第八十話 夜天淫魔神ノクティルシア
翌朝。
リリスが目を覚ました時。
屋敷の外から、規則正しい金属音が聞こえていた。
甲高い音。
重く響く音。
魔力回路が起動する、小さな駆動音。
「……もう作業してる?」
窓の外は。
ようやく朝日が昇り始めたばかりだった。
リリスは白いシャツと黒いショートパンツへ着替え。
暗灰色の布マスクを手に取ってから。
屋敷の南側へ向かった。
◇◇◇
庭園の一角。
昨日まで芝生だった場所には。
既に十数本もの杭が打ち込まれていた。
土地の中央では。
リゼットが《蒼炉戦槌》を振るっている。
「そこ、あと三十センチ右!」
「承知しました!」
庭師たちが杭の位置を調整する。
リゼットは空中へ浮かべた半透明の設計図を見ながら、次々と指示を飛ばしていた。
青黒い短髪。
作業帽の上にはゴーグル。
青と白を基調とした作業服。
腰には無数の工具。
背中には、本人の身長に近い巨大な戦槌。
昨日仲間になったばかりとは思えないほど。
既に屋敷の作業現場へ馴染んでいる。
「おはよう、リゼット」
「おはよう! ちょうどよかった!」
「何が?」
「水田用の地脈接続位置を決めたいの! 普通の水路でも育つけど、《天穀米》なら魔力を含んだ水を循環させた方がいいでしょ?」
「うん」
リリスは《万象解析》を発動した。
━━━━━━━━━━
屋敷南部地下地脈
魔力濃度:良好
水属性適性:中
地属性適性:高
生命属性適性:高
推奨接続地点:三か所
━━━━━━━━━━
「ここ、ここ。それから向こう」
「三系統?」
「一つが止まっても、残り二つで維持できるようにする」
リゼットの青い瞳が輝く。
「それ、私が考えてた構造と同じ!」
『加入二日目にして、完全に意気投合しているな』
クロが朝露の残る芝生へ座った。
「師匠。リゼット。朝食の時間ですよ」
フィオナが屋敷の方から声を掛ける。
その隣には。
白銀の長髪を結び直したシグレもいた。
「食べてからにしろ。二人とも、放っておけば昼まで作業する顔をしている」
「設計だけ終わらせたら」
「駄目です」
フィオナが笑顔のまま言った。
「はい」
「分かった」
リリスとリゼットが同時に答える。
『本当に似た者が増えたものだ』
◇◇◇
食堂には。
焼きたてのパン。
卵料理。
厚切りの燻製肉。
野菜のスープ。
星蜜葡萄を使った果実ソースが並んでいた。
「お米が収穫できたら、朝から白米も選べるようにしたい」
リリスが卵を見ながら言う。
「卵かけご飯ですね」
「うん」
「生の卵を米に掛けるの?」
リゼットが首を傾げた。
「新鮮で安全な卵なら美味しいよ」
「味噌汁と焼き魚も合う」
シグレが静かに加える。
「シグレが言うなら信用できそう」
「私だと?」
「リリスは食べ物の話になると、時々止まらないから」
『正しい判断だ』
「美味しいものを教えてるだけなのに」
穏やかな朝食。
新しい仲間が増えた食卓。
リゼットは最初こそ周囲を気にしていたが。
マルタが焼いたパンを二つ食べ。
燻製肉を追加し。
最後には、星蜜葡萄のソースまで綺麗に食べ切っていた。
「屋敷の食事、毎日これくらい美味しいの?」
「料理長のマルタが作ってくれるから」
「工房に泊まり込まなくてよかったかも」
「泊まり込みは禁止だよ」
「三日くらいなら」
「一日でも駄目です」
フィオナが即座に止めた。
「工房の隣に仮眠室を――」
「造らないよ」
「リリスまで……」
「私もセバスに怒られるから」
説得力があるような。
ないような理由だった。
◇◇◇
朝食後。
リリスたちは地下工房へ移動した。
今日の目的は。
《自動灌漑魔導核》の解析と小型化。
そして。
