第12話 「敵だ」
「……さま! 若っ!」
康嗣から呼びかけられていることに、将典はようやく気づいた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ」
持ったままだった空のティーカップを机に戻そうとするが、指がカップの取っ手から外れない。
反対の左手を使って、なんとか外す。カップとソーサーが当たって、カタカタと大きな音が鳴る。
外しながら、康嗣に問いかける。彼の表情を確かめる余裕はなかった。
「礒橋。真宙を洗脳した相手は誰だと考える?」
「……下条玄悔でしょうか。先程の十河宗高ならば、私も洗脳されておかしくないです」
「私も同意見だ」
「ですが、宗教界では洗脳は禁忌のはず。なぜ、下条玄悔がそのようなものに手を出したのか、分かりません」
うつむいたまま、自由になった指で眉間のしわをグリグリと伸ばす。伸ばしながら、将典は康嗣の疑問の答えを探していく。
「洗脳が禁忌、か。……そもそも洗脳が禁忌とされている理由はなんだ?」
「……『全円和尚』でしたな」
康嗣が答えた人物は宏徳寺の先々代貫主である。
「一般的には『宗教界の中興の祖』と呼ばれ、名僧と讃えられているな」
分かれていたいくつもの宗派を統合し、大政奉還前後の混乱期を潜り抜けた。それどころか、奉還を主導した将家と対等に渡り合い、宗教界の自治を担う「教義院」を設立させた大立者。下条が属する糾問会は教義院の下部組織である。
これが今の世間で広く知られている「全円和尚」の姿。けれど、彼の一面を表したにすぎない。
「もっとも、今の宗教界の中では、全円和尚はほとんどいなかったことにされている」
「……確かに」
「彼らにとって、本当は全円和尚の存在そのものを抹消したい。それほど疎まれている理由が、和尚の死後、多くの高僧が和尚によって洗脳されていたことが分かったからだ」
「されていたからこそ、宗派の統合に成功し、団結して、将家と渡り合い、『教義院』を設立できたわけですが」
「いなければ、政府の統制下に置かれ、がんじがらめに縛られていただろう」
将典の祖父が遺した日記には、宗教を国家の統制下に置くことが大政奉還後の改革の目的の1つだったと記されていた。檀家制度からの民の負担軽減と、宗教に治安維持の一翼を担わせるためだ。
「だが、功績を度外視させるほど、残された僧侶にとって、洗脳されていたことが屈辱だったに違いない」
――かつてはいまいち理解できなかったが、下条に洗脳された今なら理解できる。
唇をキュッと噛み締める。
全円の存在を抹消できない理由は、彼の人生を記した話が民衆の間で大人気になったから。書物に始まり、歌舞伎、浄瑠璃、落語、あらゆる演芸に取り上げられ、いずれも大勢の客が詰め掛けた。
「ですが、全円和尚は僧侶以外には洗脳は行わなかったとされております」
「そうだな。将家の方々を洗脳すれば、それこそ国を乗っ取ることさえできただろう」
「それをしなかった理由は何でしょう。それだけは明らかにされておりませぬ」
「結局、和尚本人にしか分からないことなのだろう。だが、私が考えるに、僧侶としての矜持ではないか」
「……矜持ですか?」
康嗣の顔にいぶかしげなものが浮かぶ。
「修行の一環で、魔獣との戦いで傷を負った兵士の癒す活動をしていた。そこが全円和尚の原点だからな」
手を伸ばし、クッキーを一枚口の中に運ぶ。食べ慣れた味とシナモンの香りが将典の心に落ち着きをもたらす。
「そこが下条と全円和尚との大きな違いだ」
もう一枚クッキーを食べようとして、手が止まる。
その迷いは、将典がこれから話そうとすることを実際に話すかどうかの迷いと重なる。
「……これから話すことは、私もつい最近偶然知ったことだ。おそらく、江都でも知る者はほとんどいない」
