第八十一話 天穀米の水田
翌朝。
リリスが屋敷の南庭へ向かうと。
昨日まで何もなかった場所に。
小さな建物が一つ増えていた。
石造りの壁。
青銅色の屋根。
側面から伸びる五本の水路。
中央では、青白い魔導核が規則正しく明滅している。
━━━━━━━━━━
《星流灌漑小屋》
設計
リゼット・ヴァルカン
リリス・ルクスヴィア
主機関
《星流灌漑核》試作一号
管理区域
・天穀米試験水田
・星月大豆試験畑
・薬草栽培区画
・果樹育成区画
稼働状態:待機中
━━━━━━━━━━
「……完成してる」
「おはよう、リリス!」
小屋の屋根から。
リゼットが顔を出した。
頭には作業帽。
ゴーグルは額まで上げられ。
頬へ薄く油汚れが付いている。
「いつから作ってたの?」
「日の出前!」
「寝た?」
「四時間くらい!」
「少ないよ」
「昨日は魔神化の騒ぎで、設計が途中だったから」
『騒ぎで済ませるには、随分と危険だったがな』
クロがリリスの後ろから姿を現す。
昨夜まで僅かに残っていた疲れは。
既に完全に消えているようだった。
「クロ、体調は?」
『問題ない。だが魔神化はするな』
「しないよ」
「本当に?」
灌漑小屋の横から。
フィオナが顔を覗かせる。
その後ろには。
腕を組んだシグレも立っていた。
「封印されてるから、したくてもできないよ」
「解除方法を研究していないだろうな」
「してない」
『一瞬、間があったぞ』
「制御方法は少し考えたけど、解除方法は考えてない」
「同じようなものではありませんか?」
「違うよ。領域を制御できるようになれば、安全になるから」
フィオナたちの視線が集まる。
「今はやらない」
リリスはすぐに付け加えた。
「まずはお米」
『それがよい』
◇◇◇
水田として整備されるのは。
屋敷南部の八百平方メートル。
ただし。
初めから全区画へ《天穀米》を植えるわけではない。
発芽率。
成長速度。
土壌との相性。
必要な魔力量。
病気や害虫への耐性。
古代種である以上。
現在の王都周辺環境へ、どのような影響を与えるのか分からない。
そのため。
最初に使うのは、全体の八分の一。
百平方メートルだけだった。
「一度に全部植えないんだね」
リゼットが少し意外そうに言う。
「失敗して、種籾を全部失ったら困るから」
『珍しく慎重だな』
「種子保管庫から借りてる命だから」
持ち出した種子から増やした場合。
一割を保管庫へ返納する。
その契約もある。
何より。
《天穀米》は料理素材である前に。
古代から未来へ残された植物だった。
「今回は百二十粒だけ使うよ」
「百二十?」
「一粒ずつ発芽させて、状態を確認する」
「手作業ですか?」
「うん」
リリスの背後へ。
百二十個の小さな水球が浮かび上がる。
『手作業とは』
「一粒ずつ見てるから手作業」
「一般的な意味とは違う気がします」
フィオナが苦笑する。
リリスは《天穀米の種籾》を水球へ一粒ずつ入れた。
使っているのは。
《精霊湧水》。
《迷宮温室土》から抽出した微量の生命魔力。
《古代生命樹の樹液》を数滴。
そこへ。
地属性と水属性の魔力を、ごく僅かに加える。
━━━━━━━━━━
《天穀米の種籾》
発芽準備処理を開始。
処理対象:120粒
生命力:正常
休眠状態:解除可能
現在環境との適合率
62%
━━━━━━━━━━
「適合率が低い」
リゼットが表示を覗き込む。
「古代の環境と、今の土や空気が違うんだと思う」
「水田全体を古代環境に変えるのですか?」
「それだと、この設備がない場所で育てられなくなる」
屋敷の中だけで育てるなら。
《領域環境自在化》で。
古代と同じ気温。
湿度。
魔力濃度。
地脈状態を再現できる。
だが。
将来。
普通の農家へ種を分けることを考えるなら。
特殊な環境でしか育たない作物にしてはいけない。
「種の方を、少しずつ今の環境へ慣らす」
「品種改良ですか?」
「生命情報は変えないよ。眠っている適応性を引き出すだけ」
「それなら、元の性質も失われないな」
シグレが頷く。
「《生命魔法》《素材特性抽出》《装備進化誘導》」
