同期する執着、あるいは静かな朝
朝は常に、デジタルな数値として訪れる。
二階の角部屋、志摩巧の枕元では、スマートウォッチが設定された睡眠サイクルに従って音もなく振動を始めていた。
彼は一度の動作で上体を起こし、眼鏡をかける。
視界に飛び込んでくるのは、湿度、温度、そして昨夜から今朝にかけて更新された特定のSNSアカウントのログデータだ。
彼は自分の生活を、最新のガジェットと論理的なスケジュールで塗り固めている。
それは、日常の足元に口を開けている巨大な空洞を、精密なタイリングで隠蔽する作業に似ていた。
空洞の名前は、柳。
そして、その空洞の縁で立ち尽くしているのが、倉田理花という名のデザイナーだった。
志摩は白のシャツに腕を通し、シワひとつない襟元を整える。
彼の動作には、感情という名のノイズが介在する隙がない。
彼は一階の共同キッチンへ降りると、そこで昨夜の宴の残骸を無機質な手つきで片付け始めた。
数枚の紙幣がシンクの脇に落ちていたが、彼はそれを汚物のように指先でつまみ、忍の部屋のドアの前に置いた。
「おはようございます、志摩さん。早いんですね」
一階の住人、浅葱海が欠伸を噛み殺しながら現れた。
海は、どこか自分を突き放したような淡白な空気を纏っている。
志摩は彼を一瞥し、正確に沸騰した湯でコーヒーを淹れ始めた。
「僕は無駄な時間が嫌いなだけですよ。浅葱くん。君のように、物理的な摩擦に固執して時間を浪費する趣味はない」
「……だと思います。でも、その無駄がないと、ピアノの音は死んでしまうんです」
「音の死生観に興味はありません。僕が関心があるのは、情報の保存と修復、それだけだ」
志摩はコーヒーを一口飲み、端末を操作した。
画面には、壊れたデジタルアーカイブの修復画面が並んでいる。
それはかつて、柳という男が生きていた証拠だ。
志摩は、自分以外の誰かが愛した男の残像を、最新のアルゴリズムで丹念に繋ぎ合わせている。
倉田理花の視線の先に、自分を介在させるための、ストーカー的とも呼べる献身。
理花は、亡き夫の影を追うために最新の再生医療や義肢を拒み続けている。
彼女の左半身に残る不自由さは、彼女にとって柳との唯一の、物理的な繋がりだった。
志摩は、その不自由さを愛している。
彼女が不自由であればあるほど、彼は彼女の「足」として、その人生に浸食することができるからだ。
「志摩さん。あなたは、過去を修復しているんですか。それとも、閉じ込めているんですか」
海が、鍋を火にかけながら尋ねた。
今朝の炊き出しは、メイプルシロップを多めに使ったオートミールだ。
甘ったるい香りが、志摩の清潔なコーヒーの香りを侵食し始める。
「同じことですよ。完全な修復とは、二度と変化しない状態に固定することだ。それは、最も美しい檻と言えるかもしれない」
志摩の声は、冷徹な敬語のままで温度を持たない。
彼は自分の執着を、論理という名のメスで解剖し、展示している。
そこには醜悪な情念など存在しないかのように、ただ静謐な理屈だけが並んでいる。
一階の廊下を、小さな、頼りない足音が通り過ぎた。
結城律だ。
彼女はまだ、寝ぼけたような、あるいは別の次元から帰還したばかりのような足取りで、キッチンの椅子に腰を下ろした。
「……海。甘い。空気が、重い」
「おはよう、律さん。今、朝ごはんを作っています」
「志摩。音が、冷たい。青い、ノイズ」
律が志摩を見上げ、短く言った。
志摩は僅かに眉を動かす。
彼は律の、五感すべてを波形として捉える超越的な感性を、一ミリも理解できない。
理解できないからこそ、彼は彼女を「エラー」として分類している。
「ノイズで結構です。僕はこれから、理花さんの事務所へ行くので」
志摩はコーヒーカップを丁寧に洗うと、再び端末を閉じた。
彼にとっての朝はここで終わる。
これからは、倉田理花という聖域に浸食するための、執拗な勤務が始まるのだ。
外に出ると、武蔵野の朝特有の、湿った冷気が志摩の頬を叩いた。
地価高騰の象徴のような高層マンションの影に隠れて、グレーの吹き付け塗装のリミニス・ベースはひっそりと佇んでいる。
志摩は一度だけ振り返り、律が座っているキッチンの窓を見た。
あそこには、自分と同じように何かに囚われた者たちがいる。
弦の摩擦に固執する海。
資本主義を解体しようとする忍。
そして、音の設計図に閉じ込められた律。
志摩は歩き出した。
彼のスマートウォッチは、事務所までの最短距離と、理花の心拍数や体温を予測する自分だけの演算結果を、冷徹に表示し続けていた。
それは救済ではない。
ただの、静かな支配の始まりだった。




