第11話 裏切りか、それとも……
ソファから立ち上がった将典は、顔をしかめながら、香炉を手元に寄せた。そして、火が点いて煙と香りを発散させている香を灰の中に埋め込む。
――これでよし。
これ以上、香から煙が立つことはない。
次いで、応接室の窓を開ける。
冬の冷たい空気が将典の頬を突き刺してくるが、
――気持ちいい。
解放感すら感じられた。
彩気を出し、周囲の空気に干渉する。将典にとって、それは水を扱うのより苦手であっても。
風が舞い起こる。
カーテンがたなびく。内へ。そして、外へ。
応接室の中の空気が強制的に入れ替えられる。
空気に乗って外へ出た彩気は、陽にあたった細かい雪の粒のように、キラキラ光りながら霧散していく。
『母上! 気術を使うと、キラキラ光るものが見えるようになりました。それって、この書物にあった彩気の流れですよね!』
起動文無しで気術を発動できる階梯よりもさらに1つ上へ進んだことを意味する。
――もう3年も前のことか。
――母上に褒めていただける。そう思ったのだが。
将典を迎えたのは母の笑顔ではなく、憂いに満ちた顔だった。
『将典。彩気を見ることが出来るのは誰にも言ってはいけません。良いですね』
気術の使い手としていたずらに力を発揮する危険な立場に追い込まれないように、との母として息子への危惧。
気術を扱うのに、起動文は通常であれば必須。上に階梯に達している者であれば、起動文無しで気術を発動できるものの、その数は少ない。
――さらにその上、彩気を見ることが出来る高みの階梯にまで至っているのは世界でも数人。
このことを後から知って、驕る気持ちよりも母を心配させてしまった申し訳なさの方が勝った。
――今の時代、どんなに彩気を扱えても、貴族には無用の長物でしかない。
だから、起動文無しで気術を発動させたことに康嗣から感嘆の眼差しを送られても、将典は何も感じない。
むしろ、彩気を扱えなかったゆえに澤渡家から外された叔父、千里のことを思い出してしまう。彼が生まれた当時は、澤渡家の一人として育てられることすら認められなかった。彩気を扱え魔獣と戦えなければ武士にあらず、そんな気風が色濃く残っていたからだ。薄れた武士の価値観と一緒に今では廃れてしまった。爵位制度の導入に際して、彩気が扱える扱えないが不問になったことも、風化に拍車をかけた。
将典は己の心の中に穴があるのを感じていた。
彼が澤渡家18代目当主として認められている理由の1つが彩気が扱えることも、心の中の穴を大きく広げていく。今の世間から見れば、彩気が扱えるかどうかはどうでもいいことだから。むしろ、千里が澤渡家をどうして継がなかったのか、そんな声すらあるほどだ。
「礒橋。十河に対して、お前が抱いた印象を教えてくれ」
心の中の穴に仮初の蓋をするように、将典は開いた窓を閉じた。
風で乱れた髪を手櫛で直すことで、気持ちを切り替える。
窓際を離れるが、十河が座っていた上座に座るのは嫌悪感が浮かんだから、その横に座る。
将典の祖父がフロールヴァル王国の職人に作らせたソファは、今も将典を柔らかく受け止めてくれる。
クッキーを1枚手に取り、口に運ぶ。ざくざく食感が口の中で広がり、シナモンの香りが鼻から抜けた。
――ホッとする味だ。
将典の眉間のしわが緩められるのとは反対に、同じように風で乱れた髪を手櫛で直していた康嗣の眉は内に寄る。さらに、氷のように冷たい視線を一瞬だけ十河が去った扉へ向けて、
「得度したばかりの僧侶が、貴族である若様に向けて取る態度ではありません」
声にも深い苦々しさと怒りが乗る。
「世俗派の僧侶の傲慢さを象徴するような人物でしたな」
――確かに。
康嗣の手厳しい評価に、将典の顔には苦笑いが浮かぶ。
「世俗派」。贅沢に耽る僧侶たちを風刺する言葉だ。
宗教界の中では、糾問会の活動に注目が集まるようになったことで、その教えをより多くの人々に広めるための好機とされた。
けれど、より過激な言動を始める者も現れ始めた。
「彼らのような存在は異分子として無視すればいいものを、新聞が取り上げて、おだてまくったからな」
康嗣も首を縦に動かして同意を示す。
新聞に好意的に取り上げられ、世間の注目を集めるようになると、
「そして、彼らは勘違いを始めた。記者たちに贅沢な遊びを教えられたかもしれないな」
からかいが加わった将典の言葉に、康嗣も首を縦にまた動かす。
「次第に、より多くの注目を集めるように、華美な衣装を身にまとい始めた。衣装だけではない。食事も、扱う仏具も、住まう寺も」
「清貧を忘れ、贅沢になりましたな」
「謙虚も忘れ、傲慢になった」
言葉からからかいが消える。康嗣の顔に泣き笑いのような表情が浮かぶのが見えた。まるで、僧侶が清貧謙虚で人々から尊敬されていた空気が過去のものになりつつあるのを嘆くかのように。将典も表情を緩めようとして上手くいかなかった。一度、目を閉ざしてから、
「確かに、『世俗派』は下条とその弟子の十河に相応しい言葉だ」
自嘲の笑みを浮かべる代わりに、キュッと唇をかみしめ……。
――そんな彼らに唯々諾々と従っていた私に相応しい言葉は何だ?
