第30話 宴/忠誠
コン
屋敷の洋館から渡り廊下を通って和館へ入った将典の耳に、庭の鹿威しが響いた。
外へ視線をやると、縁側のガラスサッシ越しに、月が見えた。
日中、了成が来ていた時に降っていた雨は止んでいる。心はまだささくれ立っているものの、押し隠すことが出来る。何より、そんな荒れた感情をこれからは表に出すわけにはいかない。
屋敷を包んでいた喧騒も収まっていた。例外は、これから開かれる宴の支度の最終段階を迎えている厨房。
――料理長の怒号の中で、咲哉たちは奮闘しているだろう。
その様子が脳裏に浮かび、将典の唇がわずかに緩んだ。
廊下の角を曲がる。
康嗣が立っていた。将典の姿を認めると、軽く頭を下げた。
糾問会直前に自宅から通っていた使用人たちが屋敷で寝泊まりしていたのは、その奥にある障子の向こう側。
その時は、非日常を楽しむような賑わいも伝わってきたのだが、今は真逆。伝わってくるのは、衣擦れの音すら抑えた気配だけだ。
「ご苦労だった」
将典が小声で声をかけると、康嗣が深々と頭を下げた。
ねぎらったのは、今日の宴に関わる全ての段取りを彼が整えたからだ。遠征先から江都への移動、滞在、終わった後の滄州への帰路、と。
彼の仕事はここまで。ここから先は、澤渡家当主の出番。
魔獣討伐から帰還した兵をねぎらい、澤渡家と鎮台兵たちとの間にある忠誠関係を確かめる、大切な宴。かつては、他の貴族も、大政奉還前に統治していた州の鎮台兵たちと、旧宗主として、こうした宴を催していた。けれど、今も続いているのは澤渡家と滄州鎮台だけだ。
前回の宴の時は、将典は鎮台兵とともに部屋の中にいた。中に入ってきたのは当主であった亡き母。
今日は、彼が当主として臨む、初めての宴。
顎を引き、背筋に力を込めると、目線で康嗣に合図を送る。
頷いた康嗣が身体を返し、障子を開けた。
「御入来でございます」
部屋の中で一斉に立ち上がる気配がした。
入る。
何百もの視線が一斉に突き刺さる中、将典は歩みを進める。
最前列中央の座席へ。
振り向くと、襖を全て取り払い仕立てた大広間にはテーブルと椅子が並べられ、見知った顔が並んでいた。学園入学前、彼らとともに魔獣と戦った。
――得難い経験だった。
同じ釜の飯を食べ、同じテントで寝て、魔獣の血を共に浴びた。
滄州鎮台第一大隊、総勢511名が揃っていた。
「先立って、まずは祈りを捧げたい」
将典はそう言うと、視線を落とした。目に飛び込んでくるのは、テーブルに並べられた3つの物。
双眼鏡。はさみ。参考書。
遠征先で命を落とした兵士の遺品である。
広間が静寂に包まれる。
戦死者は3名。
今回の魔獣討伐に参加した他部隊と比べると、戦死者数は極端に少ない。
それでも、将典の心は張り裂けそうになる。
痛みに耐えながら、銚子を手に取ると、双眼鏡の脇に置かれた漆塗りの杯に注ぐ。
澤渡家の家紋が金蒔絵で描かれた杯は、後日、遺品とともに遺族の下へ送られる。遺族の下には、他にも州政府と澤渡家からそれぞれ弔慰金と、必要であれば働き先として叔父千里の商会に連なるところへ紹介される。軍や他州の遺族が受け取るものと比べると、破格の扱いがされている。
「金牧一等兵。君は野鳥観察が好きだったな」
普段は無口の線の細い青年の姿が脳裏に浮かぶ。野鳥を目にした時の少年のように無邪気な笑みを浮かべた顔も。
突進してきた巨猪の魔獣の牙にその身体を貫かれた。
「鳴き声を耳にしただけで、その鳥の名前を当てた時の得意げな顔。珍しい鳥を目にした時の喜んだ顔は、今でも思い出せるぞ」
はさみの脇に置かれた杯に注ぐ。
「瀧中軍曹。先の遠征の際には、オヤジに散髪してもらったな」
大柄な体躯に見合った太い指にもかかわらず、手先が器用な男だった。「オヤジ」と呼ばれ慕われていた。
彼は行軍中に、大鷲の魔獣に不意を突かれて、天高く連れ去られた。
「あの後、江都で理髪店を使った際、店主が君の腕前を褒めていた」
参考書の脇に置かれた杯に注ぐ。すすり泣く声がどこかから聞こえた。
注ぐ銚子がかすかに震える。
「椎橋少尉は皇国大学への進学を目指していたな」
軍務の合間を縫って勉学に励んでいた5歳年上だった若者の姿を思い出す。将典も、学園卒業後は設立されたばかりの皇国大学への進学を予定している。
「同じ机で学べることを期待していたのだが、……とても残念だ」
