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波形の設計図、凡人の境界線

朝の光は、この古いシェアハウスの埃を可視化するためだけに存在しているようだった。

一階の共同キッチン。

昨夜の狂騒が嘘のように静まり返った空間で、僕は昨夜忍さんがぶちまけた札束の残骸を数枚拾い上げた。

金の匂いは、鉄錆とメイプルシロップの甘い香りに負けて、ひどく無機質なものに成り下がっている。


律さんは、テーブルの端で黙ってスプーンを動かしていた。

彼女の視線の先には、昨夜の残り物があるわけではない。

空中に浮かぶ何らかの、僕には見えない情報の羅列を追っている。

彼女はときおり、ピアノを弾くように指先をわずかに動かす。

それは食事という日常の動作の一部ではなく、世界の解像度を確認するような、神聖で、残酷な儀式に見えた。


「……海。そこ、音がずれてる」


律さんが、不意に口を開いた。

彼女の指先が、空の一点を指す。

そこには古い換気扇が回っているだけだ。

僕は耳を澄ませる。

微かな金属の擦れる音。

僕が専門とする、弦の物理的な摩擦に似た、不規則な振動。


「直しておきます。……だと思います。ただ、僕にはまだ、そのずれが正解なのかどうか分からないんです」


「正解は、もうここにある」


彼女は自分の側頭部を軽く叩いた。

律さんにとって、音は鳴らされる前に完成している。

空間に音が定着する瞬間、彼女はただ、頭の中にある完璧な設計図をなぞるだけだ。

そこには試行錯誤も、肉体的な葛藤も介在しない。

ただ、神の手が図面を引くような、圧倒的な超越性だけがある。


僕は、手に持っていた雑巾を強く絞った。

調律助手として、僕は常に音の背後にある「理由」を探している。

なぜその音が鳴るのか。

木材の湿気、弦の温度、フェルトの摩耗。

そんな泥臭い物理的条件を積み上げて、ようやく一音の正解に近づこうとする僕の努力は、彼女の天才性の前では、砂漠に水を撒くような無意味さに思えた。


「律さんの見ている世界は、きっと僕の知っているものとは違うんでしょうね。僕には、波形なんて見えないし、音が色を帯びることもありません」


「……海。音は、設計図。色じゃ、ない」


彼女は短く否定した。

その淡白な口調は、僕を突き放すためのものではなく、単なる事実の羅列だ。

感情の省エネ。

彼女のエネルギーはすべて、その精密な聴覚と視覚の統合に注ぎ込まれている。


階段から、志摩さんが降りてくる音がした。

一階三万八千円、二階四万六千円。

その家賃の差と同じように、僕たちの間には明確な階層がある。

才能を持つ者と、それを見つめることしかできない者。

あるいは、過去に執着する者と、今という瞬間にさえ居場所がない者。


志摩さんはスマートウォッチを操作しながら、冷蔵庫から水を取り出した。

彼の眼鏡の奥にある瞳は、常に理知的で、同時にどこか別の場所を見ている。

倉田理花さんという、デジタルの底に沈んだ過去。


「浅葱くん。律さんの調律を君が担当するのは、少し荷が重いんじゃないかな。彼女の耳は、最新の解析ソフトよりも精密だ。君の固執する『弦の摩擦』は、彼女にとっては単なるノイズでしかない可能性がある」


志摩さんの言葉は、丁寧な敬語の形を借りて、僕の心臓を的確に刺した。

彼は相手の傷口に土足で踏み込むことを、論理的な親切心だと勘違いしている節がある。


「分かっています。僕はただ、助手ですから」


「助手だとしても、理解できないものに関わるのは不幸だ。特に、彼女のような超越者にはね」


志摩さんは水を飲み干すと、再び二階へと戻っていった。

後に残されたのは、換気扇の不規則な音と、律さんの静かな呼吸だけ。


僕は、地下の防音室へと向かった。

五Gの電波さえ遮断される、情報の真空地帯。

そこには古いグランドピアノが鎮座している。

重厚な黒。

鉄のフレーム。

何千もの部品が組み合わさった、物理的塊。


僕は鍵盤に触れる。

音は鳴らさない。

ただ、ハンパーが動く気配を感じる。

律さんは、この塊を設計図として捉え、一ミリの狂いもなく支配する。

一方で、僕はその狂いの中にしか、人間が生きている証拠を見つけられない。


この場所に集まった僕たちは、誰もが何かの避難所を求めている。

地価高騰に追われ、SNSのノイズに疲れ果てた僕たちが、メイプルシロップのような甘い依存に沈み込むための聖域。

けれど、聖域であればあるほど、その境界線は鋭利に僕たちの肌を切り裂く。


「……海。弾いて」


いつの間にか背後に立っていた律さんが言った。

僕は首を振る。


「いえ、僕は調律師です。弾くのは、あなたの役割です」


「弾いて。海の音、聴きたい」


彼女の瞳は、やはり僕を映していない。

彼女が聴きたがっているのは、僕という人間ではなく、僕が作り出す不器用な、AI補正など望むべくもない「死に損ないの音」なのだろう。


僕はゆっくりと、真ん中の「ド」を叩いた。

弦が振動し、音が空間に放たれる。

僕にとってはただの振動。

けれど、律さんはその音を、まるで宝石の欠落を数えるような目で見つめていた。


届かない。

どれだけ手を伸ばしても、彼女の描く設計図の中に、僕の居場所はない。

僕は、自分が彼女と同じ地平に立てないことを、改めて思い知らされる。

それは静かな絶望であり、同時に、救いでもあった。

天才の隣にいる凡人に許された、唯一の自由。


僕は、彼女の耳に届くすべての音を、正しく、けれど歪んだままに保ちたいと思った。

それが、僕にできる唯一の調律だ。


キッチンのメイプルシロップの匂いは、まだ地下まで届いていない。

代わりに漂うのは、古い鉄錆と、止まった時間の匂い。

僕は次の音を鳴らすことを躊躇い、ただ、律さんの視線の先にある空白を見つめ返した。

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