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第八十話 夜天淫魔神ノクティルシア



 翌朝。


 リリスが目を覚ました時。


 屋敷の外から、規則正しい金属音が聞こえていた。


 甲高い音。


 重く響く音。


 魔力回路が起動する、小さな駆動音。


「……もう作業してる?」


 窓の外は。


 ようやく朝日が昇り始めたばかりだった。


 リリスは白いシャツと黒いショートパンツへ着替え。


 暗灰色の布マスクを手に取ってから。


 屋敷の南側へ向かった。


◇◇◇


 庭園の一角。


 昨日まで芝生だった場所には。


 既に十数本もの杭が打ち込まれていた。


 土地の中央では。


 リゼットが《蒼炉戦槌》を振るっている。


「そこ、あと三十センチ右!」


「承知しました!」


 庭師たちが杭の位置を調整する。


 リゼットは空中へ浮かべた半透明の設計図を見ながら、次々と指示を飛ばしていた。


 青黒い短髪。


 作業帽の上にはゴーグル。


 青と白を基調とした作業服。


 腰には無数の工具。


 背中には、本人の身長に近い巨大な戦槌。


 昨日仲間になったばかりとは思えないほど。


 既に屋敷の作業現場へ馴染んでいる。


「おはよう、リゼット」


「おはよう! ちょうどよかった!」


「何が?」


「水田用の地脈接続位置を決めたいの! 普通の水路でも育つけど、《天穀米》なら魔力を含んだ水を循環させた方がいいでしょ?」


「うん」


 リリスは《万象解析》を発動した。


━━━━━━━━━━


屋敷南部地下地脈


魔力濃度:良好


水属性適性:中


地属性適性:高


生命属性適性:高


推奨接続地点:三か所


━━━━━━━━━━


「ここ、ここ。それから向こう」


「三系統?」


「一つが止まっても、残り二つで維持できるようにする」


 リゼットの青い瞳が輝く。


「それ、私が考えてた構造と同じ!」


『加入二日目にして、完全に意気投合しているな』


 クロが朝露の残る芝生へ座った。


「師匠。リゼット。朝食の時間ですよ」


 フィオナが屋敷の方から声を掛ける。


 その隣には。


 白銀の長髪を結び直したシグレもいた。


「食べてからにしろ。二人とも、放っておけば昼まで作業する顔をしている」


「設計だけ終わらせたら」


「駄目です」


 フィオナが笑顔のまま言った。


「はい」


「分かった」


 リリスとリゼットが同時に答える。


『本当に似た者が増えたものだ』


◇◇◇


 食堂には。


 焼きたてのパン。


 卵料理。


 厚切りの燻製肉。


 野菜のスープ。


 星蜜葡萄を使った果実ソースが並んでいた。


「お米が収穫できたら、朝から白米も選べるようにしたい」


 リリスが卵を見ながら言う。


「卵かけご飯ですね」


「うん」


「生の卵を米に掛けるの?」


 リゼットが首を傾げた。


「新鮮で安全な卵なら美味しいよ」


「味噌汁と焼き魚も合う」


 シグレが静かに加える。


「シグレが言うなら信用できそう」


「私だと?」


「リリスは食べ物の話になると、時々止まらないから」


『正しい判断だ』


「美味しいものを教えてるだけなのに」


 穏やかな朝食。


 新しい仲間が増えた食卓。


 リゼットは最初こそ周囲を気にしていたが。


 マルタが焼いたパンを二つ食べ。


 燻製肉を追加し。


 最後には、星蜜葡萄のソースまで綺麗に食べ切っていた。


「屋敷の食事、毎日これくらい美味しいの?」


「料理長のマルタが作ってくれるから」


「工房に泊まり込まなくてよかったかも」


「泊まり込みは禁止だよ」


「三日くらいなら」


「一日でも駄目です」


 フィオナが即座に止めた。


「工房の隣に仮眠室を――」


「造らないよ」


「リリスまで……」


「私もセバスに怒られるから」


 説得力があるような。


 ないような理由だった。


◇◇◇


 朝食後。


 リリスたちは地下工房へ移動した。


 今日の目的は。


 《自動灌漑魔導核》の解析と小型化。


 そして。


 リゼットが今後使用する専用工房の設計だった。


「古代術式をそのまま複製すると、普通の職人には修理できない」


 リゼットが設計図を広げる。


「だから機能を分割する。給水、濾過、魔力付与、流量調整、緊急停止。五つの部品を交換式にすれば、一か所が壊れても全部止まらない」