自嘲の笑みを浮かべる代わりに、キュッと唇をかみしめ……。
「将典様!」
真宙がノックをすることなく部屋に飛び込んできた。
康嗣の片眉がつりあがる。
「十河様への先程の言動は何ですか! 大変、不信心で失礼な行為ですよ!」
将典の眉間にも深いしわが出来る。
――真宙め。なにバカなことを言っている?
出来たしわで痛いため、指でほぐす。
――どうして、真宙はこんなに下条たちの肩を持つ?
将典は何かに気がついた。手がかりは、真宙に言われた言葉。
『私は止めましたよ。絶対に玄悔和尚からお叱りを受けますが、庇いませんからね』
でも、答えが見つからない、そのもどかしさ。
その中で、新しい手がかりを得るために、
「真宙。十河に対して、どんな印象を持った?」
「僧侶として素晴らしい人物です」
「それ以外に何がある」「疑うことは何もない」と言わんばかりの真宙の顔。
その顔にあるのは盲信。
そして、目は虚ろ。
――っ!
眉間へやっていた手は握りしめられ、拳となる。
腕は下ろすが、拳を握りしめすぎて、指先の爪が手のひらに強く食い込んだ。
――私は愚か者だ!
――どうして下条に洗脳されているのが私一人と思い込んでいた?
康嗣に視線を送ると、彼も将典を見ていた。互いにわずかにうなずき、真宙の異常を共有する。
視線を真宙に戻す。
真宙の虚ろな目を見つめた。
将典の心を痛みが締め付けてくる。
「真宙。真宙の忠誠は誰に捧げられている?」
「もちろん、将典様です」
将典の耳には、その言葉がひどくからっぽなものに聞こえた。
「もしも私が下条を倒せと言ったら、真宙は従うか? それとも、逆に、もしも下条が私を倒せと言ったら、従うか?」
真宙から視線を外し、紅茶が入ったティーカップを手に取る。
そして、改めて、将典は真宙の虚ろな目を見つめた。心を痛みがキリキリと締め付けてくる。
「真宙。お前はどちらに従う?」
「もちろん、下条様に従い、将典をた……え?」
真宙の顔からみるみるうちに血の気が引いていく様を、将典の目はとらえていた。
「……あ。ちが」
真宙の手が顔を覆う。ティーカップを持った将典の手に力が入る。
「……え? ちがわな」
真宙の膝が崩れ落ちそうになる。将典の唇に歯が食い込む。
それでも、これは必要な過程、と自分に言い聞かせる。真宙が下条に洗脳されて操られているのか、それとも、心から忠誠を下条に捧げているのか、見極めるための。……心が切り裂かれそうだった。
「……ああああああっ!」
真宙の絶叫が部屋の中で響き渡る中、彩気を使う。彩気によって操られた紅茶が2つの塊となって飛んだ。
1つは真宙の口を塞ぐ。混乱した真宙が舌をかみ切らないように。
もう1つは真宙の腕を拘束する。混乱した真宙が身体を傷つけないように。
彩気の輝きは、将典の心を表すように、乱れていた。
「礒橋。真宙を隔離しろ。洗脳されている」
「……洗脳? まさか?」
「真宙は中途半端な状態だ。簡単に言えば、洗脳されている自分と洗脳を認めない自分が、真宙の中で拮抗して争っている。今が最も危険だ。くれぐれも自傷行為に及ばないように注意しろ」
「かしこまりました。細心の注意を払うように指示します」
康嗣が他の使用人を呼んだ。間を置くことなく、応接室に入ってきた使用人たちが真宙を外に連れ出していく。
――常に一緒に行動していた真宙も巻き添えになっていることを、私はなぜ考えなかった?
――本当に愚か者だ!
――私は本当の本当に愚か者だ!
応接室の扉が閉ざされた。




