電子の狂騒、あるいは空虚なビットレート
リミニス・ベースの二階、守屋忍の部屋から漏れ出るのは、およそ生活音とはかけ離れた電子の唸りだった。
数台のモニターが発する青白い光が、グレーの吹き付け塗装の壁に、神経質な模様を焼き付けている。
守屋は椅子に深く沈み込み、指先だけで世界の輪郭を書き換えていた。
彼がサイバー空間の裂け目から引きずり出しているのは、実体のない、けれどこの国の経済を容易に麻痺させるだけの質量を持った数字の羅列だ。
それは彼にとって、単なる復讐の準備運動に過ぎなかった。
父を憤死させた巨大企業、フロイド・エレクトリック社への宣戦布告。
そのための資金を、彼は遊び半分でダークウェブの深淵から汲み上げている。
「おい、海。そこに立ってないで、メイプルシロップを持ってこい。脳が焦げそうだ」
ドアを開けたまま立ち尽くしていた僕を、守屋は振り返りもせずに呼んだ。
彼の声は乱暴だが、核心を突く直前のような、ひどく低温な響きを帯びている。
僕は言われた通り、共同キッチンの棚から使いかけのボトルを掴み、彼のデスクへ置いた。
「守屋さん、それは……何千万、あるんですか」
「さあな。ビットの並びが変われば、一瞬でゴミになる数字だ。だが今は、こいつがこの街の地価より重い」
守屋は画面を弾いた。
そこには、僕たちが普段見ているインターネットの裏側、名もなきノイズが支配する領域が広がっていた。
彼はそのノイズを調律するように、不敵な笑みを浮かべる。
「志摩も呼べ。あいつの眼鏡なら、このノイズの正体が少しは解析できるだろうよ」
志摩巧は、まるで最初からそこにいたかのような静かさで現れた。
彼はスマートウォッチの同期を確認し、自身の管理された生活リズムを一秒たりとも乱さないよう、慎重に守屋の部屋へと足を踏み入れた。
眼鏡の奥にある瞳が、モニターに流れる膨大なデータログを冷徹に追う。
「悪趣味ですね、守屋。サイバー空間の脆弱性を突いて、市場のバランスを弄ぶ。それは、柳さんが遺したデータを修復する僕の仕事とは、対極にある破壊行為だ」
「修復も破壊も、情報の配列を変えるだけだろ。お前が理花さんに執着してるのも、僕がこのクソッタレな企業を解体しようとしてるのも、結局は、埋まらない穴を埋めるための代償行為だ」
守屋の言葉は、志摩の最も深い傷口を、論理という名のメスで切り裂いた。
志摩の表情は変わらない。
けれど、彼の手首でスマートウォッチが、微かな心拍数の上昇を検知して振動した。
モニターの中では、数億の金が電子の海を漂い、守屋のコマンドひとつで場所を変えていく。
それは、一五〇円のコロッケを大切に食べる律さんの日常とは、あまりにかけ離れた狂騒だった。
律さんは今、地下の防音室で、五感のすべてを波形として捉えながら、正解の音を探しているはずだ。
その純粋な音楽の結晶と、守屋が弄んでいる汚濁した情報の海。
「浅葱、お前はこっち側の人間になりたいか?」
守屋が不意に、僕を試すような視線を投げた。
僕は自分の指先を見た。
録音助手として、僕は常に物理的な弦の摩擦に固執している。
AIが自動補正する死んだ音ではなく、生身の人間が苦痛の果てに絞り出した音を。
「……いえ。僕は、別にいいんです。僕はただ、目の前で鳴っている音が正しいかどうかを、確かめていたいだけですから」
「丁寧な逃げだな。だが、いずれわかる。この世界の構造は、お前が思っているよりずっと、脆いデータの上に成り立っているってことがな」
守屋はキーを叩いた。
瞬間、モニターの光が激しく明滅し、一千万単位の数字がダークウェブの隙間へ消えていった。
彼は満足そうに椅子を回転させ、僕から受け取ったメイプルシロップをそのまま口に含んだ。
その横顔には、どれだけの富を得ても決して消えない、底知れぬ空虚が宿っている。
部屋の外では、武蔵野の夜が静かに更けていく。
地価高騰という名の冷徹な重力が、リミニス・ベースを押し潰そうとしている。
僕たちは、この情報の真空地帯で、それぞれの執着という名のシェルターに閉じこもっている。
「志摩、仕事に戻れ。お前が救いたい過去は、もうデータの底で腐り始めているぞ」
「言われるまでもありません。僕は、その腐敗さえも愛しているんです」
志摩は静かに部屋を去った。
後に残されたのは、ファンの唸り音と、メイプルシロップの甘ったるい匂い。
僕は、日常の足元が少しずつ崩れていくような違和感を感じながら、自分の部屋へと戻った。
地下からは、律さんが奏でるかすかなピアノの音が聞こえてきた。
それは、守屋の作り出す電子の狂騒を、静かに、そして残酷に否定するような、絶対的な正解の響きだった。
僕はその音を録音するために、レコーダーのスイッチを入れる。
僕にできるのは、ただその波形を、一秒でも長くこの現実という名の記憶に留めることだけだった。




