第29話 前兆
大学は家から通えたし、就職の際に一度はアパート暮らしを検討したが、貯金を優先したかったので実家からの通勤を選んだ。結果、仕事はそこまで残業が多くないので長めの通勤時間も苦にならず、家に帰ると何らかの料理が必ずあるという心地よさにあぐらをかいて、今日に至るというわけだ。
「遠慮しないで、唐揚げ食べてね。私もひとついいかな?」
「はい。勿論です」
唐揚げをひとくち、すかさず白米をひとくち口に入れ、頬が緩む。お気に入りの揚げ物を白米と一緒に食べるのは至福だ。
もう一度、那波人が口を開く。
「よかったら、味見していただけますか?」
「え?」
「俺が料理の練習をして、もし上手く出来たら、味見していただきたいんです」
桃香は数度まばたきする。
「私、料理下手だよ? 桜輝がアドバイスした方が断然いいと思うけど」
那波人はなぜかがくりとうなだれた。しばらく黙っていたが、その体勢のまま話を続ける。
「桃香さんにも桜輝さんにも味見をお願いしたいです。駄目ですか?」
再び顔をあげた那波人は、また頬が赤くなっていた。やはりどこか具合が悪いのだろうか。最近急に暑くなったからかもしれない。
桃香は笑顔でうなずいた。
「わかった。楽しみにしてるね」
言葉が沁みるのに時間がかかったのか、那波人はゆっくりと口角をあげ、小学校の頃のようにぺこりとお辞儀する。
「ありがとうございます。俺、頑張ります」
添えられた笑みが網膜を越えて脳を突き刺し、桃香は箸を持つ手に力を込めた。
(その笑顔は反則! まったくどんな表情でも似合っちゃうんだから、どれだけ嫌がろうとモテるに決まってるよ)
「あなたって、罪深い人間だね」
「? 何か言いましたか?」
「ううん、独り言だから気にしな……」
片手を振っていたまさにその時、テーブルに誰かがのそりと登ってきた。ルーンだ。
「っ! ルー……」
名前を口にしかけたところで、ルーンは両耳で口をふさぐ仕草をする。桃香もかろうじて唇を噛み、言葉を止めた。
「どうしました?」
「いや……あ! 後で眠くなったら何もできなくなるから、先に洗い物しておくね! 那波人君は遠慮せずどんどん食べて!」
そそくさと立ち上がりシンクへ向かうが、ぬかりない桜輝のおかげで汚れた食器がひとつもない。とりあえず空になった作り置き用の入れ物をひとつ、洗っていく。
ルーンはとてとてとテーブルの上を歩み、桃香のご飯茶碗のすぐ隣に立った。ルーンを視認できない那波人は黙々と食事している。
「そのままでいいから聞いてほしい。最近、桃香の出動回数が明らかに多いだろ? 理由はまだ探っている最中だけど、おそらく〈悪の元素〉側に何らかの変化があったとみられるんだ。僕だけでは分析のしようがない。だから、他の地域にいる仲間のところへ行って相談してくるよ。この辺りから離れている時間が長くなっちゃうけど、ごめんね」
桃香は手を止めた。那波人がいるので、詳細を聞き返すことができない。
そんな大事なことを、無関係の人間がいる前で言うとは。ルーンはよほど急いでいるのだろうか。
(それなりに緊急事態ってことなのかな?)
慣れてきた桃香は、時々なら〈悪の元素〉の気配を察知することができるようにはなっていた。だがそれも完璧ではない。この状況でルーンがいなくなるというのは、心細さも感じた。
「大丈夫さ。どんなに遅くなっても再来週の頭には帰ってくるよ。それに、こういう時のために連絡アイテムがあるから」
ルーンはジャケットのポケットを探り、何かを取り出した。赤い宝石を模した飾りボタンに見える。
それをテーブルに置き、ルーンは手を振った。
「急ぐからもう行くよ。じゃあね。何かあったらそれで僕へ連絡するか、桃香の職場の近くにいるカラスへ相談してね」
(カラス?)
問い返す間もなく、テーブルを降りたルーンの姿は無くなっていた。
桃香は何事もなかったかのように着席する。腹の奥が不安でモヤモヤしているが、それに囚われてばかりもいられないのが、社会人と魔法少女を掛け持ちしている身としては悲しいところだ。
(働いてる分余裕がないし、世界の平和とか皆の安全よりも、会社の人や取引先の機嫌の方が大事! って思うこともあるもんなー。仕事が立て込んでるときに出動した時なんて、〈悪の元素〉にものすごく殺意がわいたし。こんな魔法少女ってアリなのかな?)
残りのおかずを食べていると、いつの間にか那波人はうつむいていた。不自然な程に微動だにしない。茶碗や皿はどれも空になっている。
「那波人君、おかわりいる?」
「……指名者か」
「え、何て?」
問い返した刹那、視界に広がった奇妙な幻覚。
那波人のこげ茶の髪が、腰のあたりまで伸びた銀の長髪になる。それは風であおられたかのようにふわりと広がった。そして、そんな那波人の周囲を舞ういくつかの黒と白の羽根――
まばたききした時にはもう、それは消え去っていた。目の前にいるのは、短いうたた寝から目覚めた那波人だ。
「……? すみません! 食事が終わったら寝ちゃったみたいで……またか」
最後のささやくような困惑が気になり、桃香は尋ねる。
「またって、どういうこと?」
「いや、最近気がついたら失神していて、時間が過ぎていることがたまにあるんです。さっき桃香さんの家の近くにうずくまっていた時も、気づいてないうちに何十メートルか歩いてたんです」
それは不可解すぎる。桃香は眉をひそめた。
「大変じゃん。お医者さんへ行こうよ」
「もう行きました。父さんに相談したら、内科や脳神経外科に連れて行ってくれて。でも特に異常なし、だそうです」
「そっか……」
桃香だってつい一か月前は、慣れない変身や戦いで体力を消耗し、ヘトヘトになっていた。那波人の身にも、現代医学でも説明しようがない何かが起こっているのだろうか。人間の身体は複雑だから。
「ならもう少し様子を見て、しっかり食べてしっかり寝るしかないね」
「はい。今日はご馳走様でした。本当にありがとうございます。どれも美味しかったです」
「桜輝にも言っておくね。きっと喜ぶから」
玄関で那波人を見送った桃香は、ふと考える。
先ほどの幻覚。銀の長髪になった那波人の周囲を、黒と白の羽根が待っていた。
(あの羽根、どこかで見たことあるような)
そもそもあんな幻覚を見たことなど、これまでの人生で初めてだ。桃香はいまや、普通の人間ではなくて魔法少女になってしまった。だからこそ、ああいうことが起こったのかもしれない。
(何かのメッセージだったりするのかな。一体何のだろう? わからない……)
ルーンに相談しようにも、彼は出かけてしまっている。それに、霧中の向こうにある疑問をどう言葉にすればいいかわからなかった。説明できる自信がないのだ。
桃香はその晩、ルーンに連絡をとることはなかった。




