狂騒の帰還、あるいは黄金の雨
シェアハウスの廊下には、築数十年の湿気が鉄錆の匂いと混じり合って停滞している。
その重たい空気を切り裂くように、玄関の扉が乱暴に跳ね上がった。
現れたのは、八年もこの場所に居座り続けている万能の怪人、守屋忍だった。
数日間、行方も告げずに姿を消していた彼は、数千万単位の現金が詰め込まれたボストンバッグを足元に放り出した。
ジッパーの隙間から覗く紙幣の束は、この薄暗い廊下において、ひどく不機嫌な輝きを放っている。
「おい、海。誰か適当なやつを呼んでこい。金ならある。宴会だ」
忍の声は、熱に浮かされているような傲慢さと、それ以上に底知れない虚無を孕んでいる。
僕は、廊下の隅で呆然と立ち尽くしていた。
彼にとって、世界の経済バランスをサイバー空間の端から弄ぶことは、ただの暇つぶしに過ぎない。
その手元にある紙幣は、実体を持たない情報の残骸が形を変えたものだ。
「……別に、僕はいいんですけど。結城さんは、あまり騒がしいのは得意じゃないと思います」
僕は、自分を突き放した淡白な声で答えた。
けれど、忍は僕の言葉など最初から演算に入れていない。
「いいから動け。律の歓迎会だ。あの天才様がこの情報の墓場に来たんだ。盛大に祝ってやらねえとな」
彼はボストンバッグから札束を掴み出すと、天井に向かって放り投げた。
黄金の雨が、カビ臭い空気をかき回しながら床に散らばる。
日常の足元が、物理的な金の重みによって歪んでいくのが分かった。
僕は溜息をつき、一階の共同キッチンへと向かった。
宴会といっても、この場所の住人たちが満足に食事を摂る習慣はない。
僕は大型の鍋を取り出し、炊き出しの準備を始めた。
玉ねぎを刻み、肉を炒める。
包丁がまな板を叩く規則正しい音だけが、僕にとっての唯一の論理だった。
鍋の温度が上がり、湯気が立ち込める。
僕は仕上げに、棚の奥からメイプルシロップを取り出した。
シロップの琥珀色が、煮込まれた茶褐色の海へと溶け込んでいく。
甘すぎる香りが、鉄錆の匂いを上書きしていく。
それは、情報の海に溺れかけた僕たちが、物理的な生存を確認するための、ささやかな隠し味だった。
「海、その飯のシロップが足りねえよ」
いつの間にか背後に立っていた忍が、低体温な標準語で指摘した。
彼の瞳は、先ほどまでの狂騒を嘘のように拭い去り、冷たい光を宿している。
「これ以上入れると、食べ物じゃなくなります。……だと思いますけど」
「いいんだよ。ここは情報の真空地帯だ。過剰なくらいが丁度いい」
忍は強引にボトルを奪い、鍋の中に甘い液体を注ぎ込んだ。
過剰な糖分が、空気の密度を変えていく。
二階からは、志摩巧の精密なタイピング音が聞こえていた。
彼は最新のガジェットで管理された清潔な部屋から一歩も出ず、デジタルデータの海で亡き柳の足跡を追い続けている。
この狂騒さえも、彼にとってはノイズのひとつに過ぎないのだろう。
やがて、地下の防音室から結城律が姿を現した。
彼女は、散乱する札束を避けることもなく、ただ無垢な足取りでキッチンへと歩いてくる。
その瞳には、目の前の金も、漂う甘い香も、等価値の情報として映っているようだった。
「……海、いい匂い。甘い、音がする」
律が、短く断定を避けるように呟いた。
彼女にとって、嗅覚も視覚も、すべては波形として処理される。
僕が作った不格好な炊き出しが、彼女の中でどんな「音」として響いているのか、凡人の僕には想像もつかなかった。
「律、座れ。今日は俺の奢りだ。この国の経済のゴミを食わせてやる」
忍が、傲慢に椅子を引く。
律は言われるがままに座り、差し出された皿を見つめた。
彼女の指先は、まだ壊れていない。
打鍵する前に正解を確定させるその指が、プラスチックのスプーンを握る。
律が一口、シロップたっぷりの食事を口に運んだ。
その瞬間、彼女の眉が微かに動く。
「……熱い。でも、静か」
その言葉が、僕の胸を鋭く刺した。
情報のノイズに疲弊した僕たちが、このグレーの吹き付け塗装に囲まれた聖域で求めているのは、ただ静かな実在だけなのだ。
数千万のキャッシュが床を埋め尽くし、メイプルシロップの甘い香りが充満する。
閉塞したリミニス・ベースの空気は、忍の帰還によって確かにかき回された。
けれど、その中心にある静寂だけは、誰にも調律することができない。
僕は、自分たちの居場所がいつか崩れることを予感しながら、もう一杯、律の皿に料理を盛り付けた。
今はまだ、彼女が美しい音を奏でる前の、凪のような時間の中にいたいと願っていた。