それは「愚者」から得たもの。ゲーム「パルヴニール」の知識だ。自嘲する笑みが将典の顔に浮かぶ。
「いち早く、この知識をもとに、決断を下しておけばよかったのだ。後回しにした報いだな」
――けれど、後回しにしなかったとしても、たった一人の私に打てる手はほとんどない。それでも……。
落ちていた視線を上げ、康嗣の顔を見る。彼の目はいつもと同じ見定めるように将典を見つめて来ている。
「下条は家名断絶となった公森家本家の出だ」
驚きが康嗣の顔に浮かぶ。
「ただし、母親の身分が低い、庶子。幼い頃から周囲に迫害され、下条の母親も死に追いやられたそうだ」
康嗣の顔は痛ましげな表情になるが、すぐに何かを察したかのような表情に変わり、
「……ということは」
「そうだ。その憎しみから実家を破滅させた。下条が糾問会で頭角を現したのは、公森家の一件の後だが、すでに会に名を連ねていた。陰から糾問会による告発を主導していたのだ」
「……なんと」
「だが、今でもまだ下条の中の憎しみは尽きていない」
「ですが……」
康嗣が紡ごうとした言葉を制する。
「礒橋は『下条と敵対するのは危険だ』と言いたいか?」
康嗣の顔がゆっくりと縦に動く。そんな彼の目の奥に潜む意図を、将典は読み解く。
「正面から敵対すると澤渡の家も無傷では済まないから控えた方がいい。下条の洗脳を見て見ぬふりをする、その選択肢もある。そう言いたいか?」
再び、康嗣の顔が縦に動くが、
――だが、それは下条に洗脳されたのが真宙だけであることが前提。
将典は康嗣を見つめ返す。
「礒橋。下条を過小評価するな。洗脳で貴族の家の中に間者を作ろうとしているわけではない。その程度で禁忌に手を出さない」
康嗣の目に動揺が浮かぶのが見えた。
「ならば、下条の目的は?」
この答えも「愚者」は持っていた。けれど、そのまま言葉にして出すのはためらう。
今でも、このことへの真偽の判断を下せないでいる。
「嘘」と否定したかったが、「愚者」と出会った空間で目にした下条の悪意に満ちた顔が「真実」と肯定してくる。
だから、断定は避けて、ぼかして答える。
「最悪、皇国の打倒」
「……まさか」
それでも、康嗣の動揺がはっきりと表に出てきた。
将典は自分の失敗も告白する。
「下条に洗脳されていたのは真宙だけではない。私もだ」
――本当に自分が情けない。
――礒橋は私を愚か者となじるか?
「今は解放されたが、まだ影響は残っているかもしれない」
康嗣から視線を外すと、応接室の壁に飾られている澤渡伯爵家の紋章が将典の目に飛び込んできた。
指摘されるまでもなく、下条と敵対したら勝ち目が薄いのは分かっている。向こうは、江都最大の寺院、宏徳寺の次期貫主も視野に入れている高僧。対して、将典は年若く爵位を持たない上に、声望も失墜した没落家の当主でしかない。
――それでも……それでも、私は……。
「愚者」の軽薄な声が将典の脳裏に響く。
『悪役令息、なんて言えば聞こえはいいけどさ。「パルヴニール」の中では結局は序盤にやられるザコだもんな』
――逃げるな。
下条が悪意に満ちた顔でにらみつけてくるから、怯まず、にらみ返す。
『同じ、敵キャラなら格上でラスボスクラスの下条玄悔が良かったぜ』
――抗え!
記憶にある下条の柔和な印象を踏み砕く。
――私は澤渡家18代目当主。
将典は、康嗣の目を再び見据える。
――ここで逃げれば、「良き貴族」になるのはもちろん、見出した天命の実現も、夢のまた夢。
――「愚者」の言葉の通り、「序盤にやられるザコ」に堕ちる。
――そんな宿命は認めない。
――これでも私は武士の末裔。敵を前にして逃げるは恥。
――そう……。
「下条は敵だ」