リゼットが今後使用する専用工房の設計だった。
「古代術式をそのまま複製すると、普通の職人には修理できない」
リゼットが設計図を広げる。
「だから機能を分割する。給水、濾過、魔力付与、流量調整、緊急停止。五つの部品を交換式にすれば、一か所が壊れても全部止まらない」
「自動修復は?」
「入れたいけど、高級素材が必要になる」
「《魔銀》くらいなら使えるよ」
「魔銀を農業設備に?」
「長く使える方がいいから」
「また原価を無視してる」
『お前が止める側になるとはな』
「高級素材は使いたいけど、将来ほかの農家にも広めるなら、安い型も必要でしょ」
リゼットは二枚目の設計図を開いた。
━━━━━━━━━━
《星流灌漑核》
屋敷用高性能型
主要素材
・魔銀
・銀鋼
・高純度魔晶
・精霊湧水
・古代生命樹の樹液
機能
・自動給水
・水質浄化
・魔力濃度調整
・流量管理
・土壌水分測定
・故障部位自動隔離
━━━━━━━━━━
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《簡易灌漑魔導器》
普及型
主要素材
・鋼
・銅鋼
・低級魔晶
機能
・定時給水
・流量調整
・水不足警告
・手動緊急停止
━━━━━━━━━━
「二種類作ったの?」
「屋敷用と、一般向け」
「いいね」
「でしょ?」
リゼットが誇らしげに胸を張る。
加入したばかりなのに。
既に自分の技術を、屋敷だけでなく外へ役立てる方法まで考えている。
「《人材適性分析》は正しかったね」
「何の話?」
「リゼットは、すごくいい技師だってこと」
「……まだ試作品もできてない」
「設計を見れば分かるよ」
リゼットは一瞬黙り。
誤魔化すようにゴーグルの位置を直した。
「早く試作品を作る!」
◇◇◇
午前中。
二人は《星流灌漑核》の試作品を完成させた。
リリスが素材の精製と主要部品の錬成を担当し。
リゼットが組み立てと魔導回路の調整を行う。
リリスなら。
一人ですべてを完成させることもできた。
だが。
リゼットは、リリスが思い付かなかった工夫を何度も加えた。
「この回路、少し遠回りじゃない?」
「わざと。真っ直ぐ繋ぐと、一か所壊れた時に全部へ負荷が流れるから」
「なるほど」
「こっちは?」
「自動修復用の予備素材」
「外側じゃなくて、内部に置いた方が交換しやすい」
「確かに」
『互いに学んでいるようだな』
「一緒に作るの、楽しい」
「私も!」
リゼットが笑った。
その直後。
工房の奥から。
低い脈動音が響いた。
どくん。
まるで。
巨大な心臓が鼓動したような音。
リリスの表情が変わる。
「師匠?」
厳重に封印された保管区画。
そこに収められているのは。
《異界邪神の神格片》。
昨日よりも強い。
黒紫色の光が、箱の隙間から漏れていた。
━━━━━━━━━━
警告。
《異界邪神の神格片》との共鳴率が急上昇しています。
浄化率
72%
↓
81%
↓
93%
進化候補
《夜天淫魔神》
神格進化核の自動構築を確認。
進行率
8%
↓
27%
↓
51%
原因
・《異界神格簒奪者》
・《邪神喰らい》
・《神格浄化統合》
・《創世神格因子》
・新たな仲間との契約による神格器拡張
━━━━━━━━━━
「新しい仲間との契約も関係してる?」
『お前の力が、自分だけのものではなくなっているからだろう』
クロが立ち上がる。
フィオナとシグレも、すぐにリリスの左右へ移動した。
「危険なのですか?」
「今のところは大丈夫。でも、このままだと神格片が勝手に進化核へ変わる」
「止められるのか」
「止められる」
リリスは表示を読む。
最後まで。
一つも飛ばさずに。
━━━━━━━━━━
