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150円の献身、あるいは個体の証明

武蔵野の夕暮れは、街全体を沈殿させるような重たい湿度を帯びていた。

アスファルトの熱が冷めやらぬまま、グレーの吹き付け塗装が施されたシェアハウスの外壁に、西陽が鋭い角度で突き刺さっている。

リミニス・ベースの玄関を開けると、築数十年の湿気と鉄錆の匂いが、逃げ場を失った熱帯魚のようにそこに停滞していた。


僕は一階の自室で、録音データのノイズを波形として眺めていた。

AIによる自動補正をかければ、一瞬で「綺麗な音」に変換される。

けれど、僕はその無機質な清潔さを信じることができない。

弦が物理的に擦れ、木材が軋み、演奏者の呼吸が混じる。

その不純な摩擦こそが、実在の証明であると、僕は信じたかった。


不意に、腹の底を空腹が掠めた。

僕は作業を中断し、共同キッチンへ向かった。

そこには、忍さんが投げ出した空のビール缶と、志摩さんが精密に管理しているはずのコーヒーメーカーが並んでいる。

この家には、常に誰かの生活の残骸が、情報の断片として転がっている。


財布の中を確認する。

小銭を合わせても、まともな外食には届かない。

物価高騰は、僕たちの世代の足元を、静かに、確実に削り取っていた。

僕はサンダルを履き、近所の商店街へ向かった。


揚げ物屋の店先では、油の弾ける音が心地よいリズムを刻んでいた。

品書きの札に、マジックで太く書き直された「百五十円」の文字。

かつてはもっと安かったはずのコロッケが、今は僕にとっての、ささやかな贅沢の境界線になっていた。


「コロッケ、二個ください」


店主から受け取った紙袋は、指先を焼くほどに熱かった。

紙袋に染み出していく油のシミ。

それは、デジタルな数値では測れない、圧倒的な物理的質量だった。

僕はその熱を抱えるようにして、家へと歩き出した。


リミニス・ベースの門をくぐったとき、西陽はさらに深まり、影を長く伸ばしていた。

地下防音室の入り口に、律さんが立っていた。

彼女は、まるで光の粒子を数えているかのように、空の一点を見つめていた。

彼女にとって、音も光も、すべては脳内で処理される波形に過ぎない。

その完璧な天才性の前で、僕はいつも、自分の凡庸さを冷徹な数値として突きつけられる。


「……海。いい、音。熱い、音」


律さんが、僕の抱える紙袋に視線を向けた。

彼女の声は、短く、断定を避けるような浮遊感を持っている。

彼女にとって、僕の持っている「熱」は、どのような設計図として映っているのだろう。


「コロッケです。……一個、150円もしたんですけど」


僕は自分を突き放したような声で言った。

丁寧だが、淡白な敬語。

それは、彼女との距離を一定に保つための、僕なりの防御壁だった。


「……たべたい。海、これ。半分」


律さんが、震える指先を紙袋に伸ばした。

彼女の指は、ピアノを弾くときには正解の音を空間に定着させる神の道具となる。

けれど、今この瞬間、その指は空腹という極めて個人的で、泥臭い肉体の要求に支配されていた。


僕はキッチンのテーブルに紙袋を置いた。

メイプルシロップの蓋が開いたままになっていたので、僕はそれを丁寧に閉める。

甘い香りが、揚げ物の匂いと混じり合った。

この家において、甘さは依存の象徴であり、僕が作る炊き出しの隠し味でもある。


僕はコロッケを半分に割り、律さんに差し出した。

熱い蒸気が立ち上がり、彼女の白い頬を微かに染める。

彼女はそれを、壊れ物でも扱うような手つきで口に運んだ。


「……あつい。でも、正しい」


律さんが呟いた。

彼女の中にある「正しい」の基準に、百五十円の揚げ物が合致したことが、僕は妙に嬉しかった。

それは、彼女の天才的な設計図の中に、僕という個体が、物理的な献身を通じて一ミリだけ浸食できたような感覚だった。


志摩さんが二階から降りてくる音がした。

彼はスマートウォッチで自身の心拍数を管理し、無駄なカロリー摂取を極端に嫌う。

彼のような理的な人間には、このコロッケに込められた非効率な熱量など、理解できないノイズに過ぎないだろう。


忍さんはまだ戻ってこない。

彼が持ち込む数千万のキャッシュも、ダークウェブの隙間を縫うような狂騒も、このキッチンにあるコロッケの熱さの前では、どこか空虚な情報に思えた。


律さんは、口の端に小さな衣をつけたまま、窓の外の暮れなずむ景色を見ていた。

彼女は、この一瞬の調和がいつか崩れることを、その超越的な感覚で予感しているのだろうか。

利き腕の神経が断絶する未来も、再生医療を拒む絶望も、今はまだ、情報の波形の外側にあった。


僕は、自分の分の半分を口に放り込んだ。

肉体の空腹を満たす、確かな油の味。

それは、情報の海に溺れかけた僕が、この場所で生きていることを証明するための、最も安価で、最も確かな手続きだった。


「……海。また、かってきて。熱いの」


「……分かりました。お金があれば、ですけど」


僕は淡白に答えた。

けれど、僕の胸の奥では、調律の合わない不協和音のようなときめきが、静かに鳴り響いていた。

それは恋と呼ぶにはあまりに不格好で、調律助手である僕の手には、負いかねる代物だった。


西陽が完全に沈み、情報の真空地帯であるリミニス・ベースに、深い青が忍び寄ってくる。

僕たちは、メイプルシロップの甘い香りと揚げ物の匂いが混じり合うキッチンで、沈黙の時間を共有していた。

それは、明日には消えてしまうかもしれない、脆い実在の記録だった。

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