「自動修復は?」


「入れたいけど、高級素材が必要になる」


「《魔銀》くらいなら使えるよ」


「魔銀を農業設備に?」


「長く使える方がいいから」


「また原価を無視してる」


『お前が止める側になるとはな』


「高級素材は使いたいけど、将来ほかの農家にも広めるなら、安い型も必要でしょ」


 リゼットは二枚目の設計図を開いた。


━━━━━━━━━━


《星流灌漑核》


屋敷用高性能型


主要素材


・魔銀


・銀鋼


・高純度魔晶


・精霊湧水


・古代生命樹の樹液


機能


・自動給水


・水質浄化


・魔力濃度調整


・流量管理


・土壌水分測定


・故障部位自動隔離


━━━━━━━━━━


━━━━━━━━━━


《簡易灌漑魔導器》


普及型


主要素材


・鋼


・銅鋼


・低級魔晶


機能


・定時給水


・流量調整


・水不足警告


・手動緊急停止


━━━━━━━━━━


「二種類作ったの?」


「屋敷用と、一般向け」


「いいね」


「でしょ?」


 リゼットが誇らしげに胸を張る。


 加入したばかりなのに。


 既に自分の技術を、屋敷だけでなく外へ役立てる方法まで考えている。


「《人材適性分析》は正しかったね」


「何の話?」


「リゼットは、すごくいい技師だってこと」


「……まだ試作品もできてない」


「設計を見れば分かるよ」


 リゼットは一瞬黙り。


 誤魔化すようにゴーグルの位置を直した。


「早く試作品を作る!」


◇◇◇


 午前中。


 二人は《星流灌漑核》の試作品を完成させた。


 リリスが素材の精製と主要部品の錬成を担当し。


 リゼットが組み立てと魔導回路の調整を行う。


 リリスなら。


 一人ですべてを完成させることもできた。


 だが。


 リゼットは、リリスが思い付かなかった工夫を何度も加えた。


「この回路、少し遠回りじゃない?」


「わざと。真っ直ぐ繋ぐと、一か所壊れた時に全部へ負荷が流れるから」


「なるほど」


「こっちは?」


「自動修復用の予備素材」


「外側じゃなくて、内部に置いた方が交換しやすい」


「確かに」


『互いに学んでいるようだな』


「一緒に作るの、楽しい」


「私も!」


 リゼットが笑った。


 その直後。


 工房の奥から。


 低い脈動音が響いた。


 どくん。


 まるで。


 巨大な心臓が鼓動したような音。


 リリスの表情が変わる。


「師匠?」


 厳重に封印された保管区画。


 そこに収められているのは。


 《異界邪神の神格片》。


 昨日よりも強い。


 黒紫色の光が、箱の隙間から漏れていた。


━━━━━━━━━━


警告。


《異界邪神の神格片》との共鳴率が急上昇しています。


浄化率


72%



81%



93%


進化候補


夜天淫魔神ノクティルシア


神格進化核の自動構築を確認。


進行率


8%



27%



51%


原因


・《異界神格簒奪者》


・《邪神喰らい》


・《神格浄化統合》


・《創世神格因子》


・新たな仲間との契約による神格器拡張


━━━━━━━━━━


「新しい仲間との契約も関係してる?」


『お前の力が、自分だけのものではなくなっているからだろう』


 クロが立ち上がる。


 フィオナとシグレも、すぐにリリスの左右へ移動した。


「危険なのですか?」


「今のところは大丈夫。でも、このままだと神格片が勝手に進化核へ変わる」


「止められるのか」


「止められる」


 リリスは表示を読む。


 最後まで。


 一つも飛ばさずに。


━━━━━━━━━━


選択肢


一、共鳴を停止する。


進化は延期されます。


二、神格片を完全封印する。


進化候補の一部が失われる可能性があります。


三、進化核の形成を管理下へ置く。


必要工程


・邪神本体との接続完全遮断


・神格情報の完全浄化


・所有者人格の固定


・魔王神格との統合


・色欲神格の安全確認


推奨


三を選択する場合、複数の監督者を配置してください。


━━━━━━━━━━


「監督者ならいる」


『私が見る』


「私もです」


「私も立ち会う」


 フィオナ。


 シグレ。


 クロが即座に答える。


「私は?」


 リゼットが尋ねた。


「加入したばかりだよ」


