第六十三話 白銀剣士の選択
翌朝。
シグレが目を覚ますと、見慣れない白い天井が視界に入った。
「……そうか」
ここは宿ではない。
昨夜、迷宮から連れ帰られた旧ヴァレンティア侯爵邸の客室だ。
窓から差し込む朝日。
身体を包む柔らかな寝具。
室内には、清潔な水の入った水差しと、洗顔用の布まで用意されている。
刀掛けへ目を向ける。
愛刀は昨夜置いた位置から動いていない。
枕元には、空になった小皿。
夜食として置かれていた魚入りのおにぎりは、寝る前に食べてしまった。
「悪くなかった」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
直後。
扉が控えめに三度叩かれた。
「シグレ様。お目覚めでしょうか」
「起きている」
「朝食のご用意が整いました」
扉の向こうにいたメイドへ返事をする。
用意されていた白と黒の衣服へ着替え、長い白銀髪を整える。
刀を腰へ差すと、シグレは客室を出た。
◇◇◇
大食堂へ入った瞬間。
炊きたての米と焼き魚の香りが漂ってきた。
昨夜とは異なる、朝らしい献立。
白米。
表面を香ばしく焼いた魚。
茸と根菜を入れた味噌汁に似た汁物。
甘辛く煮た卵。
青菜のおひたし。
野菜の漬物。
小さな器へ入った、粘り気のある発酵豆。
そして、一人に一つずつ新鮮な生卵が添えられていた。
「おはよう」
すでに席へ着いていたリリスが声を掛ける。
今朝は黒い布マスクを外しており、白いシャツと黒いズボンという軽い室内着姿だった。
「よく眠れた?」
「問題ない」
「おにぎりは?」
「食べた」
「美味しかった?」
「……悪くなかった」
リリスが少し嬉しそうに笑う。
向かいの席では、フィオナが納豆の入った器を興味深そうに混ぜていた。
「糸がどんどん増えます」
「よく混ぜると美味しくなるよ」
「本当に食べ物なのですか?」
「身体にもいいよ」
フィオナが恐る恐る匂いを確かめる。
狐耳が一度後ろへ倒れた。
「独特な香りです」
「慣れると好きになるかも」
『我には不要だ』
足元で肉を食べているクロが、納豆から顔を背ける。
「クロはお肉だけでいいよ」
『それがよい』
シグレは席へ着き、発酵豆の器を見た。
「納豆か」
「知ってる?」
「故郷にもあった」
箸で数度混ぜ、刻んだ薬味と発酵調味料を加える。
それを炊きたての白米へ乗せた。
迷いのない動作だった。
「食べ方を知ってるんだ」
「珍しい物ではない」
シグレは一口食べる。
柔らかな白米。
豆の旨味。
薬味と発酵調味料の香り。
懐かしさを感じさせる味だった。
「……王都で食べるとは思わなかった」
「気に入った?」
「普通だ」
しかし、箸は止まっていない。
リリスは自分の白米の中央へ小さなくぼみを作ると、そこへ生卵を割り入れた。
黄身と白身。
発酵調味料を少し垂らし、全体を軽く混ぜる。
「それは何だ」
「卵かけご飯」
「生で食べるのか?」
「この卵は《神域鑑定》で安全を確認してるよ」
リリスが一口食べる。
「美味しい」
フィオナも真似して卵を割った。
「温かい白米で、卵が少しだけ柔らかくなります」
「混ぜすぎない方が、白身と黄身の違いも楽しめるよ」
「やってみます」
一口。
フィオナの狐耳が勢いよく立った。
「美味しいです!」
「納豆も一緒に入れていいよ」
「両方ですか?」
「納豆卵かけご飯」
フィオナは少し迷った後、納豆を白米へ加えた。
「不思議です。別々よりも食べやすい気がします」
「卵で味がまろやかになるからね」
シグレは二人のやり取りを眺める。
「お前は、本当に変わった食べ方を知っているな」
「前に住んでいたところでは、普通だったよ」
「どこだ」
リリスの箸が、一瞬だけ止まった。
「……遠いところ」
「国の名前は?」