選択肢
一、共鳴を停止する。
進化は延期されます。
二、神格片を完全封印する。
進化候補の一部が失われる可能性があります。
三、進化核の形成を管理下へ置く。
必要工程
・邪神本体との接続完全遮断
・神格情報の完全浄化
・所有者人格の固定
・魔王神格との統合
・色欲神格の安全確認
推奨
三を選択する場合、複数の監督者を配置してください。
━━━━━━━━━━
「監督者ならいる」
『私が見る』
「私もです」
「私も立ち会う」
フィオナ。
シグレ。
クロが即座に答える。
「私は?」
リゼットが尋ねた。
「加入したばかりだよ」
「だから何? 神格のことは分からないけど、魔導炉や回路が暴走した時なら役に立てる」
リゼットは真っ直ぐリリスを見た。
「仲間になったんでしょ?」
「……うん」
「なら、外さないで」
「分かった」
リリスは第三の選択肢へ触れた。
━━━━━━━━━━
神格進化核の形成を管理下へ移行。
監督者
・冥獄神狼クロ
・フィオナ・ルーヴェル
・シグレ・ヤルク
・リゼット・ヴァルカン
緊急停止権限を共有します。
━━━━━━━━━━
◇◇◇
通常の工房では危険がある。
リリスたちは。
地下工房から《異界訓練領域》へ転移した。
広大な白い平原。
空には。
外界と繋がらない人工の星空。
地平線まで、幾重もの結界が展開されている。
━━━━━━━━━━
《異界訓練領域》
進化用安全設定を起動。
・外界完全隔離
・世界外接続遮断
・魂魄固定
・人格情報保護
・神格暴走抑制
・精神汚染遮断
・致命的変化無効
・緊急進化停止
・強制人間形態復帰
━━━━━━━━━━
『今回は十分に準備したな』
「前より成長してる」
「昨日も同じことを言っていましたね」
フィオナが小さく笑う。
リリスは。
封印箱から《異界邪神の神格片》を取り出した。
手のひらほどの黒い結晶。
内部には。
星のない宇宙のような暗闇が広がっている。
「直接吸収はしない」
『よし』
「《神格完全解析》《世界外本体探知》」
邪神本体と繋がる経路を、一つずつ確認する。
表面。
内部。
神格記録。
概念層。
因果層。
魂魄層。
存在情報層。
━━━━━━━━━━
邪神本体との接続経路:81本
切断処理を開始。
81
↓
43
↓
12
↓
1
↓
0
再接続防止術式:構築完了
━━━━━━━━━━
「《神格浄化統合》《神呪逆流》《権能干渉遮断》」
神格片から。
黒い煙のような邪気が噴き出す。
だが。
それはリリスへ届く前に、白金色の炎によって焼き払われた。
邪悪な意思。
他者を喰らおうとする衝動。
世界を侵食する性質。
それらをすべて除去する。
残すのは。
純粋な神格の器。
異界へ干渉する力。
世界外へ耐える性質。
神性を受け止める構造だけ。
━━━━━━━━━━
《異界邪神の神格片》
邪神人格情報:消去
精神汚染:消去
魂魄侵食:消去
世界外接続:消去
神格容量:維持
異界適性:維持
神性強度:維持
浄化率:100%
━━━━━━━━━━
「次に、私の力を入れる」
リリスの胸元から。
複数の光が現れる。
黒紫色の魔王神格。
深紅の《色欲》。
星なき夜を思わせる深淵属性。
銀色の月光。
異界神格を奪った証。
仲間たちとの間を結ぶ、淡い光の糸。
「《神性素材融合》《神格浄化統合》《超越技能統合制御》」
浄化された神格片が。
ゆっくりと形を変える。
黒い結晶。
紫色の宝玉。
深紅の心臓。
白金色の月。
何度も姿を変えた後。
一つの八芒星型の結晶へ収束した。
━━━━━━━━━━
《夜天魔神進化核》
品質:神格級
所有者:リリス・ルクスヴィア
適合率:100%
構成神格
