第六十二話 白米と刺身の晩餐
第一退避星門から《星門回廊》へ戻った後。
リリスたちは、救助した三人の冒険者を連れて地上へ帰還した。
迷宮出張所では、突然行方不明になっていた三人の姿を見た受付職員たちが慌ただしく動き始める。
「地下十二階から、地下十階の封鎖領域へ転移させられたのですか?」
「はい」
代表して答えたのは、黒い仮面を着けたリリスだった。
机の上には、《星門回廊》と緊急退避区画の簡易地図が広げられている。
「地下二十八階と四十一階にも、同じ場所へ接続する転移罠があるみたいです」
「四十一階……」
受付職員の表情が険しくなる。
低階層の冒険者が地下四十一階から飛ばされてきた魔物と遭遇すれば、まず助からない。
「星門の内部には、古代魔導兵器もいました」
「古代魔導兵器ですか?」
「止めておきました」
「討伐されたのではなく?」
「壊すともったいないので、制御術式だけ切りました」
受付職員は何かを尋ねようとして、一度口を閉じた。
《黒魔導師ノクス》については、余計な常識を求めない方がよい。
短期間ながら、迷宮出張所の職員たちも学び始めていた。
「本部から調査隊を派遣いたします。危険な転移罠についても、緊急情報として冒険者へ通達いたします」
「お願いします」
報告を終えたリリスは、少し離れた壁際へ目を向けた。
白銀色の長髪。
鮮やかな赤い瞳。
黒い柄と鞘の刀。
シグレ・ヤルクは腕を組み、周囲の冒険者たちを静かに眺めていた。
「待たせたね」
「問題ない」
「屋敷へ行こうか」
「一晩だけだ」
「分かってるよ」
リリスが答えると、シグレは僅かに目を細めた。
「その仮面で屋敷へ帰るのか?」
「屋敷では外すよ」
「やはり、顔を隠しているのか」
「王都では色々あって」
「余計に怪しいな」
「私も最初はそう思いました」
フィオナが自然に頷く。
「今は?」
「仮面を外していても、時々何をするか分からない方だと思っています」
「フィオナ?」
「褒めています」
『どう聞いても褒めてはいないな』
クロの言葉に、シグレが小さく息を漏らした。
笑ったようにも見えたが、すぐにいつもの無表情へ戻ってしまった。
◇◇◇
迷宮街の外で待っていた馬車へ乗り込む。
シグレは黒塗りの大型馬車と、その周囲に立つ屋敷の護衛たちを見て足を止めた。
「本当に屋敷を持っているのか」
「信じてなかった?」
「冒険者の言う屋敷など、大きめの借家程度だと思っていた」
「かなり大きいですよ」
フィオナが答える。
「使用人の方も二百人います」
「二百人?」
「皆さん、とても親切です」
シグレがリリスを見る。
黒い仮面。
漆黒の魔衣。
大杖。
A級冒険者。
古代兵器を一撃で停止させる魔法。
さらに、二百人の使用人を抱える大邸宅の主人。
「お前は何者だ」
「錬金術師だよ」
「その答えで納得する者がいると思うのか?」
「フィオナは納得してるよ」
「私は、考えることを少し諦めました」
馬車の扉が閉まる。
王都の大通りを進みながら、フィオナはシグレへ屋敷について説明した。
執事長セバス。
メイド長エレナ。
料理長マルタ。
護衛隊長ディアナ。
地下の錬金工房。
広大な庭園。
そして、普段は縮小しているクロの本来の姿。
「クロは、今より大きくなるのか」
「今はかなり小さいよ」
リリスが答える。
「どの程度だ」
「建物くらい」
「……そうか」
シグレはクロを見る。
『驚かぬのだな』
「今日一日で驚き疲れた」
『賢明な判断だ』
◇◇◇
旧ヴァレンティア侯爵邸の正門を通過する。
窓の外に広がった景色を見て、シグレは無言になった。
白く輝く主館。
青灰色の屋根。
広大な庭園。
薬草園と果樹園。
噴水の向こうには、クロが本来の姿で休める巨大な石造りの東屋も見える。
「これを屋敷と呼ぶのか」
「元は侯爵邸だったみたい」
「お前は貴族なのか?」
「違うよ。冒険者」
「冒険者が普通に買える建物ではない」
「安くしてもらったから」
「いくらだ」
「白金貨八百枚」
「どこが安い」
シグレの返答は早かった。
馬車が玄関前で止まる。
執事長セバスとメイド長エレナが、数人の使用人を連れて待っていた。
「お帰りなさいませ、リリス様。フィオナ様、クロ様」
シグレが横を見る。
黒い仮面の魔法使いを迎える使用人たちは、迷うことなくリリスと呼んだ。
「ただいま。今日はお客さんがいるよ」
「お話は通信腕輪を通じて伺っております」
セバスがシグレへ向き直る。
