振動の軌跡、あるいは跳ね上がる心拍数
地下の防音室に、暴力的なまでのリズムが叩きつけられていた。
瀬戸亜弓は、打楽器の前に立ち、全身のバネを一点に集中させている。
彼女の振り下ろすスティックは、空気を切り裂く鋭利な刃物だ。
5Gの電波さえ届かないこの真空地帯において、彼女の音だけが唯一、実体を持った質量として壁に衝突し、跳ね返っていた。
露出の多いウェアから覗く腿は、アスリートのように引き締まっている。
激しい運動に、うなじを伝う汗が鉄錆の匂いを含んだ湿気と混じり合った。
彼女は、自身の肉体を極限まで追い込むことでしか、胸の奥に澱のように溜まった熱を逃がす術を知らない。
左手首に巻かれたスマートウォッチが、規則的な電子音を鳴らす。
画面には、上昇し続ける心拍数と、消費されたカロリーが冷徹な数値として表示されていた。
彼女はそれを一瞥し、さらに速度を上げる。
誰に見せるためでもない、ただ自分を摩耗させるためだけの演奏。
「……あゆ、うるさい。音が、尖ってる」
地下室の隅、影に溶け込むように座っていた律が、短く呟いた。
彼女は膝を抱え、その超越的な聴覚で亜弓の音を「色」や「波形」として観測している。
律にとって、亜弓の音は今、真っ赤なトゲとなって空間を埋め尽くしているのだろう。
「分かってんだよ、そんなこと。あんたみたいに、正解だけをなぞれる天才様とは違うんだから」
亜弓は演奏を止めず、べらんめえ調に近い威勢の良さで言い返した。
けれど、その声は微かに震えている。
彼女の指先には、日々の練習で積み重ねられた硬いタコがある。
それは凡人が天才に追いつこうとして、あるいは、届かない恋から逃げようとして刻んだ、虚しい勲章だった。
防音室のドアが静かに開き、志摩巧が入ってきた。
知的な眼鏡の奥にある瞳は、相変わらず温度を感じさせない。
彼は手に持った端末に視線を落としたまま、亜弓の正面に立った。
「瀬戸さん。練習効率が落ちている。心拍数が160を超えているのは、技術的な向上ではなく、単なる感情的な暴走の結果だ。無駄ですよ」
志摩の声は、静謐な標準語で彼女の肺を凍らせる。
その瞬間、亜弓の激しいビートがぴたりと止まった。
スティックを握る手に、不自然な力がこもる。
「……志摩、くん。別に、あんたに関係ないでしょ」
威勢の良さはどこへ消えたのか、彼女の口調は幼い子供のように崩れていた。
先ほどまで猛り狂っていた肉体が、彼の前でだけは、制御不能な震えに支配される。
志摩はそれを、冷徹な観察者として見下ろした。
「関係はあります。リミニス・ベースの共用スペースにおける騒音管理は、僕たちの生活の質に直結する。それに、君がどれだけ太鼓を叩いても、倉田理花さんのアーカイブが修復されることはないし、僕の視線が君に向くこともない」
志摩は、彼女が最も触れてほしくない傷口に、論理という名の土足で踏み込んだ。
彼にとって、亜弓の恋心は「解析済みの非合理」に過ぎない。
修復不能な過去に縛られ続ける彼にとって、未来を向こうとする彼女の熱量は、排除すべきノイズだった。
「……最低。あんた、本当に最低だよ」
亜弓はスティックを床に投げ出した。
乾いた音が、情報の真空地帯に虚しく響く。
彼女は志摩の脇をすり抜け、階段を駆け上がった。
地下から一階へ、そして屋上へ。
肺が焼けるような感覚。
けれど、スマートウォッチは無慈悲に、彼女の心拍数がさらに跳ね上がったことを記録し続けている。
キッチンでは、浅葱海がメイプルシロップの蓋を開けていた。
甘い香りが、階段を伝ってきた亜弓の鼻腔を突く。
海は、観測者のような淡白な目で彼女を見送った。
「瀬戸さん。……コロッケ、食べますか? 150円もしたんですけど」
「いらない! 食ってやるもんか、あんな眼鏡のいる家のご飯なんて!」
屋上に出ると、武蔵野の夜風が湿った肌を急激に冷やした。
グレーの吹き付け塗装の外壁が、月光を浴びて死んだ魚の腹のように白く光っている。
亜弓は手すりにしがみつき、夜の街に向かって絶叫しようとした。
けれど、声は喉の奥で固まって、メイプルシロップのような粘り気を持って消えていった。
階下では、志摩が再び端末に向かっているだろう。
地下では、律が無音の打鍵を続けているだろう。
海は、物理的な摩擦を求めて鍋をかき回しているだろう。
みんな、どこか壊れている。
日常の足元が少しずつ崩れていく音を、自分だけの正解で上書きしようとしている。
亜弓は、自分の引き締まった腿を強く叩いた。
この肉体の苦痛だけが、自分をこの場所に繋ぎ止める、唯一の杭だった。
「いつか、あんたを過去にしてやる」
彼女は誰に届くともない誓いを、夜風の中に放り出した。
スマートウォッチが、目標運動量の達成を知らせる無機質な通知を送ってくる。
それは、彼女の孤独を、冷たく承認する音だった。