・魔王
・夜天
・淫魔
・色欲
・深淵
・異界
・神格捕食
安全性
・人格変質:なし
・精神汚染:なし
・魂魄侵食:なし
・邪神本体との接続:なし
警告
進化後に発現する一部固有神域の詳細を解析できません。
━━━━━━━━━━
「解析できない項目がある」
シグレが眉を寄せた。
「邪神の時と同じではないのか」
「今回は危険度も解除方法も確認できてる」
『“一部を除いて”だ』
「進化したら分かると思う」
『その考え方をやめろと言っている』
「でも、緊急停止権限はみんなに渡してる」
リリスは。
進化後に起こり得る変化。
解除方法。
人格への影響。
魂魄状態。
確認できる項目を、すべて読み終えた。
「進化する」
八芒星の結晶が。
黒紫色の光へ変わる。
そして。
リリスの胸元へ吸い込まれた。
━━━━━━━━━━
特殊神格進化を開始します。
進化前
《魔王種ルクスヴィア》
職業
《魔王》
↓
進化後
《夜天淫魔神》
職業
《夜天の淫魔皇》
神格階位
魔神級
━━━━━━━━━━
リリスの足元から。
巨大な黒紫色の魔法陣が広がった。
夜。
月。
星。
黒薔薇。
八枚の翼。
無数の紋様が重なり合い、白い平原を覆っていく。
短い黒髪が。
一気に伸びた。
肩。
背中。
腰。
さらに太腿の近くまで。
艶やかな長い黒髪には。
紫黒と深紅の光が流れ。
重力を忘れたように、宙へ広がる。
額の両側から。
優美に湾曲した巨大な黒い角が伸びた。
さらに。
王冠を思わせる小さな角が、その間へ並ぶ。
背中が光る。
一対。
二対。
三対。
四対。
合計八枚の巨大な翼。
上部の翼は。
漆黒の羽毛へ星の光を宿し。
中央の翼は。
竜と悪魔を思わせる紫黒の翼膜。
下部の翼は。
黒い霧と月光が形を成したような半透明の翼だった。
「八枚……」
リゼットが呆然と見上げる。
リリスの肌へ。
赤紫色と黒金色の魔神紋様が浮かび上がる。
額。
首筋。
胸元。
腹部。
腕。
腰。
太腿。
魔力回路のような紋様が。
心臓の鼓動に合わせて淡く明滅する。
瞳は赤紫色へ変化し。
瞳孔の周囲には。
金。
黒。
深淵色。
三重の光輪が浮かんだ。
耳は僅かに尖り。
腰の後ろから、細長い黒い尾が伸びる。
頭上には。
黒い月を中心とする神輪。
背後には。
八枚の翼を象徴する巨大な夜天魔法陣。
周囲には。
黒い星。
三日月の欠片。
紫黒色の羽根。
深紅の花弁が浮遊する。
リリスの右手にある指輪が輝いた。
━━━━━━━━━━
《魔王鎧装》
神格変身を確認。
専用形態を解放します。
《夜天淫魔神鎧装》
━━━━━━━━━━
漆黒の全身鎧が。
魔力の粒子となって展開される。
通常形態の重厚なフルプレートとは異なり。
魔神化したリリスの身体へ合わせ。
鎧は妖艶で優美な姿へ変化した。
胸元を包む黒金の装甲。
細い腰へ沿う紫黒色の胴鎧。
腰の左右へ広がる翼状の装甲。
脚線へ密着する神装脚甲。
肘上まで覆う長い籠手。
装甲の隙間から見える肌には。
透明な神格装甲と幾重もの防御障壁が展開されている。
黒薔薇。
三日月。
八翼。
魔王紋章。
神金色の装飾が、身体の各所で淡く輝いた。
「格好いい?」
僅かな多重音を帯びた声で。
リリスが尋ねた。
しかし。
誰も答えなかった。
「……みんな?」
リリスの魔神化と同時に。
黒紫色の波動が。
既に異界訓練領域の全域へ広がっていた。
結界。
精神防御。
魂魄固定。
進化用の安全機構。
それらをすり抜け。
生き物の生命本能へ直接食い込む、淫魔神の絶対領域。
━━━━━━━━━━
固有神域が発現しました。
《淫魔神域》
発動方式
《魔神化》中、常時強制発動。
効果