『最後のものは装備用ではないのか』
「生物にも応用できる」
『万能すぎるだろう』
百二十粒の種籾を包む水球が。
淡い金色へ変化する。
種の中に眠る。
乾燥への耐性。
温度変化への適応。
土壌中の魔力を効率よく吸収する性質。
それらを。
無理のない範囲で表へ引き出していく。
━━━━━━━━━━
現在環境との適合率
62%
↓
71%
↓
83%
↓
94%
処理完了。
遺伝情報の異常変化:なし
固有性質の損失:なし
発芽可能率:99.8%
━━━━━━━━━━
「百パーセントじゃない」
「自然の種だからね」
リリスなら。
発芽率を完全な百パーセントへ固定することもできる。
だが。
すべてを同じ状態へ揃えすぎれば。
将来。
一つの病気や環境変化で全滅する可能性がある。
僅かな個体差。
性質の違い。
それもまた。
種を未来へ残すために必要なものだった。
「少しだけ違う方が、強いんだよ」
「機械と逆なんだね」
リゼットが感心したように言う。
「部品なら全部同じ方が交換しやすいのに」
「植物は生き物だから」
「じゃあ、灌漑核も一つの流量に固定しない方がいいかも」
リゼットがすぐに設計図を開く。
「水田の場所ごとに、土壌の水分と魔力濃度を測って、五段階で給水量を変える」
「いいと思う」
「今から直す!」
「植えてからにしよう」
「五分で終わる!」
「朝食は?」
「もう食べた!」
『そこは学習したようだな』
◇◇◇
試験水田へ。
清らかな水が流れ始めた。
《星流灌漑核》が地脈と接続し。
地下水を汲み上げ。
細かな不純物を取り除く。
さらに。
作物へ悪影響を与えない濃度まで。
水属性と生命属性の魔力を加える。
━━━━━━━━━━
《星流灌漑核》試作一号
給水開始。
水質:最良
魔力濃度:適正
水温:18.4度
土壌水分:調整中
異常物質:なし
━━━━━━━━━━
水路から流れ込んだ透明な水が。
平らに整えられた土壌を満たしていく。
土の香り。
水の音。
朝日を反射する、浅い水面。
都心の広大な屋敷の一角へ。
小さな水田が生まれた。
「懐かしい感じがする」
リリスは水面を見つめた。
前世で。
自分が田植えをした経験はない。
けれど。
電車や車の窓から眺めた水田。
テレビで見た田植え。
炊飯器を開けた時に立ち上る、白い湯気。
そうした記憶が。
次々と蘇ってくる。
「師匠の故郷にも、このような畑があったのですか?」
「うん。お米をたくさん食べる国だった」
「いつか行けるのか?」
「前の世界だから、難しいかも」
シグレは。
それ以上、何も聞かなかった。
ただ。
水田の水面へ視線を落とす。
「ならば、ここで作ればよい」
「うん」
帰れない世界の味。
それでも。
この世界で。
新しい仲間と一緒に作ることはできる。
◇◇◇
「それでは、植えましょう」
エレナが用意した作業着へ着替えたフィオナが。
水田の前へ立った。
普段の魔法剣士装備ではない。
薄茶色のシャツ。
膝下まで捲った丈夫な作業用ズボン。
狐耳を通せる広いつばの帽子。
大きな尻尾が濡れないよう。
尻尾用の防水布まで用意されている。
「フィオナも入るの?」
「皆で植えた方が楽しいと思いまして」
「私もやる」
シグレも。
白銀の髪を高い位置で纏め。
簡素な作業着へ着替えていた。
「刀は?」
「岸へ置いておく」
「私は機械を見る!」
リゼットは水田の外。
灌漑核の操作盤の前へ座る。
『私は見ている』
「クロも入ろうよ」
『断る』
「足だけなら」
『泥だらけになるだろう』
「自動洗浄できるのに」
『それと、わざわざ汚れることは別だ』
リリスは裸足になり。
水田へ一歩入った。
「冷たい」
足の指の間へ。
柔らかな泥が入り込む。
少し不思議な感覚だった。
続いて。
フィオナとシグレも水田へ入る。
「思ったより深いですね」
「足を取られるな」
シグレが一歩進み。
泥へ足首まで沈んだ。
「……歩きにくい」
「シグレでも?」
「力ではなく、慣れの問題だ」
フィオナは。
大きな尻尾で均衡を取りながら進んでいる。
「師匠。こうでしょうか?」
「たぶん」
『誰も経験者がいないのではないか』
