第34話 飲んでも飲まれるな
何かが叩きつけられる音。そして言い争いの声。
瀬河は即座に立ち上がった。
「石山さんたちの部屋ね」
瀬河に続いて、桃香も腰をあげる。
鍵はかかっておらず、すんなりと中に入ることが出来た。
そこで見た光景は――涙を流しながら怒っている様子の石山、彼女を必死で止めている荒田、そして足元に落ちたものを呆然と見ている草薙だった。
「ふざけないでよ、そんなもの持ってこないで! 私の前で見せびらかさないでよ!」
「落ち着いて祥子! さすがにこれは酷いよ。蓮歌に謝って!」
せっかく旅館側が準備してくれた浴衣なのに、石山も荒田も暴れたり押さえつけたりしたせいか、着崩れていた。立ちつくしていた草薙はタオル等を持っている。風呂へでも行くつもりだったのだろう。
瀬河は職場にいる時と同様な無表情の仮面をつけ、石山の前にしゃがみこんだ。
「何があったかわからないけど、ひとまず落ち着きましょう。私たちはお金を払って泊まっているけど、だからって何をしても良いわけじゃないんだから」
石山はすわった目で瀬河の姿を上から下まで見た。まだ酔いが醒めていないらしい。
「わかってますよ、行き遅れの瀬河さん!」
とたん、辺りは極寒のシベリアと錯覚する程の冷え冷えとした空気が流れた。
桃香は声にこそ出さなかったが、「ひいい」と喉の奥で悲鳴をあげる。
瀬河は仮面を崩さず、眼鏡の位置を指で直した。
「わかっているんだったら静かにしましょう。お互い、分別のあるいい大人なんだから。旅館の人にも他のお客さんにも迷惑よ?」
「いい大人なくせして、実家暮らしの子供部屋おばさんやってるって聞きましたけど。恥ずかしくないの?」
さらなる言葉の槍に石山と瀬河以外が、石像のように固まった。
(石山さん、酔いに任せてひどいこと言いすぎーっ!)
青ざめた荒田が、石山の頭を無理やり押さえて一緒に頭を下げる。
「すいません! 本当にすいません!」
瀬河はしばらく口を開かなかった。静寂に耐えられなくなったのか、荒田がそろりと顔をあげて様子を伺う。桃香がふと自分の隣を見ると、いつのまに近づいてきたのか草薙が恐れおののいた表情で立っていた。
もう一度、瀬河は眼鏡の位置をなおした。
「言いたいことはそれだけ? 行き遅れと、子供部屋おばさん。他には何かないの?」
「……は?」
荒田の手をのけ顔をあげた石山に、瀬河は距離を詰めた。
「面白くないカタブツ、愛想がない、可愛げがない、女のくせに男の顔をたてようとしない、孫の顔を見せない親不孝者、結婚も出産も出来てない半人前……他に何かあったかしら、思い出せないわ。年のせいね」
突然悪口を華麗に並べ立てた瀬河を、皆は唖然と見ていた。ただ間近で対峙している石山だけは、口の端が引きつっている。
「え? いきなり何……」
「で、私が未だに独身なことと実家暮らしをしていることの、何が悪いの? それはあなたの価値観でしょ? 私みたいな女になってしまうのを忌み嫌っているなら、あなたはそうならないように努力すればいいだけの話で、私にかまう必要はないと思うけど。それこそ、あなたの人生の時間の無駄じゃない?」
我に帰った桃香は、瀬河を止めようかと思った。だが草薙がいつの間にか、桃香の二の腕周囲の浴衣を両手で握ってくっついている。彼女をふりほどくのは気が引けた。
石山の近くにいる荒田も気迫に押されてしまっているのか、片手で止めに入ろうとしたまま固まっている。
瀬河は深い、深い、五秒以上のため息をついた。
「独身なのか既婚なのかっていうのは、その人自身や社会的立ち位置を確認するひとつの指標でしかないのに、そのカテゴリー分けにこだわりすぎて各々の感想をレッテル張りして、それでいがみ合ったり馬鹿にしあったり対立しあったりって、それこそ馬鹿の所業でしょ。立場や考えが違うことが憎しみ合う理由にはそもそもならない。テキトーにお互いを無視すればいいだけよ。なのに、既婚は独身より偉いとか、旦那の収入が少ない人は負け組だとか、出産した女性の方が出産経験のない人よりすごいとか、そういう価値観ってまだまだ死に絶えてないわね。古い判断基準にみんなこだわりすぎなのよ、私も含めてだけど」
瀬河は熱を込めて喋るうちに、石山の方へ徐々に前のめりになっていった。石山は酔いがどこかへ飛んでいったようだ。
「何の話? 私、そこまで言ってな……」
「どんどん言ってもらっていいのよ? あなたは私より若いし、素敵な男性を捕まえる能力も高いだろうからね。でもそれはあなたの属性がたまたまそうなだけであって、それを根拠に他の人を悪く言うのは止めたほうがいい。いずれ、何らかの形であなたに帰ってくるわよ? 例えば若くて可愛い女性からおばさん扱いされるとか。あれも醜い争いよね。若さだけをよすがに生きていたら、その後の人生苦労するでしょうね。あー、思い出しただけでイライラしてきた。私もまだまだ未熟ね」
瀬河の唾棄する勢いは止まらない。途中からもはや、視界に誰のことも入っていなかった。上手く後ずさりできなかった石山は、背中を床に打ちそうになった。
「あの、本当にすいません! 酔ったせいで変なこと言ってごめんなさい!」
瀬河のブルーライトカット入り眼鏡レンズが、ぎらりと光る。
「酔ったせい……? 口の悪さをアルコールに押し付けるんじゃないの! だったら酒なんて最初から飲むなっ!」
その怒声は、旅館中がオペラハウスになったかのようにビリビリと響き渡った。
その数分後、旅館の男性スタッフが遠慮がちに部屋の確認に訪れ、桃香は草薙と二人でひたすら平身低頭したのであった。




