第10話 招かれざる客
応接室の扉を開けた途端、むせかえるような香りが鼻をついた。将典は思わず息を止めて、眉間にしわを寄せてしまう。
――真宙か? こんなに香を焚いたのは。
僧侶を迎える際には香を焚く習慣はあるものの、部屋全体が煙るほど焚くのは、明らかにやりすぎだった。
窓を開けて部屋の空気を入れ替えたくなる衝動にも駆られるが、我慢する。
――そう言えば……。
この香が、将典に「愚者」の知識から下条の洗脳の仕組みを思い起こさせた。
第一段階として、香に薬品を混ぜる。香を焚く際に、薬品は揮発して、空間に充満する。次に、彩気を放出して薬品と反応させ、法話に織り込んだ起動文によって、洗脳術が発動する。
――だとすると、今焚いている香にも下条が洗脳に使う薬が混ぜられている、かもしれないのか?
――そんなことはない。屋敷にある香を使っているなら、そんな薬が混ぜられることはない。
むしろ、今よりも過去の記憶をこの香は強く思い起こさせた。
――先日真宙と一緒に祥雲院へ赴いた際に言われるがまま寄進の約束をしてしまったのは、これのせいか。
右拳をギュッと握りしめる。
さらに、十河が上座に座っていることも、将典の感情を逆なでする。
客人であっても、ここは貴族の屋敷。応接室の上座は当主が座るのが通例。
――真宙め。なぜ、上座に案内した?
しかも、十河は立ち上がることなく、自分が屋敷の主であるかのように、ふんぞり返ってソファに座り続けている。
袈裟は当然のように豪奢。その下に着ている法衣も、色こそ僧階の規定に沿っているが、豪華な刺繍が施されている。指には宝石付きの指輪をいくつもはめている。
将典の脳裏に「虎の威を借る狐」の言葉が浮かんできた。十河の全てが、下条の真似にしか見えなかった。
感情が爆発しそうになるのを、必死に抑えこむ。澤渡家当主としての矜持だった。
将典は最初から露わになっている眉間のしわ以外、感情を表に出さないように努めながら、下座に腰を下ろす。後ろには康嗣が立った。
「お待たせした。何の用件でしょうか」
世間話をすることなく、早々と用件に入った。無作法であることは百も承知。
――さっさと話しを済ませて、こいつを屋敷から追い出す!
将典の前に紅茶と茶菓子を供した真宙は応接室の入口脇に立って控えている。
茶菓子は将典の祖母が故国フロールヴァル王国から持ってきたレシピで焼いたクッキー。素朴だが、ざくざくとした食感と食べた時のシナモンの香りが癖になる澤渡家伝統の菓子だ。
なのだが、十河はどちらにも手を付けていない。
――澤渡の菓子に不満か?
そんな不快感も将典の表情を崩しにかかってくる。
「いやいや、先日お願いした当院への寄進についてですよ」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる彼の顔も将典の無表情を突き崩しにくる。
「その件でしたら、後見人である叔父と相談したうえで回答する。そう後ろに控える家令の礒橋から返書を送ったはずですが」
「ええ。ちゃんと伺いましたよ」
ゆったりと上から目線で頷くその態度が、
――私を子供扱いしているつもりか。
こぶしを握り締めることで我慢する。
「あれからまだ4日。滄州にいる叔父とは手紙でやり取りするしかないため、流石にまだ返事が届いておりません。それにわずか1回のやりとりで結論が出るとも限りませぬゆえ」
「いやいや、将典君は名門澤渡家の御当主。叔父上に伺いを立てなくても、このくらい自分で判断されなくてはなりません」
――「君」?! 私は10にも満たない小さな子供ではない!
握りしめたこぶしの中で立った爪の痛みが、辛うじて、怒りの暴発を堪えさせた。
「……澤渡家の当主ゆえ、己の分はわきまえないといけませぬ」
――そちらが私を子供扱いするなら、私も子供に徹してみよう。
十河から視線を外し、努めて、自信なさげな様子をつくろう。
「私は年若ゆえ、誤った判断をするとも限りません。しっかりと大人たちに支えていただかないと」
「『誤った』? 寺への寄進を『誤ったもの』と言われるか? それは御仏への冒涜ですよ!」
居丈高に言い放つ十河に、冷たい視線を送ってしまう。
――おだてるのがダメと見たら、今度は威圧か?