「ようこそお越しくださいました、シグレ・ヤルク様。私は当屋敷の執事長を務めております、セバス・アルヴァインと申します」
「シグレでいい。今夜だけ世話になる」
「承知いたしました。お部屋とお着替えをご用意しております」
「着替えまで?」
「迷宮探索を終えられたばかりですので、先に大浴場をご利用いただければと存じます。お召し物と装備は、その間に清掃と修繕を行います」
「刀は自分で手入れする」
「かしこまりました。刀剣用の整備室もございますので、ご自由にお使いください」
シグレは一瞬だけ困ったような表情を浮かべた。
あまりにも自然に迎え入れられ、断る隙がなかったらしい。
屋敷の中へ入ると、リリスは《黒王仮面》へ手を掛けた。
「ここなら大丈夫」
漆黒の仮面を外す。
紅紫色の光が消え、黒髪と黒い瞳を持つリリス本来の顔が現れた。
続いて、《常闇魔衣》と《黒天魔王杖》をインベントリへ収納する。
残ったのは、鋼板戦闘服を身につけた二十一歳の女性だった。
「改めて、リリス・ルクスヴィアです」
シグレが無言で見つめる。
「何か変?」
「思っていたより若い」
「シグレより四歳上だよ」
「声も違う」
「仮面の機能」
「性別すら分かりにくかったぞ」
「正体を隠すためだから」
シグレは額へ手を当てた。
「最初から、その姿で話してくれれば警戒せずに済んだ」
「迷宮では秘密の姿で活動してるから」
「秘密の姿で目立つことばかりしていないか?」
鋭い指摘だった。
フィオナとクロが、同時にリリスから視線を逸らす。
「二人とも、何か言って」
「シグレの言うとおりだと思います」
『同感だ』
「酷い」
◇◇◇
シグレが大浴場を使っている間。
リリスは厨房へ向かっていた。
「マルタ、今夜の料理を少し変えられる?」
「急だね。何か食べたい物があるのかい?」
「シグレが好きそうな料理を出したい」
厨房では、夕食用の肉や野菜がすでに準備されている。
リリスはインベントリを開き、永久鮮度保存されている食材を取り出した。
精米した白米。
玄米。
王都近郊の湖で獲れた淡水魚。
西方の港町から仕入れた海魚。
貝。
海老。
さらに、醤油に似た発酵調味料と、香りの強い薬味。
「米かい?」
「うん。炊きたての白米にしてほしい」
「以前、試しに炊いた物だね。確かに肉にも魚にも合う」
「今日はお刺身の盛り合わせも」
マルタが魚を確認する。
「全部、生で食べられる状態なのかい?」
「《神域鑑定》で確認済み。寄生虫も毒もないよ。鮮度も獲れた直後のまま」
「なら問題ないね」
リリスは前世の記憶を頼りに、魚の切り方や盛りつけ方を説明する。
マルタは一度聞いただけで理解し、迷いなく包丁を動かし始めた。
「魚だけだとクロが物足りないから、お肉も欲しい」
『我を理由にしているが、お前も食べたいのだろう』
厨房の入口からクロの念話が届く。
「白米とお肉は合うからね」
「それなら、牛肉の甘辛焼きと、鶏肉の揚げ物も加えよう」
「照り焼きと唐揚げみたいにできる?」
「その料理も教えておくれ」
マルタの職人としての瞳が輝く。
今夜の献立は、当初の予定から大きく変わることになった。
◇◇◇
日が沈んだ頃。
大食堂へ現れたシグレは、屋敷で用意された白と黒の衣服を身につけていた。
和装に近い意匠を残しながら、柔らかな布で作られた室内着。
長い白銀髪は入浴後で、いつもより滑らかに背中へ流れている。
刀だけは手放さず、すぐ隣の壁へ立て掛けた。
「随分と大きな食堂だな」
「今日は皆で食べるよ」
大食堂には、使用人たちのための長いテーブルも並んでいる。
リリス、フィオナ、シグレの席へ、料理が運ばれてきた。
最初に置かれたのは、湯気を立てる炊きたての白米。
続いて。
透き通るような白身魚。
淡い桃色の魚。
赤身。
銀色の皮を残した魚。
海老と貝。
彩りよく盛りつけられた、新鮮な刺身の盛り合わせ。
焼き魚。
根菜と肉の煮物。
香草を浮かべた魚の汁物。
野菜の漬物。
牛肉の甘辛焼き。
鶏肉の唐揚げ。
照りのある肉料理から、食欲を誘う香りが漂っている。
シグレは席へ着くことも忘れ、料理を見つめていた。
「これは……」
「シグレが好きそうだと思って」
リリスが白米の椀を示す。
「食べたことある?」
「故郷では、米が主食だった」
シグレの声が僅かに柔らかくなる。
「魚を生で食べる文化もある。だが、王都へ来てからは一度も見ていない」
「なら、ちょうど良かった」
シグレは静かに席へ着いた。
箸を手に取り、白身魚を一切れ持ち上げる。
発酵調味料を少しだけ付け、口へ運んだ。