「だから何? 神格のことは分からないけど、魔導炉や回路が暴走した時なら役に立てる」


 リゼットは真っ直ぐリリスを見た。


「仲間になったんでしょ?」


「……うん」


「なら、外さないで」


「分かった」


 リリスは第三の選択肢へ触れた。


━━━━━━━━━━


神格進化核の形成を管理下へ移行。


監督者


・冥獄神狼クロ


・フィオナ・ルーヴェル


・シグレ・ヤルク


・リゼット・ヴァルカン


緊急停止権限を共有します。


━━━━━━━━━━


◇◇◇


 通常の工房では危険がある。


 リリスたちは。


 地下工房から《異界訓練領域》へ転移した。


 広大な白い平原。


 空には。


 外界と繋がらない人工の星空。


 地平線まで、幾重もの結界が展開されている。


━━━━━━━━━━


《異界訓練領域》


進化用安全設定を起動。


・外界完全隔離


・世界外接続遮断


・魂魄固定


・人格情報保護


・神格暴走抑制


・精神汚染遮断


・致命的変化無効


・緊急進化停止


・強制人間形態復帰


━━━━━━━━━━


『今回は十分に準備したな』


「前より成長してる」


「昨日も同じことを言っていましたね」


 フィオナが小さく笑う。


 リリスは。


 封印箱から《異界邪神の神格片》を取り出した。


 手のひらほどの黒い結晶。


 内部には。


 星のない宇宙のような暗闇が広がっている。


「直接吸収はしない」


『よし』


「《神格完全解析》《世界外本体探知》」


 邪神本体と繋がる経路を、一つずつ確認する。


 表面。


 内部。


 神格記録。


 概念層。


 因果層。


 魂魄層。


 存在情報層。


━━━━━━━━━━


邪神本体との接続経路:81本


切断処理を開始。


81



43



12



1



0


再接続防止術式:構築完了


━━━━━━━━━━


「《神格浄化統合》《神呪逆流》《権能干渉遮断》」


 神格片から。


 黒い煙のような邪気が噴き出す。


 だが。


 それはリリスへ届く前に、白金色の炎によって焼き払われた。


 邪悪な意思。


 他者を喰らおうとする衝動。


 世界を侵食する性質。


 それらをすべて除去する。


 残すのは。


 純粋な神格の器。


 異界へ干渉する力。


 世界外へ耐える性質。


 神性を受け止める構造だけ。


━━━━━━━━━━


《異界邪神の神格片》


邪神人格情報:消去


精神汚染:消去


魂魄侵食:消去


世界外接続:消去


神格容量:維持


異界適性:維持


神性強度:維持


浄化率:100%


━━━━━━━━━━


「次に、私の力を入れる」


 リリスの胸元から。


 複数の光が現れる。


 黒紫色の魔王神格。


 深紅の《色欲》。


 星なき夜を思わせる深淵属性。


 銀色の月光。


 異界神格を奪った証。


 仲間たちとの間を結ぶ、淡い光の糸。


「《神性素材融合》《神格浄化統合》《超越技能統合制御》」


 浄化された神格片が。


 ゆっくりと形を変える。


 黒い結晶。


 紫色の宝玉。


 深紅の心臓。


 白金色の月。


 何度も姿を変えた後。


 一つの八芒星型の結晶へ収束した。


━━━━━━━━━━


《夜天魔神進化核》


品質:神格級


所有者:リリス・ルクスヴィア


適合率:100%


構成神格


・魔王


・夜天


・淫魔


・色欲


・深淵


・異界


・神格捕食


安全性


・人格変質:なし


・精神汚染:なし


・魂魄侵食:なし


・邪神本体との接続:なし


警告


進化後に発現する一部固有神域の詳細を解析できません。


━━━━━━━━━━


「解析できない項目がある」


 シグレが眉を寄せた。


「邪神の時と同じではないのか」


「今回は危険度も解除方法も確認できてる」


『“一部を除いて”だ』


「進化したら分かると思う」


『その考え方をやめろと言っている』


「でも、緊急停止権限はみんなに渡してる」


 リリスは。


 進化後に起こり得る変化。


 解除方法。


 人格への影響。


 魂魄状態。


 確認できる項目を、すべて読み終えた。


「進化する」


 八芒星の結晶が。


 黒紫色の光へ変わる。


 そして。


 リリスの胸元へ吸い込まれた。


━━━━━━━━━━


特殊神格進化を開始します。