「もう帰れない場所」
穏やかな声。
それ以上尋ねるなという雰囲気ではなかった。
ただ、答えることが難しいのだとシグレは察した。
「そうか」
短く答え、追及しない。
料理長マルタが、焼きたての卵料理を運んでくる。
ふわりとした卵を白米へ乗せ、その上から透明感のある餡を掛けた料理だった。
「リリスに聞いた《天津飯》という料理だよ」
「朝から作ってくれたんだ」
「試作品だけどね」
リリスの瞳が輝く。
餡を絡めた卵と白米を一緒に口へ運ぶ。
「美味しい」
「味はどうだい?」
「卵がふわふわ。餡はもう少し濃くても、ご飯に合いそう」
「次は調整してみよう」
シグレの前にも小さな天津飯が置かれた。
「食べてみて」
「朝から随分と多いな」
「少しずつだから大丈夫」
シグレは卵と白米を箸で取り、口へ運ぶ。
柔らかな卵。
鶏と野菜の旨味を含む餡。
白米との相性も悪くない。
「どう?」
「……悪くない」
また同じ答えだった。
リリスはすでに、シグレの「悪くない」がかなり高い評価であると理解し始めていた。
◇◇◇
朝食後。
シグレは玄関広間へ向かった。
客室へ用意されていた荷物は少ない。
刀。
替えの衣服。
旅用の小さな袋。
それだけだった。
「もう行くの?」
背後からリリスの声が聞こえる。
「ああ」
「行き先は決まった?」
「まだだ」
「お金は?」
「しばらく困らない程度にはある」
「泊まる場所は?」
「外へ出てから探す」
「なら、ここにいても同じだと思う」
「昨夜も聞いた」
シグレが振り返る。
リリスの隣にはフィオナ。
その足元には縮小したクロ。
少し離れた場所には、セバスとエレナも立っている。
「私は、お前たちに借りがある」
「借り?」
「命を救われた。傷も治された。食事と寝床まで与えられた」
「助けたかったから助けただけだよ」
「お前が気にしなくても、私が気にする」
シグレは腰の刀へ手を添える。
「借りを返さぬまま、世話になり続けるつもりはない」
「では、働けばいいよ」
「働く?」
「屋敷の護衛でも、迷宮の仲間でもいい」
「簡単に信用するな」
「シグレは、知らない冒険者を三人も守ったよ」
「それだけで信用するのか」
「十分だと思う」
迷いのない返答だった。
シグレは言葉を失う。
フィオナが一歩前へ出た。
「私も、最初はリリス様の考えが分かりませんでした」
「今は分かるのか」
「少しだけ」
フィオナは柔らかく笑う。
「師匠は、誰にでも無条件で手を差し伸べているわけではありません。その人が何をしたかを、きちんと見ています」
「私は何もしていない」
「三人の冒険者を守りました」
「勝手にやったことだ」
「それでもです」
シグレの赤い瞳が僅かに揺れる。
クロが静かに口を開いた。
『行く場所があるなら、止めはせぬ』
「ない」
『ならば、見つかるまでここにいればよい』
「神狼まで同じことを言うのか」
『我はリリスの相棒だからな』
「師匠より常識的です」
『それには同意する』
「二人とも」
リリスが不満そうに頬を膨らませる。
そのやり取りを見て。
シグレの口元が、ごく僅かに緩んだ。
「……滞在中、何をすればいい」
「好きなことをしていいよ」
「それでは借りを返せない」
「迷宮へ一緒に来てくれる?」
「私を仲間に加えるつもりか」
「シグレが嫌じゃなければ」
シグレは少し考える。
古代兵器を一撃で止めた黒い魔法使い。
神話級の剣を持つ狐人族の魔法剣士。
言葉を話す、底知れない力を持つ黒狼。
危険なパーティーだ。
常識から外れている。
何を考えているのか分からないところも多い。
だが。
少なくとも、弱者を見捨てる者たちではない。
「仮だ」
「仮?」
「借りを返すまで、パーティーへ加わる。その後は、私が決める」
「うん。それでいいよ」
「簡単に了承するな」