領域内の生物へ、神格級状態異常《強制発情》を付与します。
干渉対象
・肉体
・精神
・魂魄
・生命本能
・繁殖本能
所有者による制御
・発動停止:不可能
・範囲変更:不可能
・対象除外:不可能
・効果軽減:不可能
・防護:不可能
・解除:不可能
唯一の停止方法
《魔神化》を解除すること。
━━━━━━━━━━
「対象除外も……できない?」
リリスが息を呑む。
「《超越技能統合制御》」
領域は止まらない。
「《因果遮断》《権能干渉遮断》」
黒紫色の波動は揺らぎさえしない。
「《絶対魔法防御》《魂魄固定》」
防御術式そのものが。
淫魔神域に干渉できない。
それは攻撃ではなかった。
魔法でもなかった。
魔神化したリリスがそこに存在するだけで発生する、神格そのものの性質。
「師匠……」
フィオナが苦しそうに声を漏らした。
頬が熱を帯び。
呼吸が浅く乱れている。
両手で胸元を押さえ。
必死に意識を保とうとしていた。
「これは……まずい」
シグレも。
《白雨星刀》の鞘を杖のように床へ突き立てている。
額には汗。
息は荒く。
普段の冷静な瞳が僅かに揺らいでいた。
「頭が……上手く、回らない……」
リゼットが膝をつく。
工具袋の金具が床へ触れ。
小さな音を立てた。
そして。
クロでさえ。
四本の脚を大きく開いて身体を支え。
口を開き。
激しく荒い息を吐いていた。
『はっ……はっ……リリス……』
「クロまで……」
『今すぐ……解除しろ……!』
冥獄神狼。
神性と深淵の力を宿すクロさえ。
領域の影響を防ぐことができない。
━━━━━━━━━━
《淫魔神域》影響状況
フィオナ・ルーヴェル
神格干渉率:上昇中
シグレ・ヤルク
神格干渉率:上昇中
リゼット・ヴァルカン
神格干渉率:上昇中
冥獄神狼クロ
神格干渉率:上昇中
防御成功者:0
━━━━━━━━━━
「待って。今、止める方法を――」
「ありません!」
フィオナが。
苦しげな呼吸の中で、強く言い切った。
「師匠……魔神化を、解除してください!」
「でも、まだ能力の確認が」
「確認は後だ!」
シグレが声を張る。
「リリス! 今すぐ元へ戻れ!」
「この状態で解析を続けるつもり!?」
リゼットも。
床へ片手をつきながら、リリスを睨んだ。
「私たちが駄目になる前に解除して!」
『聞こえなかったのか……!』
クロが牙を見せる。
だが。
敵意ではない。
リリスを止めるための、必死の警告だった。
『魔神化を止めろ! 今すぐだ!』
「……分かった」
四人全員に止められ。
リリスはようやく頷いた。
「《魔神化》解除」
八枚の翼が。
黒紫色の光へ変わる。
角。
尾。
神輪。
身体の魔神紋様。
長く伸びていた黒髪。
妖艶な魔神鎧。
すべてが、崩れるように消えていった。
それと同時に。
異界訓練領域を満たしていた黒紫色の神格波動が消滅する。
━━━━━━━━━━
《魔神化》を解除しました。
《淫魔神域》消滅。
《強制発情》の付与を停止。
残留神格干渉を除去します。
━━━━━━━━━━
リリスは即座に。
四人へ回復と状態解除を発動した。
「《状態異常完全解除》《生命魔法》《魂魄固定》」
白金色の光が。
フィオナ。
シグレ。
リゼット。
クロを包み込む。
乱れていた呼吸が。
少しずつ落ち着いていった。
━━━━━━━━━━
神格干渉除去完了。
後遺症:なし
精神汚染:なし
魂魄損傷:なし
記憶障害:なし
依存性:なし
━━━━━━━━━━
「みんな、大丈夫?」
「……大丈夫です」
フィオナは答えたが。
いつもの柔らかな笑顔はない。
シグレも。
険しい表情のままリリスを見ていた。
「リリス」
「うん」