進化前


《魔王種ルクスヴィア》


職業ジョブ


《魔王》



進化後


夜天淫魔神ノクティルシア


職業ジョブ


《夜天の淫魔皇》


神格階位


魔神級


━━━━━━━━━━


 リリスの足元から。


 巨大な黒紫色の魔法陣が広がった。


 夜。


 月。


 星。


 黒薔薇。


 八枚の翼。


 無数の紋様が重なり合い、白い平原を覆っていく。


 短い黒髪が。


 一気に伸びた。


 肩。


 背中。


 腰。


 さらに太腿の近くまで。


 艶やかな長い黒髪には。


 紫黒と深紅の光が流れ。


 重力を忘れたように、宙へ広がる。


 額の両側から。


 優美に湾曲した巨大な黒い角が伸びた。


 さらに。


 王冠を思わせる小さな角が、その間へ並ぶ。


 背中が光る。


 一対。


 二対。


 三対。


 四対。


 合計八枚の巨大な翼。


 上部の翼は。


 漆黒の羽毛へ星の光を宿し。


 中央の翼は。


 竜と悪魔を思わせる紫黒の翼膜。


 下部の翼は。


 黒い霧と月光が形を成したような半透明の翼だった。


「八枚……」


 リゼットが呆然と見上げる。


 リリスの肌へ。


 赤紫色と黒金色の魔神紋様が浮かび上がる。


 額。


 首筋。


 胸元。


 腹部。


 腕。


 腰。


 太腿。


 魔力回路のような紋様が。


 心臓の鼓動に合わせて淡く明滅する。


 瞳は赤紫色へ変化し。


 瞳孔の周囲には。


 金。


 黒。


 深淵色。


 三重の光輪が浮かんだ。


 耳は僅かに尖り。


 腰の後ろから、細長い黒い尾が伸びる。


 頭上には。


 黒い月を中心とする神輪。


 背後には。


 八枚の翼を象徴する巨大な夜天魔法陣。


 周囲には。


 黒い星。


 三日月の欠片。


 紫黒色の羽根。


 深紅の花弁が浮遊する。


 リリスの右手にある指輪が輝いた。


━━━━━━━━━━


魔王鎧装ディザスター・レガリア


神格変身を確認。


専用形態を解放します。


《夜天淫魔神鎧装》


━━━━━━━━━━


 漆黒の全身鎧が。


 魔力の粒子となって展開される。


 通常形態の重厚なフルプレートとは異なり。


 魔神化したリリスの身体へ合わせ。


 鎧は妖艶で優美な姿へ変化した。


 胸元を包む黒金の装甲。


 細い腰へ沿う紫黒色の胴鎧。


 腰の左右へ広がる翼状の装甲。


 脚線へ密着する神装脚甲。


 肘上まで覆う長い籠手。


 装甲の隙間から見える肌には。


 透明な神格装甲と幾重もの防御障壁が展開されている。


 黒薔薇。


 三日月。


 八翼。


 魔王紋章。


 神金色の装飾が、身体の各所で淡く輝いた。


「格好いい?」


 僅かな多重音を帯びた声で。


 リリスが尋ねた。


 しかし。


 誰も答えなかった。


「……みんな?」


 リリスの魔神化と同時に。


 黒紫色の波動が。


 既に異界訓練領域の全域へ広がっていた。


 結界。


 精神防御。


 魂魄固定。


 進化用の安全機構。


 それらをすり抜け。


 生き物の生命本能へ直接食い込む、淫魔神の絶対領域。


━━━━━━━━━━


固有神域が発現しました。


淫魔神域エロス・ノクターン


発動方式


《魔神化》中、常時強制発動。


効果


領域内の生物へ、神格級状態異常《強制発情》を付与します。


干渉対象


・肉体


・精神


・魂魄


・生命本能


・繁殖本能


所有者による制御


・発動停止:不可能


・範囲変更:不可能


・対象除外:不可能


・効果軽減:不可能


・防護:不可能


・解除:不可能


唯一の停止方法


《魔神化》を解除すること。


━━━━━━━━━━


「対象除外も……できない?」


 リリスが息を呑む。


「《超越技能統合制御》」


 領域は止まらない。


「《因果遮断》《権能干渉遮断》」


 黒紫色の波動は揺らぎさえしない。


「《絶対魔法防御》《魂魄固定》」


 防御術式そのものが。


 淫魔神域に干渉できない。


 それは攻撃ではなかった。


 魔法でもなかった。


 魔神化したリリスがそこに存在するだけで発生する、神格そのものの性質。


「師匠……」


 フィオナが苦しそうに声を漏らした。


 頬が熱を帯び。


 呼吸が浅く乱れている。


 両手で胸元を押さえ。