「シグレが自分で決めることだから」
リリスが差し出した手を、シグレは見つめる。
すぐには握らない。
やがて。
細い指先が、リリスの手へ触れた。
「借りを返すまでだ」
「よろしくね、シグレ」
「よろしくお願いします」
フィオナが嬉しそうに頭を下げる。
『歓迎しよう』
クロの尾が一度だけ床を叩いた。
◇◇◇
午前中。
三人と一匹は、屋敷の中庭にある訓練場へ移動した。
「実力を確認したい」
シグレが刀を抜く。
黒い柄。
鈍い銀色の刀身。
長く使い込まれているが、手入れは行き届いている。
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《ヤルク刀》
品質:希少級
使用者:シグレ・ヤルク
耐久値:61/100
特性
・魔力伝導
・斬撃補正
・抜刀速度上昇
備考
長期間の戦闘によって刀身内部に複数の亀裂あり。
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「その刀、少し傷んでる」
「まだ使える」
「強い技を使ったら折れるかもしれないよ」
「折れる前に敵を斬ればいい」
「駄目だよ」
リリスの返答は即座だった。
「武器を大切にしてるなら、壊れる前に直した方がいい」
「直せるのか」
「うん」
「いくらだ」
「お金はいらないよ」
「それでは、また借りが増える」
「なら、シグレも一緒に直そう」
フィオナが小さく笑う。
「私も同じことを言われました」
「お前の剣も、リリスが作ったのか」
「はい。一緒に作ったことになっています」
「なっている?」
「私は金属を混ぜるところから手伝いました」
シグレは《月狐魔剣》を見る。
見ただけでも、並の武器ではないことは分かる。
「その刀を直すだけだよ」
リリスが付け加える。
「勝手に違う武器にはしない」
「若返る効果も付きません」
フィオナが念のため告げる。
「なぜ武器に若返る効果が付く可能性を心配する必要がある」
「少し事情がありまして」
「後で聞く」
「長い話になります」
シグレは警戒するようにリリスを見る。
「本当に、修理だけだな」
「うん。今日は」
「今日は?」
「いつか新しい刀を作りたくなったら、相談して」
「頼むとは言っていない」
「分かった」
そう答えながらも。
リリスはすでに、シグレのための刀へ使えそうな素材を考えていた。
星銀鉱。
ミスリル。
真鋼。
古代迷宮で得た星属性魔導核。
ヤルク族の剣技へ合わせるなら、軽さと強度だけでなく、抜刀時の魔力加速も必要になる。
『顔に出ているぞ』
クロが念話を送る。
『何が?』
『新しい武器を作る気だろう』
『まだ作らないよ』
『“まだ”と言ったな』
フィオナも、リリスの楽しそうな表情に気づいていた。
「シグレ」
「何だ」
「気をつけてください。師匠は素材を見ると、予定にない物まで作り始めます」
「覚えておこう」
「二人とも、私を何だと思ってるの?」
「神級錬金術師です」
フィオナの答えに、シグレが動きを止める。
「今、何と言った」
「あっ」
フィオナの狐耳が、ゆっくり伏せられた。
「神級錬金術師と聞こえたが」
「屋敷の外では秘密だよ」
リリスが平然と答える。
「……やはり出ていくべきだったかもしれない」
「朝ご飯、美味しかったでしょ?」
「食事で誤魔化すな」
シグレの声が中庭へ響く。
それでも。
彼女が正門へ向かうことはなかった。
行き先を持たなかった白銀の刀剣士。
シグレ・ヤルクは、この日。
借りを返すまでという条件を付けながらも。
パーティー《黒月》の仮加入者として、リリスたちと行動を共にすることを選んだ。
そして、客室として用意された部屋は。
少しずつ。
シグレ自身の居場所へと変わり始めていた。




