第29話 血の呪い
――……は?
言葉を理解できず、将典は口を開けて固まってしまった。
――……「大恋愛」?
固まっている間にも、じわじわと言葉が胸の奥へと沈んでいく。
――母上と父が? 恋愛? 恋をした?
――間違いだろ!
――……政略結婚ではなかったのか?
ギリギリギリ、と無理やり体を動かして横を向く。カップは右手に持ったまま。
「礒橋。今のは本当か?」
将典の祖父の時代から澤渡家に仕える彼なら知っているはずだ。
――嘘だと言ってくれ!
カップを握る指に力が入り、紅茶の水面が波打つ。
康嗣はかすかに顔を伏せ、視線を外した。
「……本当でございます」
「ならば、私が知っている二人の冷え切っていた関係はなんだ?」
幼かった時、将典は二人が顔を合わせたところに出くわしたことがあった。
母は父を赤の他人を見るように冷たい視線を送っていた。それまで見たことがなかった。
父は妬み恨み憎しみとともに顔を歪めて母を見ていた。
幼いながらも、あの瞬間、二人が分かりあう時が来ることはないと知った。
「……先代様がご当主になられた時に、高松殿が嫉妬されたことが始まりでございました」
康嗣の言葉は歯切れが悪く、口も重いように感じられた。
「高松殿はご自分が当主になれないことに不満を持たれました」
「だが、父は最初から澤渡の継承権を持っていない」
「……あの当時は、今よりも女性の方が貴族の当主になることを忌避する空気が強かったのです」
将典が顔を戻すと、了成がバツの悪そうな顔をしていた。他家の秘事を暴いてしまったことに後ろめたさを抱いているのか、指で数珠をいじっていた。
そんな彼に視線だけで「本当か」と尋ねると、了成は首を縦に動かして、
「今でこそ、女子が家の当主にならはるんも、別段おかしゅうはおへんけど、あの頃は、そらもう、とりわけ男尊女卑の気風が強うおしたなぁ。その風潮がやわらいだんは、澤渡の先代伯爵様の働きのおかげでございます」
康嗣がポツリとつぶやく。
「そして、澤渡には人がいませんでした」
当時の澤渡家の血族は、将典の母と幼い将典の二人だけ。叔父千里は家から離れていた。
「叔父上は……まだ力が足りなかったのか」
千里の商会が皇国最大まで成長するのは、その後に続く話だ。
「先々代様が残されたご遺言と冨迫家の先代伯爵様の後ろ盾のおかげで、先代様はご当主になられましたのですが……」
――なぜ、父は母上を支えようとしなかった? 助けようとしなかった?
将典が一日でも早く母の手助けができるように、勉学、武芸に励んでいた時、彼は何をしていた?
――父が……違う! もう、あの男で十分だ!
母の葬儀の後、酒に酔った高松拓哉が女を侍らせて姿を現した記憶が蘇る。
『さあ! これからは俺が伯爵だ!』
あの時、彼が歓喜とともに口にした言葉。
「あの男が母上の足を散々引っ張ったのだな。その挙句、他所の女に走った」
「……おっしゃる通りでございます」
ティーカップを持った右手に力が入る。
――そんなに澤渡の家が欲しかったのか? 力が欲しかったのか?
――あの男が憎らしい。忌まわしい。
――ああ。本当に憎い!
――……そうか、あの男は人の心を持たない化け物だ。
壁に投げつけ、砕け散らせ、壁紙を紅茶の赤で染めあげたくなる衝動に、強い衝動に駆られる。
その右手を必死に抑え、なんとかテーブルの上に戻すが、紅茶がカップから零れてしまった。
紅茶の赤が別のものと重なって見える。血の赤と。
「そうだ。あの男の血は私の中にも流れているのだな」
――化け物の血が私の身体に流れている。
零れた紅茶を拭こうとした康嗣の顔がギョッとしたものになるが、気づかない。
「そんな私にまともな恋愛や結婚ができるわけがない」
右腕を左手で強く押さえつける。
「澤渡の跡継ぎは、叔父上の子供でいい。いや、名声があって男爵位も持っている今なら、叔父上でも継ぐことができる」
ふと、康嗣から向けられる目に気がついた。その目は痛々しいものを見るように見つめてきていた。
――憐れむな!
立ち上がって、言葉に出して、憤りを露わにしたくなるが、代わりに、
「そうだ! あの男の、人の心を持たないあの化け物の血なんか、この世界には残してはいけな……」
「澤渡様」
了成の言葉によって、遮られた。
ギロッとにらむが、逆に彼の目が返ってくる。その目には、先程の下世話な光はない。温かく包み込むような、でも全てを見通すような目。まるで、仏のように。
「澤渡様、ここはひとつ、ゆっくり深く息をつきまひょか。……さぁ」
了成の言葉と動きにうながされるように、けれど、抗うことはできず、将典も同じ動きをする。
息を吸う。その空気になぜか酒臭さを感じた。あの男の酒臭い息と同じ。嘲り笑う声も聞こえるような気がした。
怒りの溶岩が爆発しそうになった。ギュッと拳を握り締める。
だが、了成が息を吐く。その動きに合わせて、将典も息を吐く。怒りが少しだけ吐いた息と一緒に外に出ていく。
了成の動きに合わせて、また息を吸う。今度は酒臭さは感じなかった。笑い声も小さい。息を吐く。
そして、もう一回、深呼吸。吸って、吐く。
「……少しは、落ち着かはりましたやろか」
心の中で勢いよく吹き上がっていた怒りの溶岩が、グツグツと湧き上がる程度になっていた。
両目をつぶって、怒りが表に出てこないように、今一度蓋をする。
そして、目を開けると、了成へ向かって首を縦に動かした。
「お父上をお憎みになるも、まぁ無理おへんことでしょうな」
両手を合掌した了成が優しく、でも諭すように語りかけてくる。
「せやけど、どうかお忘れなきように。あんた様の半分は、お母上の血でできてはるんやということを」
ハッと将典の目が見開かれる。忘れてはいけなかったことを思い出したから。
『将典』
耳元で母の言葉が囁かれる。
「……そうだな」
「それに、澤渡様は決しておひとりやおへん。滄州にいはる叔父上、礒橋様を始めお屋敷で働きの方々、澤渡家を慕うておられる皆々様。今晩いらっしゃる鎮台の兵の方々も、そうですやろ。そして、この拙僧も、末の末にでも加えてもろたら、有り難いことでございます」
了成は合掌したままゆるゆると頭を深く下げた。
康嗣へ顔を向ければ、真摯なまなざしとともに、力強く頷き返してきた。
『最後まで将典様の供をする所存です』
糾問会前に康嗣が口にした誓いの言葉を思い出す。
叔父の千里、真宙、咲哉……。彼らの顔が次々に浮かんでくる。
『若殿!』『若!』『御曹司!』
今晩、久方ぶりに再会する鎮台兵たちの顔も浮かんでくる。
ポツリと将典の口から言葉がこぼれ出る。
「……そうか。……そうだな。私は一人ではないか」
康嗣と了成が大きく頷いた。




