第36話 三つ首の大蛇
軍帽のつばから、雨が絶え間なく滴り落ちている。
将典が一歩踏み出すと、雨音に混ざって線路の砕石が音を立てた。
線路の先には大蛇。路盤から大きくはみ出しながら、とぐろを巻いている。その身体から彩気が陽炎のように揺らめいているのが見えた。
3つある大蛇の頭は、いつの間にか全て鎌首をもたげて、将典の方を向いていた。
外套に縫い込められた護符によって、魔獣が認識しにくいようになっているはず。それなのに、あと一歩近づけば、大蛇が襲い掛かってくる、と将典は直感的に悟った。
――あわよくば、この場で私が倒してしまうことも考えていたが……。
暫定評価であったから、脅威度が甲ではなく乙である可能性も考えには入れていた。けれど、目の前に立てば、全く違うことが痛いほど分かる。
――人知を超える特甲種とまでは行かずとも、甲種の中でも上位ではなかろうか。
冷汗が背中を伝う。
雨で煙る中、大蛇の3対の赤い目が妖しい光を放っていた。
手にした小銃を強く握り締めることで、将典は身体が震えそうになるのを必死に抑える。自分の身体と魂に、魔獣への本能的な恐怖が刻まれているのを悟らされる。
――私なんか取るに足らない存在だな。
初めて魔獣と相対した時、恐怖で身がすくんだ。そのことを将典は思い出さざるを得なかった。
身を挺して守ってくれた男の傷口からあふれた鮮血の温かさも。
『大丈夫ですか、若』
男の言葉と口ひげを生やした顔も。洲崎寛行だった。
――本当に、あの頃の私は、思い上がった身の程知らずのガキだった。
気づかぬうちに、口が弧を描いていた。
――けれど、今は違う。
ここから離れた場所に、砲撃しても線路への被害を最小限にできる広場がある。そこまで大蛇を導くのが、今回の役目。
小銃に弾を装填する。
小気味いい金属音が、震えそうな身体を、竦む魂を、鼓舞する。
――私の後ろには、私を信じて送り出してくれた兵士と守るべき民がいる。
『いけませぬ!』『危険すぎます、御曹司!』『若様が命を懸ける必要はありません!』
大蛇退治の作戦会議でのことだ。
将典が囮になることを提案した瞬間、会議の空気が凍りついた。滄州鎮台第一大隊の幹部たちは、一瞬、言葉を失い、何人かは血相を変えて制止の声を上げた。
ただ一人、洲崎だけは、微動だにせず、将典の目を見つめてきた。
『出来るのですか?』
『もちろんだ。別に死にに行くつもりは無い。諸君らの万全の支援を期待している』
『……万が一の時は』
『叔父上と話がついている。諸君らの心配は無用だ』
洲崎は右手を堅く握りしめると、口から絞り出すように言葉を紡いだ。
『……よろしくお願いいたします』
将典は軽く頷くと、身体を翻し、会議が開かれていた天幕の外に出た。後ろから、何かを叩きつけるような大きな音が聞こえた。
銃を構える。銃口の先に、赤い光が見えた。
――お前にとって、私は取るに足らない存在だろう。
――だが、それでも私が、私たちが倒す。
引き金を引く。
タン
銃声が一帯に響いた。
大蛇の目を狙った弾丸は、硬い瞼によって跳ね返された。
それでも、将典にとって問題は無かった。銃声が作戦開始を告げる合図だったから。
大蛇の目に殺意が灯った。とぐろをほどき、距離を一気に詰めてくる。
将典は腰から下げている刀に左手を当てると、自分の彩気が格段に扱いやすくなる。刀の目貫が彩気を操作しやすくする媒体になっているからだ。
扱いやすくなった彩気を足に集め、後ろへと飛ぶ。さらに彩気で風を操り、体勢を崩さない絶妙な具合で、身体を大きく押し飛ばす。
一瞬前にいた場所に大蛇の頭が大口を上げて突っ込んだ。線路に敷き詰められた砂利が跳ね飛ばされ、いくつかが将典の身体に当たった。軍帽のつばも半分溶けた。
――唾液は毒か? ちっ! 厄介な!
大蛇の2つ目の頭が噛みついてきた。将典は宙を飛びながら、ポケットに忍ばせていた球体を投げつける。粉末の唐辛子などが詰められており、投げつけられた大蛇の頭は怯むが、
――雨のせいか? 効果が小さい。
着地。
最初の予定では、ここから目的地まで一気に駆け抜けることになっていたのだが、
――大蛇に背を向けて視線を切ったら、その瞬間、喰われるな。
右手を刀の柄にかけ、鯉口を切る。
――まるで鬼ごっこのようだな。だが、命懸けの鬼ごっこだ。
幼い頃、真宙と遊んだ時のことが将典の脳裏に蘇った。服を泥だらけにして、母に呆れられたことも。
思わず、口端がつりあがった。
3つ目の頭が噛みついてきた。刀を抜きざま切りつける。
――くっ。硬い!