 必死に意識を保とうとしていた。


「これは……まずい」


 シグレも。


 《白雨星刀》の鞘を杖のように床へ突き立てている。


 額には汗。


 息は荒く。


 普段の冷静な瞳が僅かに揺らいでいた。


「頭が……上手く、回らない……」


 リゼットが膝をつく。


 工具袋の金具が床へ触れ。


 小さな音を立てた。


 そして。


 クロでさえ。


 四本の脚を大きく開いて身体を支え。


 口を開き。


 激しく荒い息を吐いていた。


『はっ……はっ……リリス……』


「クロまで……」


『今すぐ……解除しろ……!』


 冥獄神狼。


 神性と深淵の力を宿すクロさえ。


 領域の影響を防ぐことができない。


━━━━━━━━━━


《淫魔神域》影響状況


フィオナ・ルーヴェル


神格干渉率:上昇中


シグレ・ヤルク


神格干渉率:上昇中


リゼット・ヴァルカン


神格干渉率:上昇中


冥獄神狼クロ


神格干渉率:上昇中


防御成功者:0


━━━━━━━━━━


「待って。今、止める方法を――」


「ありません!」


 フィオナが。


 苦しげな呼吸の中で、強く言い切った。


「師匠……魔神化を、解除してください!」


「でも、まだ能力の確認が」


「確認は後だ!」


 シグレが声を張る。


「リリス! 今すぐ元へ戻れ!」


「この状態で解析を続けるつもり!?」


 リゼットも。


 床へ片手をつきながら、リリスを睨んだ。


「私たちが駄目になる前に解除して!」


『聞こえなかったのか……!』


 クロが牙を見せる。


 だが。


 敵意ではない。


 リリスを止めるための、必死の警告だった。


『魔神化を止めろ! 今すぐだ!』


「……分かった」


 四人全員に止められ。


 リリスはようやく頷いた。


「《魔神化》解除」


 八枚の翼が。


 黒紫色の光へ変わる。


 角。


 尾。


 神輪。


 身体の魔神紋様。


 長く伸びていた黒髪。


 妖艶な魔神鎧。


 すべてが、崩れるように消えていった。


 それと同時に。


 異界訓練領域を満たしていた黒紫色の神格波動が消滅する。


━━━━━━━━━━


《魔神化》を解除しました。


淫魔神域エロス・ノクターン》消滅。


《強制発情》の付与を停止。


残留神格干渉を除去します。


━━━━━━━━━━


 リリスは即座に。


 四人へ回復と状態解除を発動した。


「《状態異常完全解除》《生命魔法》《魂魄固定》」


 白金色の光が。


 フィオナ。


 シグレ。


 リゼット。


 クロを包み込む。


 乱れていた呼吸が。


 少しずつ落ち着いていった。


━━━━━━━━━━


神格干渉除去完了。


後遺症:なし


精神汚染:なし


魂魄損傷:なし


記憶障害:なし


依存性:なし


━━━━━━━━━━


「みんな、大丈夫?」


「……大丈夫です」


 フィオナは答えたが。


 いつもの柔らかな笑顔はない。


 シグレも。


 険しい表情のままリリスを見ていた。


「リリス」


「うん」


「もう一度、魔神化してみる、などと言うなよ」


「でも、隔離領域なら――」


「駄目です」


 フィオナが即座に遮った。


「私たちへも防げなかったのですよ」


「今度は、もっと離れれば」


「距離の問題じゃない!」


 リゼットが声を上げる。


「領域全体へ一瞬で広がった! 防護も対象除外もできない! そんなものを使って、何かあったらどうするの!」


『私も反対だ』


 クロが。


 まだ僅かに荒い息を吐きながら言う。


『この領域には、私の耐性すら通用しなかった。敵味方を区別せず、生物であれば強制的に侵食する。戦闘で使えば、仲間も巻き込む』


「……クロまで反対するんだ」


『当たり前だ』


 クロは金色の瞳を細める。


『お前の力を否定しているのではない。使えば、お前自身が望まぬ被害を出すから止めている』


 リリスは。


 四人の顔を順番に見た。


 フィオナ。


 シグレ。


 リゼット。


 クロ。


 全員が。


 同じ意思でリリスを見つめている。


━━━━━━━━━━


監督者による共同判断が提出されました。


対象


《魔神化》


判断


使用禁止


賛成


・クロ


・フィオナ


・シグレ


・リゼット


反対


・なし


所有者


・保留


緊急停止権限を行使しますか?