逃げ遅れた子供を助けるために、一人、巨狼の魔獣へ銃剣とともに立ち向かった。
彼らの死に様を詳らかに記した戦闘詳報を、将典は一人書斎にこもって読み込んだ。
唇をかみしめ、項垂れたい衝動は抑え、顔を上げる。
潤んだ瞳で視界が歪んだ。
「最後に彼らの冥福を祈りたい」
目をつぶると、瞼の裏に三人の姿が浮かんでくる。
『若殿!』『若!』『御曹司!』
――人はいつか必ず死ぬ。だが……。
母の永遠に閉じられた目と冷たい姿までもが、浮かび上がってきてしまう。
頬に熱い雫が流れ落ちる。
それでも、目を開けて、前を向く。
「さあ、湿った話はここまでだ」
袖で涙を拭く者もいた。目を赤くさせている者もいる。それでも、彼らは、皆、前を向いている。
511対の視線が注がれてくる。
「北辺の柊州での長期にわたる、しかも過酷な冬季の遠征、ご苦労だった」
511人の背中に一本の筋が一斉に通った。
北辺の辺境州である柊州では魔獣の被害が頻発していたため、軍を中核とした討伐部隊が結成された。滄州鎮台からも三個ある大隊の内、第一大隊が参加。当初の予定では冬に入るまでの3カ月の予定だったが、長期化し半年を超えた。
「諸君らの精強無比な戦いぶりは、皇国中に鳴り響いている」
嘘だ。長期化、被害も大きく、軍も政府も積極的に情報を広めていない。それ以前に、江都の民の関心がない。どの新聞も一面で大きく取り上げることはない。せいぜい二面か、下手すると三面の片隅に少しだけ。そんな取り上げ方の新聞が少なくない。
「澤渡家当主として、諸君らを大変誇りに思う」
これは真実。屋敷で働く使用人たちも率先して動いている。今も、兵たちの杯に乾杯のための酒を注いでいる。
「そのため、心ばかりの宴の場を用意させた。最後まで楽しんでほしい」
全体を見回し、全ての杯に酒が注がれたのを確認する。将典の杯にも。ただし、その中身は水。
年齢的に飲酒は許されているが、将典は飲まないことにしている。酒の匂いを漂わせたあの男の姿がちらつくから。
とりわけ、今は日中のことがあったから、その匂いが鼻を突いただけで眉をひそめたくなるが、抑え込む。
そして、
「諸君らの武勲を祝して、乾杯!」
「「「「「乾杯!」」」」」
一気に飲み干す。戦友たちの死も、あの男の幻影も、何もかも全て。
明日へ向くために全てを飲み干す。
広間に喧騒が広がる。座席に座って、目の前に並べられた料理に箸を伸ばした者、銚子へ手を伸ばして横にいる戦友の杯に注ぐ者、受ける者。
供される料理の多くは滄州に由来するもので郷愁を掻き立てる。一部は江都や海外のもので、特別感を演出する。
将典は片手に動く。功績を上げた者たちの杯に注いで回り、ねぎらう。
最後が、第一大隊隊長洲崎寛行。
宴はすでに終わりに近づいている。にもかかわらず、将典はまだ一口も食べていない。空腹を訴える腹を意識の外へ押しやると、最初に飲み干した杯を手に取り、
「長きにわたる討伐遠征の指揮、見事であった」
立派な口ひげをたくわえた寛行に差し出した。彼らに供されていた漆塗りの杯より、また一段と贅を尽くした金襴手の杯。澤渡家の家紋が大きく描かれている。
気がつけば、広間を覆っていた喧騒が消えていた。コン、とかすかに鹿威しの音が聞こえた。
再び、511対の視線が注がれてきている。
「杯を許す」
――時代遅れだとは思うのだが。
康嗣を通じて、希望を伝えられたから応えることにした。
「有難く頂戴いたします」
寛行が感激した面持ちで杯を受け取る。
彼の生家は代々澤渡家に仕えていたが、その関係は大政奉還とその後の改革で解消されている。だから、本来、彼が忠誠を捧げるべきなのは、国民としてなら皇国であり、鎮台兵としてなら滄州とその責任者である滄州知事である。
――私の権威付けを助けるための演技か。それとも本心か。
――……どちらであっても、
杯に酒を注ぐ。
「今後も励め」
「はっ」
寛行が杯を飲み干すと、
「「おめでとうございます」」
周りにいた将校たちが祝福の声を上げた。さらには兵士たちも手を叩いて祝う。
彼らの中には寛行同様代々澤渡家に仕える武士の家の出の者もいるが、平民の者もいれば、滄州の外から来た者もいる。そうした者たちも一緒になって祝う様子を見ると、将典は、母、祖父、先祖たちが積み重ねてきた歴史を感じるとともに、
――彼らの忠誠を裏切ってはならない。
心に刻み込む。




