第9話 幻覚? ドッキリ? いいえ、正式な契約です!
「……はあっ?!」
大声をあげて立ち上がり、数秒後に背筋から血がさーっと引いていく。ここは職場だ。とんでもない醜態をさらしてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
隣の席の草薙が、遠慮がちに聞いてくる。桃香は言い訳を頭の中で組み立てながら、片手を振る。
「ねずみがいた気がして、思わず叫んじゃったの。それだけ!」
改めて足元を見る。まだ兎がいた。今度は桃香のロングスカートの裾を、くいくいと引っ張っている。
「え? 本当にいます? やだなあ」
草薙も桃香の足元を見ている。が、兎に全く反応しない。
「ちょっと来てほしいんだよ。そこそこ緊急事態がおきてるんだ」
さらに人語を話しているが、草薙は何も驚きはしない。
「今度、ビルの管理会社の人にお話しした方がいいですかね?」
(まさか、見えていないの?)
草薙に限らず、その辺をたまたま通っていた数名の社員も何も言ってこない。
桃香にだけ見える幻覚――いよいよ、本気で病院にかかったほうがいいのかもしれない。
「そうだね。ネズミ捕りでも準備してもらったほうがいいかも」
草薙に適当に返事をし、廊下へ向かった。
兎もその後を、トコトコとついてくる。
「ねえ君。名前はまだ知らないけどさ、そこそこ緊急事態が起きてるって言ったよね。僕が見えるでしょ? 話が聞こえてるよね?」
ビルの最上階、テナント募集中のためからっぽになっているそのスペースまで来てようやく、桃香は兎と向き合った。
「あなた、何? 私がつくった幻?」
「そうか、勘違いしてたんだね。僕はルーンだよ。訳あって数日前に君を魔法少女にしたんだ。これからよろしくね」
「……え?」
次にリアクションすべきことがわからない。理解力が麻酔にかかったように鈍くなってしまった。
兎は人語を話す。名前はルーン。どうやら桃香以外には見えていない可能性がある。
そしてルーンが桃香を魔法少女にした、と――
「これってドッキリ? 一般人の私をドッキリにはめて何が楽しいの? 誰が得するの?」
「今までの子と比べて飲み込みが悪いね。だからさ、僕が君を魔法少女にしたんだ。そして君には、すぐ近くにある〈悪の元素〉を浄化してほしいんだ」
「いや、ちょっと待っ……」
言いかけて桃香は、愕然と目を見開いた。
窓の向こう、さわやかな空が広がっているはずなのに、一部が赤紫色になっている。変色したのは空ではなく、近場の空気だ。
澱んだ、そのままにしておいてはいけない何かがあるのは肌で感じられる。だが。
「私が魔法少女? よく見なさいよ。誕生日がきてもう二十七歳だし、明らかに少女じゃない。アサラーなんだから。何で私が魔法少女なわけ?」
「何でと言われても、君に適性があるからだよ。僕の見立ては間違ってない」
「え、どういうこと?」
ただ頭を抱えるしかない桃香に、ルーンはじれったそうにため息をついた。
と、兎のすぐ横に何かが急に現れる。
「私の鞄?」
「君の力を引き出す媒体を決めなきゃ。いわゆる変身アイテムだね」
ルーンは一旦目を閉じ、再び前を見据える。
鞄は消えていた。そのかわり兎の目の前に、大ぶりのイヤリングが現れる。
「変身アイテム? 本気で言ってるの?」
桃香があっけにとられている間に、イヤリングは金色の光を帯びて輝く。
「ちょっと、壊すのだけは絶対に止めて!」
「そんなことはしないよ」
光は収まり、イヤリングはすうっと桃香の元まで来た。
「うわっ!」
「それをつけて、変身するんだ」
ルーンの目は真剣だった。そして信じがたい話を聞いているうちに、窓の外の気配もどんどん不穏になってきている。赤紫から、どす黒い黒煙のようなものに変異しているのだ。
(あれを私が退治する? 他の人じゃだめなの?)
「今更で申し訳ないけども、君の名前は?」
「も、桃香」
気圧されるままに答えてしまった。それが、運命の始まりだった。
「じゃあ桃香、改めて――ふさわしき者、ここに有り。指名班が名を賭して指名する。この者は、戦いに身を置くのにふさわしいと認める。ここに契約は正式に成った。指名班ルーンは桃香を魔法少女と認め、共に〈悪の元素〉とそれがもたらす災いに立ち向かう!」
どこからともなく、風が巻き起こる。イヤリングがちりん、と涼し気に鳴った。鈴などついていないのに。
「それを耳につけて変身するんだ。早く!」
言われるままに桃香は、イヤリングをつけた。
その後は、身体が勝手に動いた。揺れるイヤリングを、指先で同時にはじく。すると――。
一瞬の出来事だった。ガラスに映る桃香の姿は、青色を基調とした魔法少女らしい格好をしていた。
「……何これ、本当に変身したの?」