━━━━━━━━━━


「全員一致……」


『当然だ』


「師匠のためでもあります」


「今のお前は、力の影響を受けないから危険性を実感しにくい」


「自分だけ平気だからって、実験を続けるのは駄目」


 三人と一匹から。


 完全に逃げ道を塞がれた。


「……分かった」


 リリスは表示へ触れた。


━━━━━━━━━━


監督者による緊急停止権限を承認。


固有変身《魔神化》を封印します。


封印方式


・所有者単独解除:不可能


・監督者全員の承認:必要


・世界滅亡級緊急事態:例外審査


・領域制御法の確立:再審査可能


━━━━━━━━━━


《魔神化》封印完了。


夜天淫魔神ノクティルシア》の神格は保持されます。


通常人間偽装への影響:なし


既存能力への影響:なし


━━━━━━━━━━


「封印されちゃった」


『自業自得だ』


「進化した日に変身禁止になるとはな」


「珍しいですよね」


「珍しいで済ませることじゃないから」


 リゼットが疲れたように息を吐く。


「あと、次に解析不能って出たら、勝手に進めないこと」


「みんなに相談する」


「相談して、全員が許可するまで進めない」


「はい」


 リリスは素直に頷いた。


◇◇◇


 しばらく休んだ後。


 リリスは改めて、自分の状態を確認した。


━━━━━━━━━━


リリス・ルクスヴィア


種族


夜天淫魔神ノクティルシア


通常偽装種族


人族


神格階位


魔神級


職業ジョブ


《神級錬金術師》


《真の勇者》


《夜天の淫魔皇》


固有変身


《魔神化》


現在状態:封印


固有神域


淫魔神域エロス・ノクターン


特性


・魔神化中、常時強制発動


・所有者による制御不能


・敵味方識別不能


・種族識別不能


・対象除外不能


・防護不能


・魔神化解除によってのみ停止


━━━━━━━━━━


「種族は魔神のままなんだ」


『変身できないだけだ』


「魔神級の基礎能力や神格は残っているのですね」


「うん。夜天神格、魔王神格、異界神格も使える」


「なら、魔神化しなくても十分に強いだろう」


 シグレの言葉に。


 全員が頷いた。


「八枚の翼は格好よかったのに」


「そこですか?」


「鎧の変形構造はすごかった」


 リゼットも、そこだけは認める。


「でも、もう一度見るために変身するのは禁止」


「設計記録は残ってるよ」


「なら、そっちを見せて」


『切り替えが早いな』


◇◇◇


 屋敷へ戻った頃には。


 既に夕方になっていた。


 セバスとエレナへ。


 リリスは魔神へ進化したこと。


 そして。


 魔神化と同時に制御不能の《淫魔神域》が発生したことを説明した。


「つまり、魔神化なさっている間は、周囲のすべての生物へ影響が及ぶのでございますね」


「うん。私にも止められない」


「既に封印なさったと」


「みんなに止められた」


「当然の御判断でございます」


 セバスは。


 迷うことなく言い切った。


「セバスも反対?」


「無論でございます」


「エレナも?」


「失礼ながら、反対いたします」


 エレナも深く頭を下げる。


「リリス様御自身が望まれぬ形で、周囲の方々へ影響を与えてしまう力でございます。制御方法が確立するまでは、封印が妥当かと存じます」


「全員反対……」


『諦めろ』