「知識はあるよ」
『実践経験は』
「ない」
『やはりか』
リリスは《超解析図作成》で。
苗を植える間隔を水面へ表示した。
縦。
横。
一定間隔で並ぶ、淡い光点。
「ここに植えればいい」
「急に田植えが魔導工房の作業みたいになった」
リゼットが操作盤の前から笑う。
「真っ直ぐ植えられる方が管理しやすいから」
「それは助かる」
シグレは小さな苗を手に取り。
光点へ慎重に植えた。
「こうか」
「うん」
一本。
また一本。
百二十粒のうち。
既に発芽した苗は百十九本。
発芽しなかった一粒も死んでいるわけではなく。
少し遅れているだけだった。
リリス。
フィオナ。
シグレ。
三人で並び。
少しずつ苗を植えていく。
「《同時工程千重》を使えば、一瞬なのではありませんか?」
「今日は使わない」
フィオナが驚いたようにリリスを見る。
「自分で植えてみたいから」
「それがよい」
シグレが短く答える。
泥に足を取られ。
一度だけフィオナが体勢を崩す。
「わっ」
「大丈夫?」
リリスが腕を掴む。
だが。
自分も足元を滑らせた。
二人揃って。
水田へ尻餅をつく。
ばしゃん。
大きな水音。
「……濡れた」
白いシャツの背中と。
作業用のズボンが、すっかり泥だらけになっていた。
フィオナの尻尾にも。
防水布の外側へ泥が跳ねている。
「師匠……」
「ごめん」
「ふふっ」
フィオナが笑い始めた。
それにつられ。
リリスも小さく笑う。
「何をしている」
シグレが呆れたように手を差し出す。
しかし。
二人を引き起こそうとした瞬間。
足元が沈み。
シグレまで水田へ座り込んだ。
「……」
「シグレも濡れたね」
「何も言うな」
『三人とも何をしているのだ』
岸から見ていたクロが溜息を吐く。
その直後。
リゼットが操作盤から手を滑らせた。
━━━━━━━━━━
洗浄用補助水路
試験放水を開始します。
━━━━━━━━━━
「え?」
水田の横に設置された小型噴出口から。
勢いよく水が噴き出した。
狙ったように。
クロの身体へ直撃する。
『――何をする!』
「ご、ごめん! 操作を間違えた!」
全身を濡らしたクロが。
ゆっくりとリゼットへ顔を向ける。
「自動洗浄できるから大丈夫!」
『そういう問題ではないと、先ほど言ったはずだ!』
水田の中で。
リリスたち三人が同時に笑った。
◇◇◇
昼前。
百十九本の苗を植え終えた。
遅れていた最後の一粒も。
水田の端へ設置した育苗箱の中で、小さな芽を出している。
━━━━━━━━━━
《天穀米試験水田》
植付数:119本
育苗中:1本
枯死:0本
土壌適合率:96%
水質適合率:100%
地脈適合率:91%
予測収穫日
通常育成:約120日後
魔力育成:約60日後
時間促進育成:最短1日
━━━━━━━━━━
「一日で収穫できる」
リゼットが表示を見て言う。
「時間加速を使えばね」
「使わないの?」
「最初は普通に育てる」
『殊勝な判断だ』
「六十日くらいには短縮するけど」
『完全に普通ではないな』
「魔力を含んだ古代米だから、魔力環境で育てるのが本来の方法だよ」
「一日ではなく、六十日ならよいのではないか」
シグレも。
収穫を楽しみにしているらしい。
「毎日、成長記録を取ろう」
「灌漑核の方も記録する!」
リゼットが操作盤へ新しい機能を書き加える。
━━━━━━━━━━
《星流灌漑核》追加機能
・作物成長記録
・葉色測定
・病害検知
・害虫接近警告
・魔力吸収量測定
・収穫適期予測
━━━━━━━━━━
「これで完成?」
「試作一号だから、まだ」
「何を追加するの?」
「雨が降った時の自動停止。水路が詰まった時の逆洗浄。小動物が落ちた時の救助網。あと――」
「増えてるね」
「必要だから!」
リリスは。
水面で風に揺れる、小さな苗を見つめた。
まだ。
米粒どころか。
細い葉が数本伸びただけ。
それでも。
確かに。
五百年以上前から守られてきた命が。
新しい時代の土へ根を下ろしている。
━━━━━━━━━━
《星温室種子保管庫》との生命情報接続を確認。
《天穀米》の現代環境発芽記録を送信しますか?