刀身に彩気をまとわせ強度と切れ味を格段に増しているものの、大蛇には傷ひとつ負わせることが出来ない。逆に刃こぼれしてしまった。
それでも、切りつけた反動に彩気を使った風を加えて後ろに飛ぶ。視界の隅に、物陰に潜んだ一人の鎮台兵の姿が映った。もしも、将典が目的地にたどり着く前に大蛇に倒されたら、彼が代わりに囮役を担う者だ。そういう者が数人、目的地までに待機している。
将典は線路の上で着地すると、再び彩気を操り、飛ぶ。
同時に、大蛇の1つ目の頭の目の前に彩気で炎球を作り出す。怯んだ。見た目だけの張りぼてだが、目くらましにはなる。
着地。また飛ぶ。
大蛇の頭が、線路の上を滑るように突っ込んできた。彩気で空中の身体を操って、大蛇の鼻頭を蹴る。その反動で大きく飛ぶ。
大蛇の彩気が揺らぐのが見えた。その頭上に、3本の氷柱が現れ、飛んでくる。
氷柱に彩気で作り出した小さな氷塊を当てて、軌道をずらすが、
――ちっ!
氷柱の一本が左腕をかすめた。氷柱の勢いで、身体の感覚が崩れる。
そこに大蛇の頭の1つが襲い掛かってきた。
刀を振るうが、刃こぼれしたところから折れてしまう。
そのまま、将典は大きく弾き飛ばされてしまった。
その瞬間、男の叫ぶ声が聞こえた。
「御曹司!」
地面に叩きつけられた衝撃で、意識が飛ぶのだが、
タン
響いた銃声で、意識を取り戻す。
3つある大蛇の頭のうち1つが向いている方向に視線をやれば、一人の鎮台兵が銃を構えていた。寛行の若い副官だった。そして、代わりの囮役の一人でもある。雨越しに、彼の手が銃を握ったまま小刻みに震えているのが将典に見えた。
――命知らずめ。私はまだ死んでいないぞ。
身体を起こすと、彩気をあるだけ全て使って、降りしきる雨に働きかける。
幾つもの大小様々な氷柱が出現する。すべて、大蛇に叩きこんだ。
轟音とともに、土と氷の煙が舞い上がる。
全身が痛みで悲鳴を上げるのを無視して、将典は立ち上がった。左腕には力が入らない。
――化け物め。
口の中だけで悪態をつくのは、大蛇の彩気が消えていないから。まだ生きている証拠。
煙が晴れると、大蛇はその姿を現した。何本かの小さな氷柱が大蛇の身体に突き立っているものの、その目からは戦意が無くなっていない。どころか、溢れんばかり。
鋭く威嚇する音とともに、将典に向けて圧倒的な殺意が襲いかかってくる。
それでも、将典の口角が上がる。
「おい、化け物! お前の相手は私だ!」
そう言い放つと、なけなしの彩気で、また一本、氷柱を作り出し、大蛇に叩きこむ。
氷柱が大蛇に簡単に避けられるのは構わず、振り絞った彩気を足に集め、飛ぶ。
副官は待機していた予備の囮役の最後。つまり、目的地の広場はすぐそこだった。
降り注がれる殺意を頼りに、大蛇の攻撃を紙一重で避けながら、将典は線路を前へ前へと進む。
明るく輝く灯がその目に飛び込んできた。広場の入口の目印として置かれていた物だ。
線路から外れる。
――さあ、ついてこい! 化け物!
信号弾が放たれる音が聞こえた。入口で潜んでいた者が放ったものだ。
そのまま、将典は線路建設の資材置き場として使われていた広場を駆け抜ける。この後の衝撃から身を守るため、広場の外れに設けられている掩蔽部を目指す。
彼の後を追うように、大蛇も広場に入ってくるが、その瞬間……。
着弾。
離れたところに構えられた野戦砲陣地から放たれた砲弾が大蛇を襲った。
――くそっ!
掩蔽部にあと一歩でたどりつけなかった将典は、彩気で足元の土を掘り起こす。人ひとりが辛うじて身を隠せる散兵壕もどきを作り、その中に身を投じた。歯を食いしばって着弾の衝撃をやり過ごす。
その間にも、わずかに残った最後の彩気で空の雨粒をかき集め、凍らせ、氷塊を作り上げる。
大蛇の彩気はまだ消えていない。
だから、大蛇を覆い隠す砲撃の土煙が消える前に、最後の最後の彩気を注ぎ込んで、将典は氷塊を空から落とした。
轟音とともに、再度、衝撃が来るが、途中で散兵壕の土壁が崩れてしまう。作り直す彩気は将典にはもう残っていない。身体は力なく吹き飛ばされた。
立ち木に打ち付けられた衝撃で、肺から空気が押し出される。意識が朦朧とする。
朦朧となりながらも、折れた刀を杖代わりにして立ち上がる。左腕には力が入らないから、右腕一本で。
雨はまだ降っている。軍帽はいつの間にか失われ、顔を雨水が伝い落ちていく。
風が吹いた。
海風の潮の香りがした後、むせかえるような血の匂いが将典の鼻を襲ってきた。
土煙が消える。
目の前に現れたのは巨大な氷塊。そして、氷塊に押しつぶされ、砲弾でズタズタにされた大蛇。その命の火は消えていた。
折れた刀が将典の手から滑り落ちた。拾う余力はない。それどころか、雨水のたまりに倒れ込むのを抑えるのがやっと。
――まだ、これで終わりではない。
将典は自分に言い聞かせて、何とか踏ん張る。
それでも、二つの信号弾が天へ上がるのを目にすると、後ろの木に身体にもたれかかってしまった。
二つの信号弾は大蛇討伐完了の合図。