「……」
「どう?」
「悪くない」
短い答え。
だが。
赤い瞳は料理から離れず、すぐに二切れ目へ箸が伸びている。
フィオナが尻尾を揺らしながら、小声で尋ねた。
「気に入っているように見えます」
「悪くないと言っただけだ」
「シグレ、お米も一緒に食べると美味しいよ」
「知っている」
シグレは白米を口へ運び、その後に赤身の刺身を食べた。
一瞬。
凛としていた表情が、僅かに緩む。
「故郷の味に近い」
誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。
リリスは何も言わず、牛肉の甘辛焼きを白米へ乗せる。
「お肉とも合うよ」
「それは、どのような料理だ」
「甘辛く焼いた牛肉」
シグレも一切れ取る。
濃いめの味付けが、炊きたての白米とよく合う。
「……これも悪くない」
「さっきと同じですね」
「フィオナは黙って食べろ」
「はい」
フィオナは楽しそうに笑い、鶏肉の唐揚げへ手を伸ばした。
「師匠、この鶏肉も白米と合います!」
「うん。玄米でも美味しそう」
「玄米もあるのですか?」
「今日は白米だけだけど、次は玄米も出してもらおうと思ってる」
クロの前には、甘辛く焼いた大きな骨付き肉と白米が山のように盛られていた。
『確かに、この白い穀物は肉の味をよく受け止める』
「クロも気に入った?」
『悪くない』
「シグレと同じ言い方」
「真似をするな」
『我が先に言った』
「どうでもいい」
マルタが厨房から顔を出す。
「米料理はどうだい?」
「美味しいです」
リリスが即答する。
「これからも、パンだけでなく白米や玄米を食卓に出してほしい」
「肉にも魚にも合うからね。料理の幅が広がりそうだ」
「パンをやめるわけではないよ」
「分かっているさ。朝はパン、夜は米という日があってもいい。料理によって両方出しても構わないだろう」
マルタは新しい献立を考え始めたらしい。
「魚を米へ乗せた料理や、肉と野菜を煮て米へ掛ける料理も作れそうだね」
「海鮮丼とか、牛丼みたいなもの?」
「詳しく聞かせてもらおうか」
また料理長の瞳が輝いた。
シグレは刺身を食べながら、そのやり取りを眺めている。
「この屋敷では、いつもこうなのか」
「こうって?」
「一つの料理から、次々と話が広がっていく」
「素材も料理も、試すと楽しいから」
「お前は本当に錬金術師なのだな」
「やっと信じてくれた?」
「魔法使いよりは納得した」
◇◇◇
夕食後。
シグレは用意された客室へ案内された。
大きな窓。
柔らかな寝台。
衣装棚。
小さな机。
刀を置く専用の刀掛けまで準備されている。
「一晩だけの客に、ここまで用意する必要はない」
「空いてる部屋だから」
リリスはそう答える。
「気に入ったなら、何日いてもいいよ」
「私は明日、別の街へ向かう」
「行き先は決まってるの?」
「まだだ」
「なら、決まるまでいても同じじゃない?」
シグレは答えなかった。
窓の外。
夜の庭園では、元の大きさへ戻ったクロが巨大な東屋の前で身体を丸めている。
遠くには、使用人棟の温かな明かり。
屋敷の中からは、食事を終えた者たちの穏やかな声が聞こえていた。
「明日の朝も、白米を用意してもらうよ」
リリスが告げる。
「焼き魚と、お味噌汁に似た汁物も作れると思う」
「食事で引き留めるつもりか」
「無理には止めないよ」
「なら、その献立を言う必要はないだろう」
「食べたくない?」
シグレは沈黙する。
白銀色の髪の間から、僅かに赤い角飾りが見えた。
「……朝食を食べてから考える」
「分かった」
リリスは満足そうに頷き、客室を後にする。
一人になったシグレは、用意された刀掛けへ自分の刀を置いた。
そして。
机の上に置かれていた、小さな夜食用のおにぎりへ目を向ける。
白米の中には、焼いた魚のほぐし身。
隣には短い手紙が添えられていた。
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お腹が空いたら食べてください。
リリス
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「……世話焼きな奴だ」
そう呟きながらも。
シグレは、おにぎりを残そうとはしなかった。
この日から。
リリスの屋敷の食卓には、パンや洋風料理だけではなく。
白米や玄米。
刺身。
焼き魚。
煮物。
汁物。
そして、肉料理とともに楽しむ様々な米料理が、少しずつ並ぶようになった。




