第37話 お酒の罠と恋の相談
(姉貴は今頃透伯温泉か。いいなー。俺も絶対にいつか行ってやる)
桜輝は時計を見ながら、作り置きの料理に取り組んでいた。
夕食は残り物で既に済ませた。今は麻婆豆腐を作っている。レンジで鳥の手羽先を調理中だし、後でなすのおひたしも作る予定だ。
料理にはまる前は、学校の宿題をする以外はゲームをやったり小説や漫画ばかり読んでいた。親に何度も家事の手伝いくらいしろ、とよく怒られていた過去の桜輝が今の自分を見たら、別人のようだと驚くに違いない。
「あれ、ごま油がちょっと足りないな。買ってくるしかないか」
まだ近所のスーパーは開いているはずだ。財布とスマホを持って玄関を出た。すると。
家の敷地内からそう離れていない道端に、何かが動いている。最初怪我をした犬か猫かと思ったが、よく見ると既知の人物、いや兎だった。
「ん、ルーンだよな? おーい」
声をかけながら地面にしゃがむ。兎は両手だけ使って這うようにコンクリートをゆっくり進んでおり、桜輝には気がついていないようだ。
「どうした……って、臭っ! 酒でも飲んだのか?」
鼻をかすめるアルコールに、目を丸くする。ルーンは何事かをムニャムニャと口にしてはいるのだが、聞き取れない。
「しょうがねえな。とりあえず家の中入るぞ」
買い物は後回しだ。ルーンを両手で抱え、玄関へ戻る。
移動の最中、あることに気がつく。オレンジのジャケットがひたひたに濡れているのだ。匂いから、ビールが大量にしみ込んでいるらしいと察しがついた。
(変だな。ルーンって酒の匂いだけでも酔うはずのに、なんでジャケットがビールで濡れてるんだ? うっかり頭からかぶったのか?)
仮に桜輝の考えが合っているとしたら、数時間以内でビール缶一本丸ごとに近い量を、ジャケットを中心に全身に浴びたことになる。一体どういう状況でそうなったのだろう。
玄関の鍵を内側から閉め、ルーンをそっと床に横たえてみた。本人は前後不覚になっているからか、桜輝の姿も見えていないようだ。
「桃、香……早く、早くしない、と……」
うわ言が辛うじて聞き取れる。桜輝はルーンを励ますようにぽんぽんと叩いた。
「今洗い流すからな」
風呂場に連れていき。とりあえずぬるいシャワーを全身に浴びせてやる。
ルーンがほっと落ち着いたように息を吐き、青い瞳に明瞭な理性が戻り始めた。それでも幾分かぼんやりしていたので、桜輝はルーンのジャケットを脱がせてやった。
風呂桶にぬるま湯をため、そこにルーンを浸からせる。それからシャワーの水流を強くし、念入りにジャケットに回しかける。
ボディーソープも使って押し洗いしながら、両手で顔を洗うルーンへ話しかけた。
「何があったんだよ? 姉貴が心配してたぞ」
「話すと少し長くなるんだ。桃香には悪いことをした。もう少ししたら会いに行くよ。桜輝、ありがとう。君は命の恩人だ」
そこまで大げさに言うのか、とルーンを改めて見ると、その表情が暗い。
「何かあったのか?」
ルーンは深刻そうに浸かっている湯を睨む。
「魔法少女当人じゃないと、詳しい説明は出来ない。申し訳ないけど、後で桃香に聞いてくれるかい?」
固い表情に、桜輝はただうなずいた。
「わかった。酔いが醒めたら、姉貴に無事を知らせに行けよ?」
ジャケットを絞り、ハンガーにかける。その間、さらにルーンにシャワーをかけてやる。
と、インターホンがなった。シャワーの水流を弱め、桜輝は立ち上がる。
画面越しに立っていたのは那波人だった。
意外すぎる人物に、声が思わず高くなる。
「は? どうしたんだこんな夜遅くに?」
「すみません。桜輝君に相談したいことがあって」
扉を開けると、そこには私服姿の那波人がいた。
「姉貴なら、今日は会社の人と温泉に行ってるからいないぞ? あ、車がないから予想つくよな。だからわざわざ来たのか?」
那波人は、うっすらと頬を赤くした。
「……俺、桃香さんの名前一回も出してないですけど?」
桜輝は無言で那波人を手招きし、家に入れた。居間のソファーに座らせ、隣に腰かける。
「もしかしてとうとう、姉貴に告白する気になったのか?」
昔なじみの高校生は、さらに顔を赤くした。
「前電話した時も思ったんですけど、俺の気持ちわかってたんですか?」
「まあ、だいたいはな。ただ姉貴はこれっぽっちも、お前に片想いされてるなんてアリの涙ほども考えてないぞ。まあ、姉貴は彼氏にフラれて恋人いないし、今がチャンスなのは間違いない。問題は年齢差か。おまけに那波人は高校生で、未成年だろ? 付き合うのはさすがにオススメできないな」
「わかってます。無暗に告白なんかしたら、桃香さんにご迷惑をかけちゃいますよね。だから……もし桃香さんさえよければ、来年俺が十八歳になるまで待ってもらえた、ら……」
突然、那波人は言葉を詰まらせた。桜輝は数度瞬きする。
「那波人?」
「すみません……うっ、頭いた、い」
「どうした、大丈夫か?」
のぞき込んだ後輩の表情が――口の両端が、にんまりと持ち上がったように見えた、その瞬間。
浴室から飛び出してきた、ルーンの声が響いた。
「そいつから離れるんだ!」
同時に那波人のこげ茶の髪が、一瞬で輝かしい銀の長髪に変わる。
後ずさり、桜輝は絶句した。ただ二十代後半の姉が魔法少女になったことで耐性がついているのか、驚きは少ない。
「お前、誰だ?」
那波人は――否、そっくりの別人は、座ったまま微笑みを浮かべていた。
「魔法少女と私の戦いに、花を添える者が欲しい。お前はちょうど良さそうだ」
男は指を鳴らした。何もないはずの空間に、羽根が現れる。
桜輝はとっさに玄関から飛び出た。家に残したルーンのことを構っている余裕はなかった。
後ろを振り返ると、男が自分に向かって手を伸ばしている様が遠くに見えた。
走りながら、桜輝はスマホを操作する。すぐ桃香につながったが、頭の中で情報が錯綜して何から説明すればいいのか。うまく口が回らない。
「あ、姉貴! ルーンが家の近くで倒れていたんだ! 怪我はしてないんだけど、それより大変なことになってて……うわあっ!」
転んだ拍子に、スマホが飛んでいった。手を伸ばそうとしたが、視界にいくつもの羽根がよぎる。そして目の前が徐々に薄黒い闇に包まれ――桜輝は意識を失った。




