第44話 顎クイと、もうひとつ
ルーンは深くうなずき、桃香の背中側にいる桜輝へと駆けていった。
桃香は田んぼに足をとられないようにしながら、再びエイビスへと近づき、彼の傍らに膝をついた。
エイビスは呆れたように笑みを浮かべる。桃香は確信した。
どうしてかはわからないが、彼にこちらを攻撃しようとする意思はなくなっているのだ。
「なぜ私を浄化しない? 不可解な魔法少女だ」
「……そうだね。理由はわからないけど、私はあなたを攻撃したくなくなっているの」
エイビスがわずかに眉根を寄せる。ルーンの声がこちらまで響く。
「何を言ってるんだ桃香。エイビスは僕たちにとって紛れもない悪なんだぞ!」
「私を人質にして、他の奴らとの交渉材料にでもするつもりか? その作戦は諦めろ。基本的に我々は共闘しないし、連帯感も薄い。魔法少女のように仲間を助けようとする意識は、ひとかけらも持ち合わせていないぞ」
桃香は首を横に振る。
「そんなことも考えてない。私は……私はただ、那波人君へその身体を返してほしいだけ。それだけなの。だから、戦いたくない」
エイビスはさらに眉根を深く寄せる。ルーンがじたばたともがく。
「決して相いれない奴らと、言葉で分かり合うなんて無理だよ。それが出来ていたらそもそも僕たちの星は荒廃していないし、この星へやってくることもなかったんだ!」
その絶叫に、胸が強く締めつけられた。
ルーンにとっては間違いなく、エイビスは憎いかたき。
そして彼はつい先ほど、気絶したままの桜輝と海人とフルリを地面に叩きつけようとした。あの時の怒りは、桃香も当然忘れられない。
それでも、桃香に躊躇させるものがあるのも事実だ。
「さっきあなたを浄化しようとしたけど、段々怖くなったの。あなたは那波人君に似ているから。まるで彼を私が痛めつけているみたいで、本当に嫌だった。だから、お願いだから那波人の身体から出ていって。自分から宿ったってことは、その逆も出来るはずでしょ?」
エイビスは短く笑った。明らかな嘲笑だ。
「魔法少女とは思えないな。私に情けをかけるとはどうかしてる」
「あなたに、じゃない。那波人君を傷つけたくないだけなの。例えそれが、乗っ取られた状態であったとしても!」
視界が歪む。桃香の瞳から、涙がほろほろと流れた。エイビスはため息をつく。
「我々とお前たちが和解など出来るはずはない。自分たちの生存が危ぶまれるという時に、外敵と話し合いだけで問題が片付くか? 話し合いで全て解決するならこの宇宙に戦いなど存在しないし、傷つけ奪いもしない。お前の言っていることは甘すぎる。夢を見るのもたいがいにしろ」
体力が回復したのか、そこでエイビスは上体を起こした。すぐ次の行動には移らず、桃香を上から下まで確かめるように眺めている。ルーンが叫ぶ。
「桃香、エイビスをやっつけてくれ!」
涙の枯れる様子の無い桃香の顎を、エイビスは長い指でつかみ、顔を上げさせた。
桜輝が「また顎クイか」と、小声でつぶやく。
「もう一度教えてやろう。私に隙を見せるとどうなるかを」
エイビスは片手を持ち上げ、指を鳴らそうとし――
音が鳴ったのは彼の指ではなく、頬だった。
桜輝もルーンも、そしてエイビスも、ぽかんと口を開けている。
桃香の華麗で強烈なビンタが、あやまたず敵の頬を打ったのだ。
頬を押さえ、理解し難いと言った表情で向きなおるエイビスの胸を、桃香は泣きじゃくりながらぽかぽか殴りつける。
「那波人君を返して。このイケメンめ! いくらカッコいいからって何しても許されると思ったら大間違いよ。こっちも疲れてるしあんただって疲れてるでしょ? もういいじゃない。朝になったら私は社会人に戻らないといけないの、いつまでも魔法少女でいられないの! だからあんただって那波人君に身体返しなさい! そうじゃないと釣り合わないから。那波人君はごく普通の学生なんだから、一度きりの青春をエンジョイさせてあげてよ。いつか魔法少女に退治される敵になったままなんてあの子が可哀想でしょ! 〈悪の元素〉だか四天王だか知らないけど、あなたは私達にとって悪なんだから。表情も仕草も全てがカッコいい男でも許さないんだからあっ!」
大人げなくわめきながら、涙をとばしながら、桃香はひたすらエイビスの胸を両手で殴った。エイビスがその攻撃にダメージを受けている様子は一切なく、ただ彼は未発見の生物と遭遇したかのように桃香を見下ろしていた。
桜輝も頬を引きつらせる。
「なんか、酒で悪酔いしたときよりひでぇことになってる」
「これは……戦いのせいで疲れすぎちゃったのかも。疲れを無視し過ぎて、感情がちょっと混乱してるんだと思う」
「まさかと思うけど、過労死寸前、とかじゃないよな?」
かろうし? とルーンが聞き返す中、桃香の連打が止まった。
「きゃっ」
短い悲鳴をあげる一瞬のうちに、田んぼに体を押し付けられていた。すかさずエイビスが桃香の両手首をつかみ、頭上に固定する。
「やかましい、黙れ」
簡潔な物言いに、桃香は我に帰った。
(あれ、エイビスに文句を言いまくって……な、なんでこの体勢に?!)
「桃香!」
ルーンが叫ぶ。桜輝が「壁ドンじゃなくて田んぼドン……新しすぎるな」と小声でつぶやく。ルーンは後ろ足で桜輝の顎を蹴った。
エイビスは身をかがめ、桃香を至近距離からしげしげと眺める。それはまるで、初めて見たおもちゃを警戒する子猫のようでもあった。
(イケメンって下から仰ぎ見てもイケメンなんだあ……じゃなくて、これはマズいって! このままじゃ私もやられちゃうし、ルーンも桜輝も危ない)
固定された腕を動かそうとするが、びくともしない。反撃は決して許さない、とでも言うように。
破れかぶれで片足を蹴り上げる。エイビスの背に当たりはするものの、彼の身体は小さく揺れただけだ。
(どうしよう)
こういう時、物語だったら仲間が登場するだろう。だが桃香に魔法少女の知りあいはいない。またルーンの話から察するに、すぐ駆けつけてこれるほど近くに魔法少女はいない。




