第43話 渾身の力
「や……」
桃香のか細い声など無視し、エイビスは指を動かし続けた――が。
ふいに右目だけを細め、痛みをこらえるようにうめく。呪を描いていた手を止め、頭に手を当てた。
「やかましいぞ……今更どうするつもりだ。宿主ごときが、私の邪魔をするな」
独り言をつぶやくエイビスは、黒い影が己に突進するまで気づかなかった。せわしない羽音に泣き声。一羽のカラスだ。
「なっ……貴様、離れろ!」
カラスは――ルーンの仲間であるフルリは、いつの間に呼び寄せたのか、数羽のカラスを従えていっせいにエイビスの体をつついている。エイビスは両腕で顔をかばい時に振り払うが、一羽が撥ね退けられても別の一羽がすぐにとびかかるので、完全な撃退は出来ないようだ。
盛大に舌打ちした彼は、空へと飛んでいく。カラスたちも当然のように後をついて行く。
残された桃香の元へ、ルーンが飛びついた。
「しっかりするんだ。まだ戦えるはずだよ!」
ルーンは桃香の額を乱暴に拭い、次いで右腕の上に走る幹をばしばし叩き始めた。風船が割れるように目が覚めた桃香は、ルーンを見て叫ぶ。
「ルーン! あいつは?」
「フルリ達が何とかしてくれてるよ。今のうちだ。動けそうかい?」
身じろいだ桃香は、拘束が先ほどよりも弱くなっていることに気がついた。
頭上を見上げる。エイビスとカラスたちの周囲に、白と黒の嵐が見える。
(やっぱり、エイビスが一度に使える羽根の総量は決まってるんだ。だから羽根で出来たこれが緩くなったんだ)
桃香は激しく身をよじった。幹がちぎれ、羽根に戻る。上に跳び上がった桃香は、そのままエイビスめがけて突進した。
エイビスは、最後のカラスを撃退したところだった。顔に傷がつき、髪も乱れている。近づいてくる桃香と目が合った彼は歯ぎしりした。そしてなぜか、頭痛をこらえるように右手を頭に当てる。
(明らかに余裕がない。やるなら今のうち)
「レジーナ・ブロッサム・ストーム!」
桃香の渾身の魔法と、エイビスの羽根がぶつかる。青薔薇と羽根はせめぎあい、お互いに喰い合い、からみ、打ちのめして。
花びらが開いてくれた道を、桃香は矢のように進んだ。
「那波人君を返しなさい、エイビス!」
相手は片腕を振り下ろしたが、数枚の羽根が桃香の頬や体を傷つけるだけだった。
桃香はエイビスに肉薄し、そして――
○
ここはどこだろか。桃香は寝起きのようにぼんやりした頭で思う。
ショッピングモールの敷地ではない気がする。カエルと虫の鳴く声。土と水の匂いが鼻をつく。
ショッピングモールは住宅地の端に建っているのだが、少し足を延ばすとそこからは田園が延々と広がっているのだ。今はおそらく、どこかの田んぼに突っ込んでしまっているのだろう。稲が一切生えてないので、耕作を止めたのだろうか。
桃香は身を起こした。彼女の下にはエイビスが横たわっている。ちょうど馬乗りのような態勢になって、桃香はエイビスを見下ろしていた。
「攻撃してこないの?」
「私が聞きたいことだぞ。どうやらお互い、限界がきたようだな。この宿主は私と相性がいいと思っていたが、本気で戦うには少々早かったようだ」
桃香も、エイビスに突撃したところまでは覚えている。だが急に体に力が入らなくなり、エイビスにもたれかかってしまった。同じくして、エイビスも力尽きたようだ。どちらからともなく、地面へと落ちていった。
だが桃香のおぼろげな記憶では、エイビスが守るように抱きかかえてくれた気がするのだ。疲れすぎたがゆえの、まぼろしかもしれないが。
桃香は、エイビスの翡翠の瞳を探るように見た。
「……何だ?」
「どうして那波人君に戻ってくれないの?」
エイビスは一瞬顔をしかめ再び頭に手をあてたが、やがて鼻白む。顔に裂傷があっても、体が田んぼに埋まっていても、彼のまとう気高さは消えていない。
「私を完全に浄化しろ。それしか宿主を元の人間に戻す方法はない。かつて浄化され、時を経てせっかく蘇ったというのに、私が好きこのんで再び眠りにつく理由などあるか?」
四天王クラスと評される彼の表情は、凪いだように静かだった。敗北の悔しさもなさそうだし、桃香を恨んでいる様子もない。
(ルーンの故郷をめちゃめちゃにして、地球の制圧も企んでいる〈悪の元素〉のラスボス級のはずだよね? その割にはさっきから大人しすぎる。なんでいきなりこうなったの? 私と一緒で疲れすぎたのかな)
おもむろに桃香は手を伸ばし、エイビスの左肩に手を置いた、一拍おいて、背中の方へ指をもぐらせる。
「……っ!」
エイビスが声にならない悲鳴をあげ、体をそらした。ほくろひとつない首筋が夜の闇に浮き上がる。
桃香は思わず立ち上がり、泥の重さを感じながらも数歩後ずさった。
呼吸の荒くなったエイビスは起き上がることもせず、何故か笑っている。
「見ただろう? お前に浄化されかけたダメージはまだ残っている。手を下すなら今のうちだ。私を放っておけば必ず回復し、そのうちこの星を我々のものとするために行動する。そうなっては、数人の魔法少女ごときで止められるとは思わない方がいい」
さらに桃香は困惑した。
(自分が不利になるのに、アドバイスしてる?)
突然頭に何かが乗り、小さく悲鳴をあげるが、すぐに聞き覚えのある声がした。
「桃香、エイビスは冷酷で残忍な奴だ。こいつのせいでひどい怪我を負った魔法少女は、君の両手を使って数えても足りないくらいいる。あの整った顔に騙されるな。奴は敵だ。君たちの星の敵なんだよ!」
桃香はすぐに返事ができなかった。遠くから駆けてくる足音がする。
「姉貴、那波人は元に戻ったか?」
桜輝に問いかけられても、ルーンに再三促されても、桃香はエイビスを攻撃する気にはならない。
先ほどの彼の苦痛に満ちた長い絶叫が、まだ耳の奥に残っている。
桃香はごくり、と唾と逡巡を同時に嚥下した。そっと頭に手をやり、抱き上げたルーンと目を合わせる。
「しばらく桜輝の近くにいてくれる? 何かあったら、私の弟を守ってほしいの」