「もう一度、魔神化してみる、などと言うなよ」
「でも、隔離領域なら――」
「駄目です」
フィオナが即座に遮った。
「私たちへも防げなかったのですよ」
「今度は、もっと離れれば」
「距離の問題じゃない!」
リゼットが声を上げる。
「領域全体へ一瞬で広がった! 防護も対象除外もできない! そんなものを使って、何かあったらどうするの!」
『私も反対だ』
クロが。
まだ僅かに荒い息を吐きながら言う。
『この領域には、私の耐性すら通用しなかった。敵味方を区別せず、生物であれば強制的に侵食する。戦闘で使えば、仲間も巻き込む』
「……クロまで反対するんだ」
『当たり前だ』
クロは金色の瞳を細める。
『お前の力を否定しているのではない。使えば、お前自身が望まぬ被害を出すから止めている』
リリスは。
四人の顔を順番に見た。
フィオナ。
シグレ。
リゼット。
クロ。
全員が。
同じ意思でリリスを見つめている。
━━━━━━━━━━
監督者による共同判断が提出されました。
対象
《魔神化》
判断
使用禁止
賛成
・クロ
・フィオナ
・シグレ
・リゼット
反対
・なし
所有者
・保留
緊急停止権限を行使しますか?
━━━━━━━━━━
「全員一致……」
『当然だ』
「師匠のためでもあります」
「今のお前は、力の影響を受けないから危険性を実感しにくい」
「自分だけ平気だからって、実験を続けるのは駄目」
三人と一匹から。
完全に逃げ道を塞がれた。
「……分かった」
リリスは表示へ触れた。
━━━━━━━━━━
監督者による緊急停止権限を承認。
固有変身《魔神化》を封印します。
封印方式
・所有者単独解除:不可能
・監督者全員の承認:必要
・世界滅亡級緊急事態:例外審査
・領域制御法の確立:再審査可能
━━━━━━━━━━
《魔神化》封印完了。
《夜天淫魔神》の神格は保持されます。
通常人間偽装への影響:なし
既存能力への影響:なし
━━━━━━━━━━
「封印されちゃった」
『自業自得だ』
「進化した日に変身禁止になるとはな」
「珍しいですよね」
「珍しいで済ませることじゃないから」
リゼットが疲れたように息を吐く。
「あと、次に解析不能って出たら、勝手に進めないこと」
「みんなに相談する」
「相談して、全員が許可するまで進めない」
「はい」
リリスは素直に頷いた。
◇◇◇
しばらく休んだ後。
リリスは改めて、自分の状態を確認した。
━━━━━━━━━━
リリス・ルクスヴィア
種族
《夜天淫魔神》
通常偽装種族
人族
神格階位
魔神級
職業
《神級錬金術師》
《真の勇者》
《夜天の淫魔皇》
固有変身
《魔神化》
現在状態:封印
固有神域
《淫魔神域》
特性
・魔神化中、常時強制発動
・所有者による制御不能
・敵味方識別不能
・種族識別不能
・対象除外不能
・防護不能
・魔神化解除によってのみ停止
━━━━━━━━━━
「種族は魔神のままなんだ」
『変身できないだけだ』
「魔神級の基礎能力や神格は残っているのですね」
「うん。夜天神格、魔王神格、異界神格も使える」
「なら、魔神化しなくても十分に強いだろう」
シグレの言葉に。
全員が頷いた。
「八枚の翼は格好よかったのに」
「そこですか?」
「鎧の変形構造はすごかった」
リゼットも、そこだけは認める。
「でも、もう一度見るために変身するのは禁止」
「設計記録は残ってるよ」
「なら、そっちを見せて」
『切り替えが早いな』
◇◇◇
屋敷へ戻った頃には。
既に夕方になっていた。
セバスとエレナへ。
リリスは魔神へ進化したこと。
そして。
魔神化と同時に制御不能の《淫魔神域》が発生したことを説明した。
