第8話 なぞの兎
オレンジ色のジャケットを着た、犬のような何かだ。身体を地面に伏せている。怪我でもしたのだろうか。
疲労感が勝っているが、何とかこらえてそちらへと向かう。もし飼い主が探しているのなら、届け出る方がいいだろう。
「どこのおうちの子? だいじょう……ぶ?」
犬かと思われたそれは、転がって仰向けになった。
街灯に照らされたその正体は、兎だった。目を閉じ、心地よさげにむにゃむにゃと口を動かしている。
鼻がかすかな匂いをとらえた直後、桃香は目を見開いた。
「くさっ……って、ビールの空き缶? まさか飲んじゃったの?!」
兎から一メートル程離れたところに、踏みつぶされたビール缶がある。しゃがみ込み、腹を揺さぶってみるが反応はない。完全に酩酊し、幸福感に溺れた顔をしている。
(動物病院に連れてった方がいい? いや、こんな時間だし飼い主を捜す方が先か)
「ジャケットを着てるってことは、犬や猫みたいに首輪もついてるかな。そこに連絡先が書いてあるかも」
そう思い、兎の顔周辺を確認しようとした。と。
ぱちり、と兎が目を開けた。
兎の両の瞳は――なぜか、夏空のような力強い青色だった。
桃香は覗きこんだ体勢のまま、固まった。
(青い目の兎なんているの? 突然変異?)
仰向けだった兎は、背中で跳ね上がって両足で着地する。そして桃香の顔を下からじっと覗き込んできた。
まるで人間のような動作だ、と桃香は思った。人間と同じで、言葉で思考することを知っているような……。
「やっぱり君が良さそうだね」
聞こえてきたのは、落ち着き払った少年の声。辺りを見回してみたが、人っ子一人いない。
まさか、と兎を再び見る。
下から風でも吹いているかのように、ふわふわとジャケットの裾が揺れている。
「ふさわしき者、ここに有り。指名班が名を賭して指名する。この者は、戦いに身を置くのにふさわしいと認める――」
「え、ええ? 何?」
誰かが答えをくれることもなく、兎の前に現れた光が、桃香の胸の辺りに吸い込まれた。
「わあっ!」
熱さと圧迫感に鼓動が早まるが、違和感はすぐ溶けるように消えた。
何度も胸を触って確認するが、何もない。
そして兎も、いつの間にかいなくなっている。
「……え?」
「何してんだよ、姉貴」
突然背後から弟の呆れた声がして、桃香は跳び上がった。
「いきなり後ろに立たないでよ!」
「そっちこそ、家に入らないで何をブツブツ言ってたんだ?」
「いや、えっと」
もう一度、桃香は兎がいたところを振り返った。
「ねえ桜輝、もし私が喋る兎とここで会ったの、って言ったらどうする?」
「そうだなあ。ごはん食べてさっさと寝ようぜ、ってアドバイスする」
「……私、今日すっごく疲れているみたい」
額に手を当てた姉の肩を、弟は励ますように叩いた。
「クラムチャウダーがわりと美味しく出来たし、いくらでもおかわりしていいぞ」
「うん、ありがと」
窮屈なヒールを脱ぐと、さらに疲れが波涛のようにいくつも襲ってきた。
気力で着替えてメイクを落とし、クラムチャウダーに舌鼓をうつ頃には、不思議な兎の存在などすっかり頭から消えてしまっていた。
翌日から三日は、特に不審なことは起きなかった。兎の迷子の貼り紙も見かけなかったし、地元の保健所のホームページも念のため見てみたが、特に情報はなかった。
酔っ払った、人語を話す兎――疲労の果てに見た幻だとしたら、生活習慣を見直した方がいいのかもしれない。三十歳目前になって、自覚のないうちに体を悪くしているのだろうか。
兎を見かけてから四日目。桃香はほんの少し、機嫌よく職場へと向かう。
前日夜、ハンドメイド作家に注文したイヤリングが届いたのだ。『ルナティック・シリウス』のメイン登場人物二人をモチーフにしたデザインで、手元に届いた実物を見た時には、可愛すぎて脳が焼き切れるほどに悶えた。
片方は青い薔薇を、もう片方にはサファイアと下弦の月をあしらい、それらが透明な球に閉じ込められているデザインだ。どの角度から見ても、照明に透かしても可愛い。仕事中には到底つけられないほどに大ぶりなのだが、嬉しさのあまり鞄に入れて持ってきてしまった。
今度また、同じ作家から何か買おうか……と思いつつパソコンに向きあっていた桃香は、ふと顔をあげる。
窓の外、カラスが数羽飛んでいる。鳴くわけでもなく、無言で滑空しているのだ。
そういえばここ数日、職場の周辺でやたらとカラスが増えている気がするが、誰も何も言わない。桃香が意識していなかっただけで、以前からこうだったのだろうか。
「最近、カラスが多いわね」
それは独り言だったのだろうが、桃香はどきりとした。心を読まれたような感覚になる。
後ろを振り向くと、瀬河が来客対応兼打ち合わせ用のデスクで窓の外を見ていた。向かいに座る小野松が目をぱちぱちさせる。
「そうですか?」
「気のせいかな。この辺に最近、ゴミが増えているのかもね」
「ああ、観光客がすごく増えましたもんね。俺が高校生の頃とは大違いですよ、この辺の賑わいとか」
ビルがある大通りは、この県の交通のかなめである駅から伸ばされた形で作られている。交通事情の変化もあいまって、他県や外国からの観光客は格段に増加した。しかし桃香の主観では、人は増えたがマナーが悪い人が増えている、とまでは思えない。
二人は再び打ち合わせに戻った。桃香の視線は、なぜか瀬河に移ってしまう。
フレームの厚い黒縁眼鏡。一見スッピンのように思えるが、ちゃんと毎日薄化粧をしている。崩れたのを一度も見たことがない、ピンでまとめられたお団子髪。
彼女が異質なのは、オフィスカジュアルが許されているこの会社で必ず黒か紺のパンツスーツ姿を貫き通している点だ。桃香の把握している限り、会社内で友達を作るタイプではないが、仕事が出来て営業先でも印象が良いため、皆が一目置かざるを得ない人物となっている。
というか、彼女一人で会社の三割の仕事を結果的に回してるんじゃないかと思うくらいには、瀬河はあらゆることを任されていた。桃香はそんな彼女を恐れると同時に、尊敬もしていた。一度もそんなことを口にしたことはないが。
(いけない。仕事しないと)
パソコンに向かい、資料を参照しながら入力しようとした時だ。
コンコン、と音がする。カラスがくちばしでガラスを叩いているのだ。
どうしてそんなことをするのかと思いつつ、ふと足元に目を落とすと。
例のオレンジジャケットの兎が桃香を見上げ、「やあ」と言いながら片腕を上げている姿がそこにはあった。