━━━━━━━━━━
「送信する」
━━━━━━━━━━
発芽記録を送信しました。
現代環境適応個体:120
星温室種子保管計画へ新たな記録が追加されました。
管理評価が上昇しました。
━━━━━━━━━━
「保管庫にも伝わった」
「増えた種籾を返すのは収穫後ですね」
「うん。最初に採れた種籾の一割は、必ず戻す」
『食べる分を先に確保するなよ』
「返す分を先に分けるよ」
『本当だな』
「お米に関しては信用ないの?」
『食に関してだけ、お前は判断が少々怪しくなる』
「少しだけだよ」
「自覚はあるのですね」
フィオナが笑う。
◇◇◇
昼食は。
水田の近くへ敷いた大きな布の上で取ることになった。
籠の中には。
焼きたての丸パン。
燻製肉と葉野菜を挟んだサンドイッチ。
根菜の冷たいスープ。
星蜜葡萄。
甘い焼き菓子。
田植えで泥だらけになった服は。
《自動清浄》ですぐに綺麗になっている。
「外で食べるのも美味しいね」
「働いた後だから、余計にそう感じます」
フィオナがサンドイッチを両手で持つ。
シグレも。
星蜜葡萄を一粒食べ。
僅かに目を細めた。
「悪くない」
「また言った」
「今のは食事の評価だ」
「前も同じでしたよ」
リゼットが笑う。
クロの前にも。
大きく切った焼肉と、骨付き肉が置かれていた。
『なぜ全員、私を見る』
「さっき水を掛けられたから、機嫌直ったかなって」
『肉に罪はない』
クロはそう答え。
大きな肉を一口で食べた。
その時。
リリスの視界へ。
新たな通知が浮かび上がる。
━━━━━━━━━━
《王都地下迷宮《星喰いの大穴》》
管理者通知。
第十一階層《古代迷宮の星温室》に異常を検出。
異常地点
《星温室種子保管庫》
異常対象
未登録種子
《無形世界樹の種》
状態変化
存在反応:なし
↓
微弱反応を確認。
推定原因
《天穀米》の現代環境発芽記録受信。
新たな未来の成立を感知した可能性があります。
━━━━━━━━━━
「《無形世界樹の種》が反応した」
三人と一匹の視線が。
一斉にリリスへ向けられる。
「今から行く、と言うなよ」
シグレが先に釘を刺す。
「定期確認は一週間後です」
フィオナも続けた。
「今日は灌漑核の調整がある!」
リゼットも逃げ道を塞ぐ。
『昼食を食べ終えていない』
「……今日は行かないよ」
『本当か』
「通知を記録して、遠隔監視だけにする」
━━━━━━━━━━
《無形世界樹の種》
遠隔観測を開始。
持ち出し:禁止
直接干渉:禁止
発芽促進:禁止
観察のみ:許可
━━━━━━━━━━
「何もしない」
『珍しく学習したな』
「魔神化も封印されたし」
「それとこれとは別です」
「でも、みんなに止められる前に自分で止まったよ」
「少し成長しましたね」
「少し?」
「かなり成長した」
フィオナが言い直す。
リリスは満足そうに頷き。
残っていたサンドイッチを一口食べた。
目の前には。
水を湛えた小さな水田。
そこへ並ぶ。
百十九本の《天穀米》。
まだ収穫までは遠い。
だが。
未来の白米へ繋がる最初の一歩は。
確かに始まっていた。