「つまり、魔神化なさっている間は、周囲のすべての生物へ影響が及ぶのでございますね」
「うん。私にも止められない」
「既に封印なさったと」
「みんなに止められた」
「当然の御判断でございます」
セバスは。
迷うことなく言い切った。
「セバスも反対?」
「無論でございます」
「エレナも?」
「失礼ながら、反対いたします」
エレナも深く頭を下げる。
「リリス様御自身が望まれぬ形で、周囲の方々へ影響を与えてしまう力でございます。制御方法が確立するまでは、封印が妥当かと存じます」
「全員反対……」
『諦めろ』
━━━━━━━━━━
《魔神化》封印維持への追加同意
・セバス・アルヴァイン
・エレナ・ヴァイス
賛成者:6名
反対者:0名
━━━━━━━━━━
「表示まで増えた」
「師匠。勝手に解除しないでくださいね」
「私一人じゃ解除できないよ」
「解除できるように改造するのも禁止」
リゼットに先回りされた。
「まだ何も言ってない」
「考えた顔をしてた」
『分かりやすいからな』
◇◇◇
夕食後。
リリスは自室へ戻った。
窓辺に立ち。
王都の夜景を見つめる。
遥か遠くに輝く魔導灯。
家路を急ぐ人々。
厩舎で休む馬。
屋根の上を歩く猫。
庭園の木々へ巣を作る小鳥。
もし。
この場所で《魔神化》していたら。
それらすべてを。
制御不能の神域へ巻き込んでいた。
「……封印してよかったかも」
『ようやく理解したか』
ベッドの横で休んでいたクロが答える。
「クロ、本当に大丈夫?」
『既に回復している』
「荒い息を吐いてたから」
『思い出させるな』
「ごめん」
『謝るなら、二度と勝手に解除するな』
「うん」
魔神への進化は。
終着点ではない。
だが。
新しい力のすべてが。
便利で安全とは限らなかった。
自分に止められない力なら。
仲間に止めてもらう。
それもまた。
一人で冒険していた頃には得られなかった、大切な仕組みだった。
━━━━━━━━━━
特殊進化完了。
《夜天淫魔神》
神格定着率:100%
固有変身
《魔神化》
現在状態:完全封印
封印解除条件
・監督者全員の承認
・《淫魔神域》制御法の確立
・安全性の再検証
次期上位進化候補
名称:未確定
推定階位:創世神級
必要条件:解析不能
現在の進化段階
魔神
↓
???
↓
《創世神》
━━━━━━━━━━
「まだ先がある」
未来に一瞬だけ現れた。
白い長髪。
十二枚の巨大な翼。
金色の《創世眼》。
世界と星を背負う、創世神としての自分。
そこへ至るまで。
まだ多くの力と経験が必要になる。
だが。
急ぐ必要はない。
今は。
新しい仲間。
新しい工房。
水田と畑。
迷宮の第十二階層。
やりたいことが、いくらでもある。
「まずは、お米だね」
『魔神化を封印された直後に考えることが、それか』
「大事だから」
『知っている』
リリスは窓を閉じ。
机の上へ置かれていた水田の設計図を開いた。
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《夜天淫魔神》
最初の長期計画
・天穀米の栽培
禁止事項
・水田造成への《魔神化》使用
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「八枚の翼で田植えしたら速そうなのに」
『絶対にするな』
「封印されてるからできないよ」
『そういう問題ではない』
夜天の魔神となったリリスは。
魔神化したその日のうちに。
仲間たちの全員一致によって、その変身を封印された。
そしてその夜も。
制御不能の神格や最強の力ではなく。
美味しい白米を育てるための水田について、遅くまで考えていた。