――他の貴族に対してそんな態度を取ったら「無礼者」として屋敷から叩き出されるぞ。
間を取るために、紅茶が入ったティーカップを手に取った。紅茶に水鏡として映し出された自分の顔には、その眉間に深いしわが刻み込まれていた。
――結局は、それでも強く出られない澤渡の立場の弱さに、こいつは付け込んできているわけか。
心の中だけで自嘲の笑みを浮かべる。
カップをテーブルに戻すと、シュガーポットから紅茶に砂糖を加えた。
「お待ちなさい! 砂糖は堕落です。砂糖への執着が心を鈍らせ、飽くなき欲望を煽るのです!」
――下条と同じことを言うのだな。弟子だから当然か。
――けれど、もう、その話は聞き飽きた。
十河の言葉は無視する。彩気を紅茶に浸透させて、スプーンを使わずに紅茶を撹拌する。「私は彩気を扱う貴族なのだぞ」と誇示するように。
もっとも、十河に届いたようには見えなかった。将典の彩気による撹拌を目にして、顔を引きつらせはしたものの、一瞬だけ。
次には、にちゃあとした笑みを浮かべたが、それも一瞬だけ。
真剣な表情を作ると、彼も彩気を使った。もっとも、使った、と言うよりは漏れ出た程度。気術を行使しているとはほとんど言えない。そもそも、彩気を扱えても未熟であれば、力んだ時でも身体から溢れ出てしまう。実際、彼の彩気は下条のと比べてはるかに薄く劣る。
だから、紅茶の中の一点に集中させた将典の彩気とは違い、十河の彩気は部屋の中に広がる。いびつに歪んだ流れで。
――汚い彩気だ。
――まあ、これでも世が世なら武士の家に養子として迎え入れられただろうが、期待はされなかっただろうな。
将典が冷たい視線を送る中、十河は数珠を持った両手を合掌させ、朗々と言葉を紡ぎ始めた。
「御仏は常にご覧になられています。私たちは隣人に慈悲の心を持って接しなければなりません」
――下条のいつもの法話を聞かせるつもりか。
将典の目には呆れの色が乗るが、身体は反射的に強張ってしまう。
「もしも、隣人が困っていたら、慈悲の手を差し伸べましょう。そのために、清貧に努め、いつでも困っている隣人を助ける準備を整えねばなりません。贅沢は戒めましょう。とりわけ、贅沢の象徴たる砂糖への執着は堕落の始まりです。五戒の1つ、不飲酒戒と同じように、砂糖への過度の執着が私たちの心を鈍らせ、飽くなき欲望を煽り、御仏への祈りを妨げます。砂糖を口にすることは、御仏への祈りを軽んじることと何が違うでしょうか?」
――所詮は猿真似だな。
心の中で十河を嗤う。曲がりなりにも高僧と敬われている下条と比べると、十河の声はどうにも軽く、言葉にも全く重みが感じられない。まるで字面をなぞっただけ。
表に出さないのは、流石に無作法すぎるから。
代わりに、十河に見せつけるように、ティーカップを口元に運び、砂糖を加えた紅茶を一口飲む。
紅茶の苦みを砂糖の甘みが上手く覆い隠し、心地良い渋みと飲んだ後の爽やかさが口の中で広がる。
――うん。美味い。
紅茶の水鏡に移る眉間のしわも、こころなし緩んだように見えた。
そして、視線を水鏡に落としたまま、
「『御仏への祈りを軽んじる』のは、あなたもそうなのでは? ほら、あなたが指にはめている指輪。立派な宝石がついている」
視線を上げて、人差し指で指さす。十河の様子は気に掛けない。
「贅沢への執着を止められたらどうです? その指輪も質に入れて、得られた金銭で貧しい人に慈悲の手を差し伸べられたら、御仏も喜ばれるのではないですか」
「な、な、な、なんということを!」
十河の顔が真っ赤になる。さらには指輪をはめた手を法衣の中に隠してしまう。
「こ、これは! 御仏に捧げる儀式で使う大切なもの!」
悪戯をとがめられた子供のような態度を取る十河に、将典は心の中でだけチクリ。
――そんな話、聞いたことがない。
表に出すのは、
「まあ、このことは横に置いておきましょう。寄進に関しては、後見人である叔父からの返答が届いてから改めて回答いたします」
――だから、さっさと帰れ。
けれど、十河は気色ばんだ表情になって食い下がってくる。
「あくまで、寄進は出来ないとおっしゃるか」
「出来ないとは言っておりませぬ。改めて返答する、と言っているのです」
「寄進の拒否は御仏への冒涜、下条様への侮辱になりますぞ」
「ですから、後見人である叔父からの返答が届いてから改めて回答いたします」
この時、何かに気がついたような表情を浮かべると、十河は将典から視線を外して、康嗣と真宙に視線をやった。そして、改めて将典に視線を送ってくる。
――?
十河の視線の動きの意図が将典には理解できなかったが、それでも十河が向けてくる視線から逃げない。
「……ちっ!」
流石に、目の前での舌打ちの非礼は見逃せない。将典の眉が吊り上がる。
けれど、とがめる前に、十河は立ち上がり、
「後悔するぞ!」
言い捨てて、応接室から出ていった。真宙が見送るために後を追いかけていく。
彼らの後姿を見て、将典は思わず零してしまった。
「非礼、ここに極まれり、だな」
十河の背中が見えなくなると、張り詰めていた糸が切れ、深く息を吐いてしまう。
それでも、応接室の開け放たれた扉を康嗣が閉める様子を見ながら、
――これで終わりになるわけがない。
――理想を言えば、下条に気取られることなく、ゆっくりと距離を取ることなのだが……。
――そんな都合よくすすむわけがない。
「愚者」と相まみえた時に見た下条の悪意に満ちた表情が脳裏に浮かんでくる。
まるで、誰かを嘲笑う笑い声を高らかにあげているような気がした。
もちろん、彼が嘲笑っているのは将典。