━━━━━━━━━━


《魔神化》封印維持への追加同意


・セバス・アルヴァイン


・エレナ・ヴァイス


賛成者:6名


反対者:0名


━━━━━━━━━━


「表示まで増えた」


「師匠。勝手に解除しないでくださいね」


「私一人じゃ解除できないよ」


「解除できるように改造するのも禁止」


 リゼットに先回りされた。


「まだ何も言ってない」


「考えた顔をしてた」


『分かりやすいからな』


◇◇◇


 夕食後。


 リリスは自室へ戻った。


 窓辺に立ち。


 王都の夜景を見つめる。


 遥か遠くに輝く魔導灯。


 家路を急ぐ人々。


 厩舎で休む馬。


 屋根の上を歩く猫。


 庭園の木々へ巣を作る小鳥。


 もし。


 この場所で《魔神化》していたら。


 それらすべてを。


 制御不能の神域へ巻き込んでいた。


「……封印してよかったかも」


『ようやく理解したか』


 ベッドの横で休んでいたクロが答える。


「クロ、本当に大丈夫?」


『既に回復している』


「荒い息を吐いてたから」


『思い出させるな』


「ごめん」


『謝るなら、二度と勝手に解除するな』


「うん」


 魔神への進化は。


 終着点ではない。


 だが。


 新しい力のすべてが。


 便利で安全とは限らなかった。


 自分に止められない力なら。


 仲間に止めてもらう。


 それもまた。


 一人で冒険していた頃には得られなかった、大切な仕組みだった。


━━━━━━━━━━


特殊進化完了。


夜天淫魔神ノクティルシア


神格定着率:100%


固有変身


《魔神化》


現在状態:完全封印


封印解除条件


・監督者全員の承認


・《淫魔神域》制御法の確立


・安全性の再検証


次期上位進化候補


名称:未確定


推定階位:創世神級


必要条件:解析不能


現在の進化段階


魔神



???



《創世神》


━━━━━━━━━━


「まだ先がある」


 未来に一瞬だけ現れた。


 白い長髪。


 十二枚の巨大な翼。


 金色の《創世眼》。


 世界と星を背負う、創世神としての自分。


 そこへ至るまで。


 まだ多くの力と経験が必要になる。


 だが。


 急ぐ必要はない。


 今は。


 新しい仲間。


 新しい工房。


 水田と畑。


 迷宮の第十二階層。


 やりたいことが、いくらでもある。


「まずは、お米だね」


『魔神化を封印された直後に考えることが、それか』


「大事だから」


『知っている』


 リリスは窓を閉じ。


 机の上へ置かれていた水田の設計図を開いた。


━━━━━━━━━━


夜天淫魔神ノクティルシア


最初の長期計画


・天穀米の栽培


禁止事項


・水田造成への《魔神化》使用


━━━━━━━━━━


「八枚の翼で田植えしたら速そうなのに」


『絶対にするな』


「封印されてるからできないよ」


『そういう問題ではない』


 夜天の魔神となったリリスは。


 魔神化したその日のうちに。


 仲間たちの全員一致によって、その変身を封印された。


 そしてその夜も。


 制御不能の神格や最強の力ではなく。


 美味しい白米を育てるための水田について、遅くまで考えていた。

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