで湯呑を持つと、白湯の温かみでかじかんだ指先に血が戻るのを感じた。
同時に、己の身体を回り続けるあるモノも。
湯呑に視線を落とすと、水面が手の震え以外でかすかに揺らいでいるのが見えた。
――「魔獣の息吹」か。
魔獣を銃器以外で倒した時に体内に起こることを、将典たちは「魔獣の息吹が身体を駆け回る」と言う。
「愚者」の言葉を借りれば、「魔獣を倒した経験値」と「レベルアップ」。
以前も同じことが起きた。その時の魔獣の脅威度は乙。その後、将典は彩気の流れを見えるようになった。
――これからどうなるか。
彩気を視認できる階梯よりさらに上の階梯に足をかけていることを、身体で感じていた。
『ご先祖様の偉業を振り返れば、一蹴りで山を砕いたり、星を落として湖を作った、そんな話も伝えられている』
以前、自分が口にした言葉を将典は思い出す。聞いていた康嗣はこれを「絵空事」と言った。
――おそらくは、ご先祖様と同じ地平に私は立つのだろう。
そのことへの喜びや誇らしさは、将典の中には湧いてこない。
浮かんできたのは、母の憂いに満ちた顔。
『将典。彩気を見ることが出来るのは誰にも言ってはいけません。良いですね』
それよりさらに上の階梯に立ってしまうことで、
――母上にあの世から心配をかけさせてしまうか。
将典は顔に苦笑いが浮かぶのを感じた。
――今の時代、どんなに彩気を扱えても、貴族には無用の長物でしかない。
雨がより強く打ち付け始めた。
――それどころか、不必要に強力すぎる力は誇示しなくても、在るだけで災いを呼び寄せる。
真一郎の競争心に、貴郎の存在。あの男は利用しようとすり寄ってくるかもしれない。さらには……。
「夜分遅くに失礼します。澤渡様、今よろしいですか」
天幕の外からかけられた声に、将典は眉をひそめた。声の主は利奈子だった。
「未婚の淑女が忍んでくるとは、褒められることではないぞ」
「明日、蒼楠に入ると、お話しできる機会がなかなか取れない、と考えましたので」
そう言うと、許しを得ることなく、彼女は天幕の中に入ってきた。
未婚の女性が、夜に、しかも一人で男がいる天幕に入るところを目にすれば、良識のある人間なら必ず眉を顰める。
将典の眉間にも深い深いしわが刻まれた。
「そのお転婆娘ぶりには、お父上も嘆かれるだろう」
「構いませんわ」
皮肉にも、涼しい顔でかわされてしまう。思わず、将典は溜息を漏らしてしまった。
「……それで何の用だ」
利奈子は、束の間迷いをみせた後、雨で濡れた外套を脱いでいた。そして、将典の正面に座って、背筋を伸ばすと、
「今日の魔獣退治は見事なものでした。冨迫家の者として、御礼を申し上げます」
深々と頭を下げた。
「大したことではない」
将典は素っ気なく返す。外套の下に隠れていた、彼女の着慣れていない軍服姿に気を留めることはない。
それだけなら自分の天幕へ早く戻れ、と言おうとしたが、自身の左腕を見て止めた。代わりに、右手に持ったままだった湯呑を机に置いて、
「あなたの気術も素晴らしいものだった。おかげで、多くの兵の命が救われた。澤渡家当主として、御礼を申し上げる」
お世辞ではない。彼女の気術による治癒は、今回の行軍では大いに役立っている。
滄州から槐州に入って一週間。滄州鎮台第一大隊は数多くの魔獣を掃討してきた。
当然、負傷者は出たが、その傷をほとんど全て癒したのが彼女だった。戦死者ゼロ、負傷による後送者も一人のみ、という状況は望外の幸運と言えた。折れていた左腕のみ固定しているが、将典が大蛇との戦いで負った他の傷はすでに治っている。それを治したのも利奈子だった。
何より、将典が目にした利奈子の彩気の流れは、息を呑むほど美しかった。
そんな将典からの賛辞は、想定外だったのか、彼女は目を丸くして頬を赤く染めた。
「……あ、ありがとうございます」
けれど、将典は意に介することなく、用件はそれだけだと言わんばかりに、机の上に広げていた戦闘詳報を片付け始める。
利奈子も、頬の紅が引くと、片付けを見守った。その目の動きから、戦闘詳報が改竄されていることに気づいているが、口を差し挟む素振りは見せない。なにより、彼女の功績も改竄されているから。
地方から江都に送られる戦闘詳報が過小評価に改竄されることは珍しくない。その理由は、情勢悪化を知られたくない地方の面子のために、能力を目を付けられて軍に引き抜かれたくないから、と様々。今回も、将典は言わずもながだが、利奈子も、その能力は珍しくないが、軍を始めどこの組織でも、のどから手が出るほど求められる。逆に、政府にとっては、魔獣討伐の報奨金が減り、財政負担が軽くなるから、目をつぶってしまう。
――そもそも、江都の人間は魔獣討伐に興味も関心もない。せいぜい、御伽噺程度だ。
将典の脳裏には、利奈子が連れてきた侍女の醜態が蘇った。槐州知事の姉は連れてこず、連れてきたのは商家出身の若い侍女だった。彼女は、侍女だから、と前線まで半ば強引についてきたはいいものの、江都生まれゆえに魔獣を初めて目にすると泣きわめいて騒ぐばかりだった。その声で不必要に魔獣をおびき寄せたこともあった。それゆえ、
『おい。これ以上、泣きわめいたら、魔獣の前に放り出すからな。黙って後ろに下がるか。どちらか選べ』
宣告して、強引に後方へ送った。鎮台兵たちは皆、彼女を「厄介な荷物がいなくなった」「せいせいした」と見ていた。
――……だが、今の江都の者なら致し方ないか。
利奈子は留まった。最初こそ、女性兵の手を借りたが、今では身の回りのことは一人で機敏にこなしている。
鎮台兵たちの彼女を見る目も変わった。厄介なお客様から、戦友へ。
『私の故郷のために、皆さんが頑張っていらっしゃるのですから。このくらい大したことではありません』
片付けが大方終えたころに、利奈子が声をかけてきた。
「澤渡様は学園を卒業された後はどうされるおつもりですか。軍に入隊されるのですか」




